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危機における憲法/憲法における危機

今日ほど憲法について考えさせられる事はなかったように思える。もちろんここでの憲法とは「日本国憲法」を指すが、市民が「国家の基本法」たる憲法について「現在進行形で」「真摯に」考える事は「国家の危機」が現実のものとなっているからに他ならない。為政者が憲法秩序を無視した振る舞いをする事は、国家、そして市民にとって最大級の脅威とすら言えよう。立教大学名誉教授の渋谷秀樹氏は、憲法についてこう述べている。

よく「憲法とは空気のようなものである」と言われます。空気は、生物が生きていく上で欠くことのできない重要なものですが、空気を吸ったり吐いたりすることが私たちの意識にのぼることはほとんどありません。ところが、空気が汚染されたり、酸素濃度が低下したりすると、たちまちその存在を意識せざるをえなくなる。空気に対する無意識の状態が、私たちと空気との最も良い関係を表しているとも言えるでしょう。
憲法も同じです。私たちの日々の生活そのものが、憲法を基盤として営まれていますが、そのことをいちいち気にとめたりはしません。けれども、いったん社会が日常の営みからはずれ、危機的状況に至ったときには、憲法を強く意識しなければならなくなる。というのも、憲法は、私たち一人ひとりの生命や自由が脅かされないようにするために存在しているからです。憲法がはっきりと姿を現してくるのは、個人の生命や自由が危機に陥ったときです。(渋谷秀樹『憲法への招待』より)

