5.法王のカード

参考資料は松村潔氏の2012年の音声ファイルからです。

一般的には、カードの絵柄そのものや法王という名前からするとたくさんの人々を祝福するとか宗教の権威のイメージになりやすい。バニングの発想だと、信念体系を共有する。ルールに従う、システムに順応する、集団に帰属する、学校や会社、組織とかに従属する、と捉えられやすい。

生命の樹のパスの対応だと、左上の柱であるコクマーから胸のケセドのパスで上から下に降りてくる単独のパス。ケセドは社会集団をあらわしている。左側だけのパスは個人をあらわしていないので、バニングの説明のように集団組織とかに参加するときに活性化するとか祝福が起きるというような点では共通している。

しかし、このイメージと5の数字に矛盾があって、占星術だと5番目のサインの獅子座とか、クリエイティビティ、遊びを示す5ハウスを想像する。もともと獅子座というのは支配星が太陽で、太陽は太陽系の中心で人体で言えば心臓みたいなもの。こういう中心から外側へ広げていくみたいな意味、自己主張とかわがままさとか、自己劇化衝動とか遊び性をあらわす。

どちらかというと、五角形は個人の楽しみみたいなものをあらわしていることが多くて、この法王のカード、司祭のカードはバニングの説明や、生命の樹の並びでは個人性というのが完全に除去されているような意味が強いことで、矛盾を感じやすい。

4の数字から次に5の数字に数字は順番に移動していくんですが、4の数字は春夏秋冬とかあるいは東西南北という形で環境とか自然界なんだと説明しました。

人間の意識としてこの4という数字に同化していくと、自由性というのが全くなくなって、いってみれば環境に順応したような、縛られたような状態になっていきやすいという傾向がある。

それに対して、5という数字は図形では5角形をあらわしていて、頭がひとつ、手がふたつ、足がふたつの人間の形を表現していて、自然界の法則に対して自由な立場にあって、自由に動き回れるようなそういう生命とか人間っていうことを表現している。なので、ある種の人間的な楽しみとか遊びとか感情のふくらみとか興奮状態、そういうものっていうのをあらわしていて、4と5の対比っていうのは非常にはっきりしている。

3の女帝はどんどん生産していく力だったんだけれども、4は型にはめた状態で秩序だった普及させていく、拡大させていく

これが次の5になるとジャンプするとか膨らみ感とかっていうような盛り上がり状態をあらわしていて、4のように環境にベタな形で縛られているような状態ではない。

プラトン立体の5種類は4元素+それ以外のもの、5番目の元素は正十二面体に割り当てられていて、それの名前を呼んではならない。非常に神聖なものである。第5元素は生命そのものをあらわす。タロットの最後の世界のカードは外側に4元素があって、輪っかの中に人物が立っていて、これが第5元素ってことで、この両性具有の人物は男女に分割されていないので、性に分割されると第5元素ではなくなるので、そういう意味では生命そのものというを原理を第5元素におくということ。

4の数字が環境にベタな形で連動しているというところからすると、そういうことに対して5番目のものは自由な状態。アリストテレスで言うと、月の下に4元素、月の上に5元素ですから、なにか地上原理に支配されていないものというのをあらわしていることになるんです。

5の数字は幾何図形として考えた場合は、5角形ということなんですが、5角形の1辺と対角線の比に黄金比が入っている。この黄金比はだいたい1:1.618とか、1:0.618とかって比率なんですよ。ある種の自己生成的な拡張みたいな形をもっている。 黄金比はパルテノン神殿の比率とかが有名なのですが、美術品とか音楽とかいろんなものにかなり頻繁に活用されている比率なんです。自然界の中にはこの黄金比率がたくさんあると言われていて、植物の葉っぱとかオウム貝の比率とか、自然界の中でもっとも安定して美しい比率と考えられていました。神格化されたイメージとしてとらえられることが多かった。自分自身の比率をそのままの形でそれがどんどん拡大されていくっていうのを対数螺旋ていうんですが、元のらせんがだんだん大きくなっていってラッパみたいな感じなんですよ。牛の角や象牙、銀河の渦もそうだし、はやぶさが移動するコースも対数螺旋と言われているんですよ。

