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河野太郎によるエゴサブロックは自由民主党の縮図

河野太郎の表の姿

次期自由民主党総裁候補の1人に、ワクチン担当大臣である河野太郎が挙がっています。安倍内閣において行政改革担当大臣、外務大臣、防衛大臣等を歴任し、菅内閣においては行政改革担当大臣を経て現在は新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣を務めてきました。平常、Twitterにおいて災害情報等の発信について精力的にこなしており、また時折市民からのリプライにも引用RTで答えたりしているようです。河野太郎のTwitterアカウントのフォロワー数については2021年9月現在で230万以上であり、これは前内閣総理大臣である安倍晋三を上回っています。その意味で、河野太郎は閣僚の中で最もSNSに精通しており、巧みに使いこなしていると評して良いでしょう。自分に対して批判的な意見について手当たり次第ブロックする事を除いては。

河野太郎の真の姿

Twitterで検索してみると、河野太郎にブロックされた人が如何に多いか判ります。「知らない間にブロックされていた」という事例もあるようです。私も河野太郎に対して直接リプライをしていないのにブロックされています。原因となったツイートは今となっては覚束ないですが、確か外務大臣時代の河野の外遊についての「ちゃんと仕事しろ」といった趣旨のツイートだったような気がします。ブロックされた側にとっては、Twitter上において河野が発信する災害等の重要情報へのアクセスができない事を意味します。これは「公務員による市民の選別」に他なりません。結果として「自分の意向に沿わない者を『国民』として承認しない」事になるわけですから、憲法第15条第2項「全体の奉仕者」としての責務を放棄したという事です。☑️マークが付き「衆議院議員」と記している以上「衆議院議員河野太郎」という「公人」としてのアカウントである事は明らかです。
尤も「誹謗中傷」については公人私人問わずブロックして然るべきです。刑法において「名誉毀損罪」「侮辱罪」が規定されているわけであり当然の措置でしょう。「容姿/出自/学歴」といった事案について不当に論う事も当然許されません。しかし市民が「為政者として不適切な言動を非難し」たり「臨時国会を開催しない事を非難し」たりすればブロックする、これは明らかに不当な「排斥」です。「市民の批判にたえず晒される事」は「為政者にとっての宿命」であり、市民の批判に耐えられず「排斥」するような者に何故「政党の総裁」「宰相」を務められるのでしょうか。そもそも国会議員としての資格もありません。
自分の意向に沿わない者を排斥する振る舞いは、Twitterに限りません。以下は2018年12月11日の記者会見でのやり取りです。

記者「日露関係について伺います。先日、ラブロフ・ロシア外相が、日露平和条約の締結について『第二次世界大戦の結果を認めることを意味すると、日本が認めることが最初の一歩である』というような発言をしていますが、この発言に対する大臣の受け止め方をお願いします」
河野太郎「次の質問どうぞ」
記者「ラブロフ外相、ペスコフ報道官等々、いろいろな原則的立場の表明があります。それに対して、反論を公の場でするおつもりはないということでよろしいんでしょうか?」
河野太郎「次の質問どうぞ」
記者「ロシア側からはどんどん、これまで通りの提案が出てきます。アンバランスな状況が実際の協議にも与えるという懸念もあると思うんですけど、その点に関してはどうお考えでしょうか?」
河野太郎「次の質問どうぞ」
記者「なんで『次の質問どうぞ』と言うんですか?」
河野太郎「次 の 質 問 ど う ぞ」

これはギャグでも何でもありません。実際の記者会見です。自分に(外交に)とって不都合な質問をされるや否や「お答えは差し控えます」とも言わず「次の質問どうぞ」と一蹴。これは記者の質問に対する「ブロック」と看做して良いでしょう。Twitter上でのブロックを「現実世界」において行使した瞬間です。後にこの不適切な対応について謝罪しましたが、やった事は国務大臣による「排斥」以外の何物でもありません。河野はこの時点で議員辞職すべきでした。Twitter上での批判に耳を傾ける事もできず、記者の質問にも感情的になってまともに答えられない。このメンタルで「国政の舵取り」を担う事は到底できないでしょう。

自由民主党にとっての「国民」

尤も、自分達の意向に沿わない市民を「排斥」するのは河野太郎に限りません。市民の批判に対して「こんな人たち」呼ばわりして公然と敵視したり、東京五輪に反対する者を「反日」と看做したりした安倍晋三、自分の意に沿わない国民を演説において「ヤツら」呼ばわりした高市早苗、日本史教材の記述について予備校に圧力をかけ、その際ツイートで「反日」という表現をした山田宏等、枚挙に暇はありません。結局、河野太郎が「異常」なのではなく、自由民主党にとって「ヘレシーの排斥」は常套であり、河野はそれを分かりやすく表象したに過ぎないのではないでしょうか。「政治は国民のもの」「国民のために働く」といった自由民主党のキャッチフレーズですが、その「国民」とは「自分達の意向に沿う者」に限られるのではないでしょうか。「全体の奉仕者」という自覚があるとは到底思えません。

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