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紫は雨に烟る4 - Izumi Origins EP3
突然の爆発に大型妖異はたたらを踏む。そして巻き起こる爆煙を割って角の女が飛び込んで来た。前方宙返りの勢いを刀に込めて、女は妖異の顔面に斬撃を叩き込む。妖異はくぐもった呻き声と共に後ろに倒れ、がらりと足元が崩れた。妖異は女もろとも崖下へ消えた。
「わぁぁ!イズミちゃん!」
後ろに控えていた赤髪の男——テオドアは悲鳴を上げながら崩れた崖の下を覗き込んだ。眼下に点在する偏属性クリスタルの赤みがかった光が広大な廃墟を仄かに照らしている。崖下でまた爆発が起こった。断末魔。破砕音。——イズミは暴れ続けている。テオドアはひとまず胸を撫で下ろした。続いて周囲を確認する。スズケンの槍が妖異を貫いているのが見えた。行く手を阻んでいた妖異は全て撃破。視線を合わせた二人は無言で頷き、イズミを追って坂道を下り、崖下の廃墟群へ降りていった。
坂の下の廃墟はひやりとした空気に包まれている。そこに混ざり込む血と火薬の匂いは戦いの痕跡。スズケンとテオドアは互いに警戒しつつ、がらがらと物音のする区画を目指した。辻を曲がると煙を上げる廃材と複数の血溜まり。奥の暗がりから角を生やした女が顔を出した。イズミは無事だった。
「全く……もっと高さがあったらどうするつもりだったんです」
スズケンは溜息と共に忠告する。
「うるさい。その時はその時」
イズミはぎろりと二人を睨む。闇の中で輝く赤い瞳にテオドアは慄き、スズケンは肩をすくめた。
「つかイズミちゃん、その棒みたいなの、何?」
「戦利品」
イズミの手に握られていたのは細く短い杖だ。筆記具かと思うほど頼りないが、柄頭にあしらわれた歪な輝石が目を引く。
「祭壇みたいなのがあってさ。使えそうだから拾って来た」
「……あれ?イズミちゃん魔法使えたの?」
「石の中に詰まってる術を取り出すぐらいなら、出来るよ」
「ソウルクリスタル、ですね」
スズケンは足元に落ちている瓦礫の堆積物を払いながら問うた。イズミは頷く。
「なかなか危険な魔法が入ってるんじゃないですか?その中」
「よくわかったね」
「この遺跡、あちこちに天蠍宮の印がありましたから」
「畏国の話?」
「そうです。詳しい話にご興味が?」
「また今度ね」
「是非」
イズミは杖を懐にしまい、廃墟の奥へ歩み出した。彼女は仇敵の方角を明確に掴んでいる。二人もそれに続いた。廃墟は静まり返っており、妖異の姿も見えない。ひとかたまりになったランタンの灯りは静かに奈落の底を目指す。やがて三人の眼前に、すり鉢状の大きなクレーターが現れた。
そこがイズミの目的地であることは、スズケンとテオドアにも一目で分かった。クレーターの底、神像らしき建造物の足元に闇色のエーテルが渦巻いていたからだ。禍々しい闇に気圧され、テオドアはイズミを見る。イズミは鋭い目で渦を睨んでいたが、やがて意を決してクレーターを降り始めた。スズケンも無言でそれに続く。テオドアは呻めき、躊躇した。拳銃の弾倉を確かめる。問題無い。テオドアは銃把を祈るように握りしめ、イズミの揺らめく尾を追った。
天蠍宮の印が刻まれた神像は思いのほか大きく、近くまで来ると見上げるような高さがあった。でっぷりとした姿は東方の鏡餅を連想させる。スズケンは顎に手を当て、ほう、と感心している。祀られている神格に心当たりがある、という顔であった。だが今は講義の時間ではない。学者はペンではなく槍を構えた。
「イズミさん。そのヴォイドクラックみたいな渦の中に、いるんですね?仇が」
「そうだよ」
イズミは淡々と答えた。闇色の渦は不気味に鳴動し続けている。テオドアは唇を噛み、震えに抗う。冷や汗が止まらない。肌がぴりぴりと痛む。焚き火を前にした時「これ以上近付くと火傷するぞ」と身体が警告してくるあの感覚を、百倍嫌な感じにしたような気分だった。
「よ、よぉし。こっからどうするんだ?」