黄金比率の対数螺旋は自分のもとのかたちを変えないまま増幅され大きくなっていく。

想念とか意識、感情とかそういう部分で考えてもいい。黄金比をつかっていくとそれがどんどん増殖していく。皇帝の4というのは地盤を作り出して環境を整えていく。4の四角は拡張するっていうのではなくて同じ型のものの数が増えていく。それに対して5の数字の方は黄金渦巻みたいな形でいうと回転しながら渦がだんだん広がっていくという感じ。

道路工事とか街づくりの基礎の基盤の部分を4の数字で作っていって、その中で人間の楽しい活動とか面白いものとかそういうものが上に乗っかった形で黄金渦巻で広がっていく。

4の数字の場合は対立した元素を組み合わせていて、4元素のどれかひとつが大きくなるということに対しては必ずブレーキがかかる。そこに関しては秩序意識とか抑制というものが働くのですけど、5の数字の対数螺旋の場合はどんどんエスカレートしていくとか、もとの形を変えないというのはそれに関して外からの干渉を受けないこと。

4は規則の中できっちりやっている人と、5はそれをあんまり気にしないで自分のやりたいことをどんどん広げていくみたいな人。

土と水はある程度着地するというか拡張しない、収縮する性質。風と火は外に飛び出したがる。ということは、1:1.618の方が風と火に対応しやすい。

人間の生活のなかで風と火と水と土の4つがまったく均等な状態はけっこう面白味がないと考えてもよくて、風と火は精神性とか想像力とか知識なんですよ。なので、それはある程度はみだしていく、大きく広げていく必要があって、もし風と火がまったく拡大する性質っていうのを持たないで、土と水と全く同じ比率になってしまえば、ぜんぜん夢も希望も持たないような生き方をしていくということに等しい。

5という数字の持つ黄金比の1:1.6181は言ってみると、1という数字をあたり前の標準のものと考えて、それをずっと続けるというのは、なんの発展性もない生活がずっと続きますよ、というような感じなんですよ。継続力、維持力ですね。 それに対して、1:1.618というのは夢を広げていくとか、今は手に入らないんだけれど欲張ってもうちょっとこういう風にしていってものを表現していると考えてもいい。

さきほどの対数螺旋ってのは1:1.618の矩形があったときに次の矩形ってのは、この1.618側を1とみなす。それに対して、1.618倍のものっていうのが想定されて、つぎの段階ではそれが1にみなされて、また次の1.618が発生するっていう形で、黄金渦巻みたいになっていく。

新しく手に入れたものが当たり前になってしまえばもうそれは何の刺激、意欲もなくて、さらに、そこを1として次の夢を見始めるみたいな形でどんどん増殖していく。

この黄金比の対数螺旋は,、収拾のつかないわがままな夢の拡大みたいな現状では満足できないものっていうのをあらわしている。

直線的に拡大すると実現しないんだけれど、1.618の比率でだんだんエスカレートさせていくと、いつのまにかそれは実現している。

自然界の法則の中で拡張を許されている、ただ回転するだけではなくて、対数螺旋的に拡大するってのが自然界の法則の中でそうゆうやり方をする限りは許す、みたいな。

メルキゼデクはフラワー・オブ・ライフの本の中でこのウィトルウィウス人体図というのを頻繁に使っていまして、マカバっていうのが、へそを中心とした形で描かれるように書き込んであるんですね。横から見るとマカバは6角形で、宇宙に飛んでいく飛行機だとか、その人間の意識の結晶体としての完全なまとまりであると言われている。環境に従属したものではなくて生命そのものの磁場を作っていく。

フォアフットで走っているときに、へそを中心とした方にシフトしやすく、地球上に張り巡らされた惑星グリッド上を移動する。

マカバは飛行機みたいなもの。物質的なものを根拠においているのではなく、磁場を移動する結晶体みたいなもの、地球上においては、惑星グリッド上を移動するというかたちで動いていく。

惑星グリッドに同調するためには、ウィトルウィウス的図の中のへそを中心としたマカバにシフトしていった方がいい。オーストラリアのアボリジニーのソングラインも惑星グリッドに沿ったもの。ある種の変性意識を通じてそれに同調する。走っているのは変性意識に入っていく。マカバはエーテル体をベースにして機能すると考える。

明治以前の日本人は、非物質をみたりお化けをみるとか、お化けと共存していたとか、そういう不思議な国で、日本にやってきた外人がみてびっくりしていた。縄文時代だともっとはっきりしていた。

