スクリーンショット_2015-02-17_1.29.03

レビュー:惚れたアタシが悪いのか

走る汽車の車窓から外を眺める男。
暮れゆく雪景色を背景に、そこに映り込む乗客の娘をジッと観察し続ける目線から物語は始まる。
主人公である駒子とこの語り手の男の関係が本作の柱であるが、語り手の男・島村は「観察する者」としてこの世界に存在している。
彼の人となりを形成する背景もチラと垣間見えるが、本筋とはあまり関係なく、あくまで「駒子が惚れた男の描写」としてのみ存在するように思える。
けっく、ヒロイン駒子を鮮烈に描き出すことが、この作品の主題であると私に感じられた。
いわゆる恋愛小説のような、男女の関係とその結末を読んで感興をもつたぐいの話ではなかった。

さて作品の眼目であるこの女は「いき」の世界に属する女だ。
九鬼周造が「いき」は「苦界」にその起源をもっている、と書いたが、駒子は年季があけて解放される日を勘定しながら日々を送る芸者である。
彼女がなぜ島村に惚れたのか?を考えるに、年少にして家族の為に売られていった駒子の人生をかいま見るようで、切ない。

これまで彼女をとりまく世界では、彼女は媚態を売り、男は彼女を欲しがる、それが当たり前であったろう。彼女も諦観をもってそれを受け入れていたかもしれない。
ところが島村は彼女の「女」を要求しなかった。
「女」を欲しがりはしたが、彼女には「女」を求めないと言い渡した。
その後、ようやく気がついたが、本当に欲しかったのは彼女であったと仄めかしたのだ。
彼女を構成する要素の中で「女」以外の部分をまず認め、しかる後「女」の部分も受け入れる島村のやり方が、またその腹蔵ない様子が、彼女の心を動かしたのだと思う。

さらに、こうして関係を始めたため、結局駒子は「惚れたアタシが悪いのか」となる仕儀なのだから、むごい。

また第二の女として登場する葉子は、苦界に活けられた駒子とは別の生を歩む娘だ。
存在の前提が「慰み者」である駒子の抱く陰、それを外側から見て「私は何もできない」と奇妙に捻れた羨望を抱く葉子。

行男の看護人として存在理由を保っていた葉子は、実は看護婦の資格を持たなかった。
かたや芸者の駒子は唄、踊り、三味線、芸者としての振る舞いなどを身につけた、単純に見れば職業をもつ女性でもある。
行男を救うことが自分の存在理由みたいに思っていた葉子にとって、経済的に行男を生かしていた駒子は目の上のたんこぶであったのかもしれない。
男に求められることが職業である女と、男に求められる立場を渇望する少女。

葉子が駒子に「気ちがいになる」と言われたゆえんは、その少女じみて潔癖なまでの、思い詰める質(たち)だろうか。
この関係と感覚のズレがまた、非常に神経に障る不協和音を出していて、興味をひかれる。

このように「雪国」は、登場人物の心情を意味深長な抽象的セリフや状況描写から深読みしてゆくのが、まさに小説の醍醐味!といった読み心地で、読書の快感を深く味わうことが出来た。
しかし私にはまだまだ読み解きができぬ部分も多く残っていて、また二度三度と読みながら解き明かす楽しみも残されており、長い付き合いになりそうな気がするのも嬉しいところだ。

それにしても「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の有名フレーズの後に、あんなエロい名フレーズが揃っているとは驚いた!
数多の官能小説のフレーズは、これの劣化版かぁ…と変な感心の仕方をしてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?