テオドアは上擦った声で、前に立つイズミに呼びかけた。イズミは背中を向け、尾を揺らしながら黙っていたが、おもむろにテオドアに振り返った。
「……無理してるの、丸わかり」
イズミはふっと笑い、それからスズケンを見た。
「スズケンさんだって、そうでしょ。キツいよね、これ」
「……まぁ、気持ちのいいものではありません」
スズケンは構えを維持したまま返答する。イズミは頷き、闇の渦に向き直った。そのまま一歩、二歩と渦に近付く。
「私は、わりと平気なんだ。これ。」
呪いのせいで、とは言えなかった。
「……助けてくれて感謝してる。でも、ここからは本当に、私だけの世界なの。ごめん」
イズミは左手を大きく振った。一体どこに仕込まれていたのか、大振りの旋棍が握られている。魔導仕掛けが組み込まれた帝国横流し品、魔導旋棍である。イズミは懐から魔法弾を取り出し、内部に装填していく。規格の違いをものともしない闇改造品であった。
「行ってくる。……大丈夫、こいつが効くのは実証済み。もう一発ブチ込んでやるだけだから」
イズミは魔導旋棍を軽く掲げ、背後の二人に示す。闇の渦は手を伸ばせば触れられる距離だ。放たれる瘴気が肌をひりつかせる。この先に進めるからといって何も影響がない訳でもなかった。
「だから……もうここで充分——」
「待ってるよ!」
テオドアが遮るように叫んだ。イズミは思わず振り返る。彼は拳を握りしめて訴えかけていた。
「言っただろ!女の子ひとり、こんな所置いてかねぇって!ちゃんと帰り道も危なくねぇように付き合うから……待ってるからよ!」
そう言いつつ、テオドアはチラリとスズケンを見た。歴戦の冒険者は苦笑いした。
「その中がどうなってるのか、帰って来たら聞かせてください。僕のギャラはそれで充分です」
小さなララフェル族は穏やかにそう伝えた。イズミは言葉に詰まり、俯いた。
「……バカ。ほんと、バカ」
それだけ言うのがやっとだった。結局巻き込んでしまった罪悪感と、身を案じてくれる優しさがないまぜとなり、イズミの心を震わせた。そしてイズミは懐に残っていた一発の魔法弾を取り出し、じっと見つめた。
「テオドア」
「何?」
イズミはつかつかとテオドアのところまで戻り、弾丸を手渡した。
「貸しとく。持ってて」
「……おう」
「何かあったら躊躇しないで、使って」
「……そんな事にはならないんだろ?」
「まぁね」
「じゃあ、ちゃんと預かっとくから」
「ありがと。行ってくる!」
イズミは尾を翻して駆け出し、闇の渦へ飛び込んだ。
◆◆◆
闇の渦を越えた先もまた、巨大な神像が鎮座するクレーターの底だった。だが、すぐ近くにいたはずのテオドアとスズケンの姿は見えない。風景もどこか淀んだ色をしている。現世から薄皮一枚隔てただけの幽世。妖異達が身を隠す狭間の地にイズミは足を踏み入れた。
イズミは神像の足元にうずくまる存在を見据える。黒い全身鎧を纏った騎士がそこにいた。一見するとルガディン族の冒険者にも見えるが、その背中から生えた巨大な翼はヒトの備えるものではない。妖異学者であれば、妖異十二階位における第四位ブラックガードに連なる存在だと判じたであろう。
自在に空を舞うその翼は、左の翼が存在していなかった。片翼である。翼だけではない。左腕も無かった。騎士は左胸から先を丸ごと抉り飛ばされていたのだ。兜もぼろぼろであり、砕けたその隙間から憤怒に彩られた男の顔が覗いていた。誰の目にも判る甚大な重傷。それを齎した女が、いま再び妖異の目の前に現れたのだ。
「どぉーも、アスタロトさん。青葉のイズミだよ。久しぶり」
アスタロトと呼ばれた妖異は身じろぎし、領域への侵入者たるイズミを見た。
「雑魚共並べて手間かけさせやがって。今度こそ殺してやる」
右手の刀と左手の旋棍を構え、イズミは決断的にアスタロトへ迫る。一方の妖異も避けられぬ戦いを察し、治癒魔法を解いた。途端に傷口から血が溢れる。それに構わず、妖異は傍の大剣を握った。
《……黙りおれ、下郎》
アスタロトは濁った声で問うた。