柳田國男は、死んだ人間は仏教徒みたいな発想で、どこか彼岸の世界とかあっちの方にいくって風な考えは日本人ぽくない。やっぱり死んだ先祖は家の近所の山のてっぺんにいて家族を見守っている、みたいな発想ですよね。

そういう発想では、死んだ人は異次元に飛んで行くわけではなくて、近所の山のてっぺんをうろついている。そういう発想だと死者を頻繁にご近所でみるみたいな感じになりやすい。

柳田國男の「遠野物語」の99話の死んだ奥さんが歩いていたのをみたふくじ、というような話が書いてある。

死んだ人は、ニルヴァーナの世界や遠くの次元に行くのではなくて、近所をうろつくためにはどうしてもエーテル体が必要なんですよ。

ふつうは死んだ後に肉体からエーテル体が離れて、そのあと、アストラル体がエーテル体を切り離し、自我がアストラル体を切り離すみたいな、3段、4段ロケットみたいな形で切り離されていくのですが、物質にかぎりなく近いエーテル体を身にまとったままだとお化けみたいなもの。

お化けと違うのは中身の実態がそこにあるかどうか。脱ぎ捨てられたエーテル体は中身がないので、それが抜け殻のようにそこらへんをうろついているのが幽霊とかお化けというんですよ。中身は遠くに行ってしまっているということ。

柳田國男の言うような東北の古代の縄文時代の発想だと、中身の伴ったままのエーテル体の身体ということで家とか村とかの近所にとどまっている、これは日本特有なものでこれはいいな、できることなら自分もそういう生き方をしたい、と。

エーテル体の抜け殻が残って幽霊みたいになるというのが非常によくないことなんだというようなイメージは仏教が植え付けてきたものなんですけれど、その前まではナチュラルな発想だった。

ボーントゥーランみたいな、裸足走りとか肉食しないとかいう形で昔の日本式の走り方をするとウィウトイルス的人体図というダヴィンチの図のへそを中心としたやり方にスイッチが入っていってそれによってマカバが動きやすくなって同時に惑星グリッド、天国とつなぐ綱、エーテル体の部分なんですが、それが活性化しやすい。これは5の数字に関連付きやすい。

惑星グリッドというのは5つのプラトン立体のことをあらわしているのですが、これの中でプラトンが非常に重視していたのは正十二面体。正十二面体は一面が正五角形なんですよ。黄金比率と正十二面体はわりと関連しやすい。正十二面体は第5元素に関連しやすい。

日常の普通の感覚の生活に戻るには、正方形の方に移ればいいという話、走るのをやめて真っ直ぐに立っていればいいという話。

占星術のそれぞれのサインでは、30度の幅の中でいまの黄金比の比率の部分、30度に0.681をかけると大体18・54度、反対側からの計算を入れると11・46度も入ってきて、数え度数にすれば、12度と19度。

サインの中で数え度数の12度と19度は割と特殊で黄金比的な作用を持っているというのがこのふたつなんですね。12度は表向き見えないような未知のものを発掘するという性質があるんですよ。たとえば牡羊座の12度は野鴨の度数で、誰も教えたわけじゃないのに非常に綺麗な三角形飛行をするのはなぜだ?といた場合に、それは自然界の中に存在する秩序というのは黄金比そのものではないですか。19度の方は大風呂敷度数と呼んでいて、まだありもしないものをひろげていく。牡羊座の場合だと、魔法の絨毯といって、夢を広げていって実際にそれを形にしないといけないんですが、これまで話した、今までの現状の1から夢を描いていってそれにたどり着いて1にしていくというようなことに類似していると思うんですよ。

天秤座の19度は隠れた泥棒の集団というサビアンなんですが、これはサビアンの言葉そのものというのはあまりイメージはよくないけれど、実際のところガレージメーカーみたいなのがいずれ世界制覇するんだみたいなものですよね。Windows、マイクロソフト、マックとかにしてもみんな最初はガレージメーカーだし、マッキントッシュのコンピューターとか、はじめは木で切った箱の中に入って入っているじゃないですか。そういうのがどんどん拡大していくんだみたいなもの。これからそういう野望を持って夢を抱きつつ世界制覇なんだって数人で始めていくマイナーな集団を指すんですよ。勝てば官軍なんだけどうまくいかなければ怪しい人たち。これも、黄金比的な夢を描くってことなんですよ。

