見出し画像

安倍晋三の国葬を糾弾する

何から何まで違憲/違法の国葬

2022年9月27日、山上徹也の凶弾で斃れた安倍晋三の国葬が日本武道館において執り行われた(事件についての詳細はここでは言及しない)。市民の過半数が反対しているという状況で、しかも国会での議論もされず「閣議」という非公開手続によって当該国葬は決定された。事ある毎に「聞く力」をアピールしている岸田文雄だが、国葬反対という多数の市民の声は耳に入ってこなかったようである。これだけでも十分に深刻な問題であるが、いち個人たる安倍晋三について「国葬」という破格の扱いをする事は、以下に述べる通り現行憲法下においては到底是認できないものであろう。「民主主義を断固守り抜く」として国葬を強行した岸田内閣であるが、国民代表機関たる国会での議論をしないという時点で民主主義を紊乱/愚弄しているのである。

国葬という制度自体が違憲

「国葬」について定めた戦前の勅令(天皇による「法律による委任なし」の命令)である「国葬令」は日本国憲法施行によって失効している。既に失効している法令を何らの立法手続も踏まずに「復活」させ「適用」する事は「法の支配」を毀損する行為であり到底許されるものではない(仮に「『国葬儀』であるから戦前の国葬ではない」という「屁理屈」を掲げても、いち個人たる安倍晋三を法令の根拠もなく天皇に準じた扱いをする事は憲法第14条「法の下の平等」に反するであろう)。憲法第41条で規定されている通り、国会は「国の唯一の立法機関」であり(法律に基づいた内閣による政令や、地方公共団体の条例等は別論)、また、憲法第4条第1項により天皇は「国政に関する権能を有しない」。したがって、現行憲法において「勅令」というシステムはあり得ない。そして憲法第98条第1項にある通り、憲法の「条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」のである。
また、岸田文雄は、安倍の遭難後程なくして「国葬を行う」旨を公言したが、その後に(国会での審議ではなく!)閣議決定によって行おうとしたのである。つまり「現行法においてできない事をする旨を公言し、その後できるようにする」という流れであり、完全に「法の支配」から逸脱している(言うまでもないが、内閣の職務は「法令に基づいて執政を行う=法律を誠実に執行する」事である)。法規範の「法的安定性」「予見可能性」を全否定する所業であり、これだけでも内閣総辞職ものであろう。
ところで、「国葬は内閣府設置法第4条第33項の『国の儀式』に該当するから違法でない」という見解が散見されたが、内閣府設置法は「事務配分」を定めた法律であり、それによって直接「国葬」を行えるというわけではない(第4条第33項の「国の儀式」から直接「国葬」を読み込めるわけではない)。「個人の国葬が国の儀式に含まれる」という個別具体的な根拠が必要である。

臨時国会を召集しないのも違憲

8月18日、日本維新の会以外の野党を中心に、憲法第53条に基づき臨時国会召集要求が提出された(衆議院/参議院いずれも「4分の1以上の議員」という要件を満たした)。同条では内閣は「臨時国会の召集の決定をする」という「法的義務」を負う。「臨時=その時その時に応じて」という語義通り、召集要件を満たしたら内閣は「すみやかに」臨時国会の召集(の決定)をしなければならない。正当な理由がないのに召集を不当に引き延ばす事は憲法違反であり、また、緊急の必要性がなかったり内閣側の準備ができていなかったりといった理由で召集を遅らせる事も同様に憲法違反である。岸田文雄は国葬について「丁寧に説明していく」と繰り返し述べたが、結局臨時国会の召集はせずに「閉会中審査」において一方的に国葬について語ったのみである(言葉を垂れ流すのみでは説明とは言えまい)。「閉会中」審査である以上、この「説明」を臨時国会に代替する事はできない。
ところで、「53条には期限が定められていないからすぐに召集しなくても違憲ではない」と言う者が散見されるが、「臨時」の意味も「法的義務である」事も理解していないものと思われる(たとえば、昼食にピザを注文するも、店側が約1ヶ月後に腐敗したピザを届けてきたような場合でも文句を言わないのだろうか?)。9月29日現在、岸田内閣は10月3日に臨時国会を召集すると言われているが、召集要求から1ヶ月以上経ってから召集するのは到底「臨時」とは言えず、且つ要求をした側の趣旨に応えているとも言えない。縦令召集したとしても、最早「召集を不当に引き延ばす違憲行為という瑕疵」を治癒する事はできないであろう。内閣総理大臣も国会議員であるのだが(憲法第67条)、国会での議論を忌避する者が国会議員を務めて良いのだろうか。国葬が終わった今もなお、岸田による「丁寧な説明」はなされていない。

市民に弔意を求める事も違憲

憲法第19条において「思想及び良心の自由」が保障されている。

第19条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

「思想及び良心の自由」は、内心に留まる限りにおいて「絶対無制約」である(純粋内面的権利。外部に表出されない以上「公共の福祉」にも抵触しない)。ある者に対して弔意を示すか否かは「各人の任意」に基づくものであり、公権力は勿論他者(→私人)によっても干渉されない。したがって、安倍晋三の国葬という「市民の弔意を醸成するイベント」によって、市民に安倍に対する弔意を強要する事は認められない。のみならず、強制という形式でなくても、公権力が市民に対して「弔意を示す事を勧奨する」「弔意を示す雰囲気を醸成する」事も畢竟強制的に作用する事に繋がるので、認められない(バルフ・デ・スピノザの『神学・政治論』においては「個々に思う事を言ったり考えたりする自由を認めようとしないならば、その支配体制は極めて暴力的になるであろう」とされる。言ってみれば、個人の内面まで踏み込む支配体制はやがて滅び去るという事である)。つまり「安倍晋三の国葬」それ自体が「安倍晋三に対する弔意を示すよう市民に働きかけるシステム」であるので、憲法第19条違反と言えよう。
ところで、「弔意を強制してはならない」と「弔意を示してはならない」の峻別ができない者が少なくないようである。憲法で「思想及び良心の自由」が保障されている以上「弔意を示す事も示さない事も自由」である。したがって、後者の「弔意を示すな」というのも「特定の思想を他者に強要する事」であり、当然許されない。
何から何まで憲法違反であり、民主主義に対する叛逆でもある。それが安倍晋三の国葬である。

参考文献

☆長谷部恭男『憲法』(新世社)
☆浦部法穂『憲法学教室』(日本評論社)
☆伊藤正己『憲法』(弘文堂)
☆吉田量彦『スピノザ』(講談社現代新書)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?