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萬翆荘


萬翆荘 愛松邸 愚陀佛庵 入口

入口

管理人舎

大正浪漫を今に伝える、日本が誇るフランス風洋館

萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。
陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。
萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、建築その物も美術品として昭和60年(1985年)に愛媛県指定有形文化財となりました。
その後、平成23年(2011年11月29日)に萬翠荘本館管理人舎の2棟が国重要文化財に指定されています。

http://www.bansuisou.org/about/


萬翠荘本館

【設計者:木子 七郎[きご しちろう](明治44年東京帝国大学卒)】

松山城の山麓に建てる別邸は久松定謨伯爵は、フランス生活が長かったことからフランスへの熱い思いをかたちとしたものです。建築にあたっては当時の新進気鋭で優れた建物を数多く手がけている木子七郎に白羽の矢を立てました。伯爵の思いを十分に受け止めた木子七郎は西欧の建築をつぶさに学ぼうと数ヶ月間ヨーロッパを遍歴し、そのエッセンスを吸収しました。そこで、木子七郎は西欧建築でありながら最高のものを造ろうと決意し、デザイン、構造、調度、装飾など全てを第一級品で設えました。そのため、萬翠荘はヨーロッパの人も驚くほどのフランス風の美しい建造物となりました。

木子七郎は代々宮大工の家系に生まれ、東京帝国大学建築科を卒業、日本の主要な建造物300余りを手がけた驚くべき建築家です。東京放送局愛宕山放送所、東郷侯爵目黒本邸、大阪国技館、日本の赤十字病院の大部分を設計しています。夫人が愛媛出身の新田長次郎の娘であったという縁で、愛媛県では愛媛県庁、鍵谷カナ頌功堂など数多くの建物が残されています。

県庁本館が昭和4年に約100万円で建設、その7~8年前(大正11年)にはるかに小規模の分館に約1/3の30万円での建設がいかに巨費であったか理解できる。

http://www.bansuisou.org/about/


萬翠荘は、総面積887.58m²(268坪)の地下1階、地上3階、愛媛県で最も古い鉄筋コンクリート造り。ネオルネッサンスと呼ばれる格調高い様式で、西洋建築の多くは左右対称だが、萬翠荘は日本人のアンバランスの美意識、左右非対称で構成。

正面の車寄せと玄関ホールの柱の頂部は、コリント式と呼ばれるギリシャ建築に由来の飾り。また、屋根頂部は銅板を使用し、その下の急勾配は天然スレート葺。20世紀初頭に欧州を風靡したアールヌーボーの作風。避雷針の先端には、松山藩の大判・小判が使われ各所に工夫が見られる。

http://www.bansuisou.org/guide/
玄関ホールの柱の頂部 ギリシャ建築に由来の飾り
岡山産?貴重なピンク御影石の柱

中央部がわずかにそっていて女性を模した形


謁見の間

白を基調にした部屋
扉の上の二枚の絵を制作した八木彩霞について
「三坂峠」

伊予松山藩15万石の財政を支えた水田の広がる
松山平野を三坂峠から遠望したパノラマ


ベルギー製の大鏡
当時ゆがみのないきれいな鏡はなかったため
ベルギー製の精工な鏡を取り寄せた


謁見の間は現在はイベント会場
この日は八木彩霞画伯の
幼少期から成人画伯までの道のりを
落語で語るイベントであった

Hiro 彩霞 さん(八木彩霞さんのお孫さん)によるイベントの一環
前夜は萬翆荘の向かいにあるANAホテルの高層階から
ライトアップされた萬翆荘を見ながら祝杯したとのこと

パンフレット
部屋の奥
絵とシャンデリアと窓のステンドグラス
天井や壁、扉の細工も凝っている
「神奈川台場の図」

江戸幕府から神奈川湾警備を命じられた
松山藩が藩財政1年分に当たる7万両と延べ30万人を投入し
わずか1年で築造した神奈川台場から神奈川湾、さらに遠く房総半島を望むパノラマ

明治以降、横浜が港町として発展し始めた背景を
萬翠荘の壁画に見ることができる。

なぜ神奈川 横浜の絵なのか疑問だったけれどなるほど
八木彩霞画伯とともに松山藩にゆかりのある場所だった



入口

玄関ホール右手の柱を隔てて
晩餐の間(黒基調)と 謁見の間(白基調)
自由に立ち入りできる


晩餐の間

暖炉(ガスストーブ)大理石製
各部屋ごとにデザインが異なりベルギー製の鏡が設置

暖炉の横に隠し呼び出しボタン
「 使丁  侍女  事務 」 があり
受信装置のある部屋のベルが鳴る仕組みになっている
この時代に機能的な仕組みもすでに


水晶シャンデリア

水晶シャンデリアの下はパワースポットとして有名らしい
水晶浴びる
浴びる
浴びる
浴びまくる
水晶パワー充満
一本の水晶は20~30㎝くらいありそう
天然で大きさもばらばらだそう



二階部分

玄関を入ると左右対称の柱が出迎える
二階から有料で拝観

ステンドグラス

踊り場壁面のステンドグラス  木内真太郎氏の作品
それぞれのガラスの色彩は
単一ではなくグラデーションになっている。

波と帆船は久松定謨が
明治20年にフランス陸軍士官学校に入校
明治35年フランス公使館附武官就任の際に渡った
海原を思い起こさせるものとなっている。


各部屋の装飾

裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問時にお食事部屋として使われた
テラスからの風と日差しがそそそぎ爽やかな部屋
若かりし頃の裕仁親王と昭和天皇としての肖像画のある部屋
天井が美しい
各部屋のドアの上のステンドグラスはすべて柄が違う
廊下にもステンドグラス





萬翆荘紹介展示室

萬翆荘模型
愚陀佛庵

萬翠荘の裏手にある愚陀佛庵は、夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任した際、下宿していた上野家の離れを当時の雰囲気そのままに復元した。
しかし、2010年7月12日の記録的な豪雨で、松山城の城山において大規模土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」は全壊。

正岡子規が療養のために居候し、1階に正岡子規、2階に夏目漱石が住み、52日間共に過ごし、俳句づくりに没頭しました。小説「坊ちゃん」はここで過ごした松山での教師体験を元に生まれました。

http://www.bansuisou.org/gudabutsu/about.html
夏目漱石 正岡子規 ゆかりの場


帰り道にであった猫ちゃん
広々楽しそうに動き回る



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Instagram/sophi3ko









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