《何者か知らぬが……我にここまでの恥辱を与えた事、決して許さぬ》
鎧の騎士は身の丈ほどの大剣を片手で構える。恐るべき膂力である。だが、切先を向けられた鱗肌の女は一切怯まない。彼女にあるのは、ただひたすらに湧き上がる怒りと憎悪だ。
「だったら、教えてやる」
イズミの昂るエーテルに呼応し、瞳が紅く輝いた。
「私はお前らが踏み潰してきた、いちいち覚えてもいない人間のひとりだ」
一歩一歩、女と妖異は間合いを狭めていく。
「お前らが忘れたとしても、私はお前らを絶対に許さない」
妖異は大剣を振りかざしていく。女は歩みを止めた。
「我が友の魂の安息の為、お前らを——」
アスタロトは地面を蹴り、獲物の元へ跳んだ。地面が蜘蛛の巣状に砕け散る。
「一人残らず殺してやる!」
イズミは咆哮し、妖異を迎え撃った。アスタロトの大剣が凄まじい速度と質量を持ってイズミに襲いかかった。竪穴の前で対峙したタウルスなどと比較にならない疾さ。逃げる獲物を問答無用で叩き殺す無慈悲なる一撃。だがイズミは逃げない。拾った命を抱えて怯え暮らすより、的と晒して仇を殺すと決めたのだ。持てる剣気全てを刀身へ流し込み、イズミは大剣に刀を合わせた。
「だぁぁぁぁッ!!!」
激突。とてつもない衝撃がイズミの四肢を駆け抜ける。だが、それは「耐えられる衝撃」まで減衰されていた。弾けたのだ、致死の一撃を。そして、ほんの刹那だけイズミが先に動けた。全ての剣気を費やした彼女に残された切り札、魔導旋棍が唸りを上げた。
「こいつで、終わりだッ!!!」
旋棍の左鉤突きがアスタロトの右脇腹に直撃した。瞬間、イズミは魔導装置の引き金を引く。ばつん、という異様な轟音と共に、妖異の右半身が吹き飛ばされた。
《ギャアアアアアアッ?!!!!》
解き放たれた六発もの雷撃魔法弾が超至近距離・超高密度で荒れ狂った結果だった。アスタロトは絶叫し、のたうち回った。妖異の胴体はもはや脊椎しか残っていない。それでも動けることは驚嘆に値する。
イズミは煙を上げる魔導旋棍を投げ捨て、荒い息を整える事もせず、アスタロトに歩み寄った。尚ものたうつ憎き仇の脊椎を軍靴で踏みつける。妖異は獣のような声で泣き喚いた。
「どうだよ……怖いか?一方的に殺されていくのは」
《ウ……ウォォォァァァァ……怖い……!》
「ブッ殺す前に、お前の魂に尋問する」
イズミは左手に黒い炎を宿した。旅の中で身につけた対妖異の禁術。その炎は妖異の魂を異界へ逃さず焼滅せしめる。
《ウァォォァァ……口惜しや……》
「うるさい。お前らのボスの事を、話せ」
イズミは黒炎を妖異に近付けていく。アスタロトは尚も譫言を垂れ流す。
《折角……知性を……得たのに……》
「あぁ?」
イズミは訝しんだ。
《力を得て……愚かな魔物で無くなったのに……それを…………手放さねば…………》
アスタロトの鎧兜が輝き始めた。鎧の隙間から激しい光が漏れ出ている。それはどんどん強くなり、脊椎はあっという間に光り輝く柱と化した。
——自爆。その言葉がイズミの頭をよぎった。イズミは舌打ちし、尾を翻して闇の渦を目指し走る。振り返ると、光は半球状に広がっているのが見えた。捨て置いた魔導旋棍が光に呑まれて砕け散り、神像の虚無的な顔が今になってようやくはっきり見えた。
「なんで……毎回こうなるんだよッ!」
イズミは悪態と共に闇の渦に飛び込んだ。数瞬の無重力を味わったのち、身体は現世へ投げ出された。突然帰還したイズミを見たテオドアとスズケンは驚き、慌てて彼女の元へ駆け寄る。
「おかえりイズミちゃん!大丈夫?!」
「離れてッ!やばいッ!」
イズミの気迫に驚いた二人だったが、すぐさま彼女を助け起こし、闇の渦から離れた。クレーター斜面を中程まで駆け上がったところで振り返ると、神像に幾つものひび割れが生まれていく。次々と刻まれるひび割れから光が溢れ出し、ついに神像は轟音と共に砕け散った。中から現れたのは巨大な長虫だった。
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