このへんをタロットカードの法王のカードに応用しようと思った場合には、皇帝が環境とか基本の部分を広げていって、法王のほうは、夢を広げていくとか、拡大していくとか、渦を作り出していくとか、ていう風な形の違いを対比として考えればいいんじゃないか。皇帝と法王の明確な対比を意識できればいいんじゃないか。

バニングの説明で集団に帰属する人が集まって大きな力になっていく感じでいえば黄金図形が対数螺旋で拡張していって大きな渦になって関連というのは考えられなくもない。 たくさんの人に働きかける性質というのは、まずは4の皇帝の、先に集団がいなくてはならない。 集団の中のそういう特定の共鳴する人々が引き寄せられればそこである種の輪ができあがるのが5の数字。

近所に大きなスーパーがあって、みんなそこに買いに行きますというのが4の数字。生活のためにずっと続けている1の集団性は4の数字で皇帝に属し、たとえば、原発反対というところの意図に共鳴して集まって渦を作っていくのが1.618の5の数字で法王に属する。

神と人間の仲介者ではないか?ヨーロッパの文化では人間が仲介者になっていく。日本の古神道イワクラみたいな人間がいないところ。

基本的に社会階層の中で選ばれた人という概念を作り出す。そうすると、価値のあるものとないものを作り出す。細かいところに向かった場合は、

そういう人間を使わないと考えた場合、動物を仲介者にしてみたり、岩をイワクラみたいにしてみたりする。人間社会に閉鎖してしまえば仲介者は人間でなくてはいけない。そこに閉鎖しなければ、そこらへんの動物とか虫とか岩とかになっていくじゃないですか。

日本式のタロットカードを作った場合は法王のカードには人物を描かないみたいな感じでもいいんじゃないかと思うんです。

生命の樹の場合ですとコクマーはアビスの深淵の上側の方にあるので人間的な世界ではない。ケセドはアビスの深淵の下側の方にあるので人間社会集団。なので、コクマーとの接点は人間的ではない方に開放していく。

日本の文化の中ではあまり法王的なものはあまり強調されていない。

個人としての仲介していないときに、わざわざ仲介者をおく必要がない。

イスラム社会では神との接点は個人個人がしなければならないという発想。キリストとか法王とか、そういうものの存在を認めない。

この間、岩手県の大沢滝神社というところに行ったのですが、これは山の中の水源の場所なんです。谷川に水が流れていて非常にいい場所なんですけど、瀬織津姫との接点に仲介者が誰もいなくて水の流れの中に接点を求めなくてはならない。目に見えないもの、0.618、1.618的感性、エーテル的なものを通じて夢の領域で通信していくようなものであって、岩があったりとか、建物があったりとか、異次元との接点、より上位のものとの接点はエーテル体しかありませんから、その部分を使わなければ、1の数字の場所というか、ただ見たまんま、そういうところにに留まる。

タロットカードのバニングの説明では、司祭とか法王のカードは、宗教的要素とか超自然的要素は説明に全く入れてなくて、教育と信念体系とルールに従う、集団に帰属するみたいな意味に終始している。

夢を追いかける、広げていくという意味をいれなければ、この法王と、皇帝のカードの区別はなかなかつきにくくて、かなり難しいものになると感じます。皇帝のカードで組織と書いてあり、司祭の方で集団に参加すると書いてある。

集団の場合でも、先ほどの生活を維持するという集団でも、たとえば会社に行って働いて給料もらっています、という集団もあれば、もう一つの要素としての共通の夢を追いかけて集まってくる、みたいな違いが出てくる。たとえば、会社に行きますよとか地域社会は、ホロスコープでいえば、蟹座、山羊座で4と10なんですよね。こんどは、夢を追いかけて集まっていくというのは獅子座の5と水瓶座の11。なので、同じ集団でも4の集団と5の集団では種類が違うという話。

実際には4の集団性と5の集団性は入り混じっていて、さっきの黄金比の説明をしたように、1.618的な夢を追いかけようとしてもそれが実現した段階で1になりますよね。 だからあたり前の話っていう形で組み込まれてしまって、それをもとにしてさらに1.618を求めるということになる。なので、5角形的なものは足りることを知らないというような感じもでてきやすい。

法王のカードの増長する性質とかエスカレートしていって留まることを知らないというのは特徴的。4.皇帝のカードのもつ押さえつけの意味はここではほとんどない。


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