言うまでもなく憲法とは「公権力に歯止めをかけて市民の自由と権利を守るための基本法」である。憲法が機能しなくなれば直ちに公権力の箍が外れ、市民の自由、権利そして生命は悉く剥奪される。憲法に対する危機感とは「憲法の規定そのもの」ではなく「憲法の機能不全/死文化」に対するものである。「憲法の名宛人」たる政府が憲法を遵守し、誠実に執政している限り、市民が憲法について日々頭を悩ませるくらい考えるという事態とはなるまい(尤も、国民主権を謳っている以上市民が憲法について全く考えないというのも問題ではあるが)。
政府与党である自由民主党は、事ある毎に「憲法改正」を訴えているが、そもそも「憲法という規矩準縄の名宛人」たる政府与党が一方的に「改正」を主張する事自体が筋違いであり、これこそが「憲法の危機」であると言えよう。市民にとって「空気」に匹敵するライフラインたる憲法について、歯止めをかけられる側が歯止めから脱却し、市民に対して歯止めをかけようとしているのだから。とりわけ自由民主党が意欲を示しているのが「緊急事態条項の新設」である。これは端的に言えば「緊急事態の際に内閣/内閣総理大臣が権限を掌握し、必要に応じて市民の自由と権利を制限する」というものであるが、この「緊急事態」については「その他の法律で定める緊急事態」という文言がある。つまり法律によって、事後的に、際限なく、「緊急事態」として設定が可能なものである。したがって、この「緊急事態条項」によって「緊急事態」の名の下に公権力による市民の自由/権利侵害が公然と行われる事もあり得るのである。これは「権力に歯止めをかけられる側である政府が市民の自由と権利に歯止めをかける」事を意味し、政府による立憲主義に対するクー・デターと評しても差し支えないであろう。
ところで、憲法に限らず、ルール(規範)は、遵守されなければ全く無意義である。たとえば、大学入試とは各々の受験生が志望大学に向けて「受験勉強」をし、試験という「ゲーム(ルールに基づいて行われる競争)」に参加し、「合格点」が得られれば入学資格を得られるというものである。ここでの「ゲーム」においては「制限時間」「不正行為禁止」といったルールが課されているが、時間終了後も解き続けたりカンニングをしたりすればそれは「ルール違反」として失格となる。憲法や法令も亦然り、である。政府与党が「憲法改正」を訴えようとも、それが遵守されなければ画餅に過ぎない。そして現に、自由民主党を始めとする政府与党は「臨時国会召集」という憲法第53条に規定されたルールを遵守しなかった。この問題について与党擁護者の中に「第53条に期限が設けられていないのが問題である」と主張する者が散見されたが、的外れであると言わざるを得ない。「期限が設けられていないから遵守しなくても良い」と言っているに等しいからである。たとえばレストランでカレーライスを注文したものの、数時間も提供されず放置された場合、レストラン側が「提供時間は設定していないから提供しなくても問題ありません」と言えばそれで許されるのであろうか。「臨時」国会である以上「召集要求を満たしたら速やかに召集する」事が求められるのは当然であろう。現行憲法というルールを遵守しないで、どうして「改正憲法」を遵守できるだろうか。
しばしば憲法においては「勤労、子への普通教育付与、納税」という「三大義務」が挙げられるが、憲法第12条に規定される「自由及び権利の保持義務」こそが最も重要な「国民の義務」であろう。「自由/権利」があるからこそ、私達は「人として生活できる」わけである。こうした自由/権利は「不可侵」のものである筈だが、為政者の毒牙にかかれば忽ち崩壊する。日本において、軍部が政権を掌握し「八紘一宇」「大東亜共栄圏」を掲げつつ、内外問わず多くの人の生命、自由、権利を剥奪したという「愚行」からまだ100年も経っていない。「隣組」というパノプティコン、「神風特攻隊」という人命を道具のように扱う非道、「欲しがりません勝つまでは」と戦勝のために市民を圧迫。そこに「自由」「権利」は見当たらない。私が抱く「憲法の危機」とは「自由及び権利消滅の危機」でもある。「自由/人権保障」とは公権力の横暴に対するアジールであるが、政府与党は「憲法改正」によってそのアジールを掘り崩そうとしている。
近時の「オミクロン株の市中感染拡大」という状況は、紛れもなく政府与党の懈怠によるものである。市民や野党が「空港検疫にPCR検査を導入せよ」と再三要望していたにもかかわらず、政府は頑なに拒否し続け、結果オミクロン株の侵入を許す事になった。つまり日本における危機的状況を政府与党が作出しているわけである。にもかかわらず、政府与党はアジテーターの如く「緊急事態条項の創設を」と主張し続けている。恰も「憲法改正」するために意図的に感染拡大を惹起しているかのように思えるのは、私だけではあるまい。
憲法の各種人権規定は、公権力の横暴に対する「切り札」でもあり、また「公共の福祉」に反しない限り保障されるものである(思想及び良心の自由といった純粋内面的な人権は「公共の福祉」の制約すら受けないが)。「公共の福祉」については諸説あるが、結局は「他者との人権衝突の調整理論」という事に帰結するであろう。たとえば「表現の自由」への規制根拠として挙げられる「街の美観や静謐」「性道徳の維持」について、これを「社会全体の利益」と取る説もあるが、社会を構成しているのも結局は個人であるという意味で、上記の規制も結局は「個人の福利」に還元されると私は捉えている。ところで、「公共の福祉」と似て非なるものに「自由民主党改憲草案」で見られる「公益及び公の秩序」というものがある。これは「為政者の匙加減によって各人の人権を劣後させるためのもの」であり、明治憲法に見られた「法律の留保による臣民の権利制限」よりも悪質なものである。内容はさておき「法律」という比較的明確な基準で権利を制限していた明治憲法に対して、自由民主党改憲草案では「公益及び公の秩序」という漠然不明確且つ恣意的な基準によって市民の自由/権利を制限する事が可能とされる(もちろんこう書くからといって明治憲法を擁護するつもりは一切ない)。そこにおいて「法の支配」はない。あるのは、近代国家とは程遠い「市民の基本権に対する人の支配」である。

参考文献

⭐️渋谷秀樹『憲法への招待』(有斐閣)
⭐️長谷部恭男『憲法』(新世社)
⭐️渡辺康行/宍戸常寿/松本和彦/工藤達朗『憲法1』『憲法2』(日本評論社)

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