大人気コンテンツ「ウマ娘プリティーダービー」のトウカイテイオー、マヤノトップガンに見る天才型の少女の「可愛さ」についての所見

はじめに

突然何かを文章として書きたくなるタイミングが来たので、酒の席でふと思い立った「ボクの好きなキャラ」の可愛い部分を紹介しようと思い、筆を執ってみた。徹頭徹尾頭からしっぽまでテイマヤの可愛さを語るだけなので、私と同じく時間が有り余っている人がいれば、読んで頂けるとありがたい。
人は自らが理解できるものに対して共感し、好感を持つものだ。だからこそ他者理解は自分の持つ能力の範囲を決して超えない。自分はこの二人という存在をどういった観点で見、どこに好感を覚えているのかという所から、先ずは切り込んでみようと思う。

「天才」とは

「天才」とは「生まれつき備わったすぐれた才能。 また、そういう才能をもっている人」(『広辞苑』) を指す。ある集団で同じだけの時間、全員が知らない事柄について勉強をさせると、その習熟には差が生まれる。その「差」が概ね「才能」の差であると言っても良い。どうして自分と同じだけ努力をしているのに、結果に差ができるのか?こう思った事は誰しもあるだろうが、そういった場面に直面した時ほど、「才能」という言葉を意識することも無いだろう。今回取り上げるトウカイテイオーとマヤノトップガンの2人も、作中でその才能について強調される描写が多い(そもそも作中に登場しているウマ娘の殆どが競争に勝ち残った天才であるという点は置いても、である)。トウカイテイオーについては、そもそもの天性の体のしなやかさや、学問に置ける成績の良さ。マヤノトップガンについては、直観的に正解を導き出すひらめきや、練習に執心している訳では無いにも関わらず、好成績を残す、といった点だ。人間として素養(スペック)が高い、という点は、先ず2人の魅力的な点として挙げられるだろう。

天才が持つ「無自覚な傲慢さ」の魅力

上では素養(スペック)の面での天才について書いたが、こちらではそれに付随する性格面について考えてみたい。人間はその生い立ち、能力、環境等、様々な要因によって自我(アイデンティティ)を形成し、それがパーソナリティを生む。心理学者のエリクソンが提唱した「心理社会的発達理論」によると、12歳~18歳の期間は「青年期」または「思春期」に分類され、自分とは何か?という命題を通じて確立した自我(アイデンティティ)を獲得する戦いの時期である、とされるが、学園生活を送る二人は正に、この自我を獲得する戦いの真っただ中にいるという事だ。他人よりも優れた能力を持つ、という事は、自己と他者の違いをより鮮明に理解できるという事であり、その能力が自我に与える影響は大きい。それはプライドという形でパーソナリティに表出し、良くも悪くもその人間を特徴づけるだろう。トウカイテイオーは人の名前を覚えないという点に、マヤノトップガンは直観的に他者を理解し評価するという点に、無自覚な傲慢さを感じることができる。それは畢竟無意識下ではあるが、自分より劣った人間に興味がないという宣言であり、また、相手の言葉を必要とせず、自らの判断が絶対であるという宣言である。自分が優れているという万能感はこの時期の人間の多くが一度は持つものだ。私自身も中学の時分、自らが学問においては優秀であると信じ、また実際学内という狭い世界の中では比類するものがごく少数であった。成長した現在では自分よりも上なぞいくらでもいる事は理解できるし、自分の能力の底が見える年齢にもなった事もあり、万能感を持つことも無い。だが、だからこそ、あの当時抱いていた自尊心、当時の時分よりもさらに強く、傲慢なまでに自分を信じることの出来る若い心の動きにどうしようもなく魅力を感じるのも無理からぬ事だろう。あるいは、あの若き日に捨て去ってしまった絶対の自信を名残惜しんでいると言い換えても良い。スポーツマンシップのような綺麗なものではない、もっとドロドロとしたものが、自分を惹きつけて止まないのである。

いずれ待つ挫折と、乗り越えた先に待つ自己の止揚

圧倒的な能力に裏打ちされた強固な自我。その素晴らしい輝きも絶対のものでは無い。競争という観点からみれば、絶対的な勝者等存在する筈もなく、極論世界で頂点に立つ唯一人以外は、等しく誰かに負ける経験をする。高く上った山からの滑落程衝撃が大きいのと同じく、自分を強固に信じていればいるほど、挫折の時の衝撃もまた大きい。トウカイテイオーもマヤノトップガンも、作中でレースでの敗北という最もわかりやすい形での挫折を経験し、自我の崩壊の危機に陥る。この状態になって改めて自己とそれを取り巻く環境に目を向け、自我の再構築を試み、環境による変容を経て止揚に至る訳だが、ここにゲーム内でのトレーナー、即ち自分の介入する余地があるのだ。自分よりも遥かに優秀な能力を持つ子どもを教え、導く事が出来るというのは、率直に言って様々な種類の快楽をもたらしてくれる。それは自尊心の回復を企図する英雄願望からくる快感であり、優秀な存在を自分に近い考えへ寄せる、源氏物語の光の君にも見られるピグマリオンコンプレックスの発散であり、純粋な好意を獲得できる事への単純な喜びもある。自分をゲーム上のトレーナーに一部重ねて見る事でこういった欲求を満たしているのは、二人を「可愛い」と思うその全てではないが、一部として持っている欲求だろう。

総括

ここまで確認してきた魅力を纏めると、一握りの選ばれたウマ娘の中でもさらに才気溢れる能力を持ち、それに裏打ちされた自信と確固たる自我を持ちつつも、ある側面からみると普通の思春期の少女としての弱さがあり、自身(トレーナー)が手助けをする事ができる点で、魅力的に感じているという事になる。自分よりも若く才能溢れる二人に対する憧憬もそこに足されている事だろう。完璧さを感じない才能は、ともすると冠絶した天才よりも只人の共感を得る事が出来る存在なのかもしれない。そういった意味では、ウィニングライブを踊る、偶像の意味でのアイドルの側面を持つウマ娘としては貴重な才能である事だろう。好きなキャラ一つとっても、こうやって「何故」を掘り下げると自我のルーツ、積み重ねた偏見を再発見でき、改めて自分を見直す事が出来る。たまには好きな〇〇発表ドラゴンに扮するのも悪くないものである。

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