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明法寮ー近代日本の礎ー

初代司法卿江藤新平の肝入りで、当時の司法省内に「明法寮」(司法省法学校)が設置されたのが、明治4年のことだった。全国から集められた一握りの俊英たちに、西洋流の近代的な法学教育が施されたのである。

明治5年にはジョルジュ・ブスケが、翌明治6年にはギュスターヴ・エミール・ボアソナードを迎え、明法寮でフランス語による本格的な法学教育が開始された。

ここから日本における西洋法の継受が始まるのであるが、当時は日本語に法律学を論じる言葉すらなく、講義やその筆記、質疑応答などもすべてフランス語で行われた(関西大学にボアソナードの教え子の一人であり、同大学の創立に深く関わった井上操がボアソナードの講義を筆記した、見事なまでに美しいノートが保存されている)。

  • 彼らがどこでフランス語を習得したのかは一つの謎であるが、明治3~4年頃に江戸深川にあった村上英俊の仏学塾あたりでフランス語を習得したのではないかと推測される。しかし、かりにそうだとしても短期間の学習でかなりの学力水準まで到達しているのは驚異的といわざるをえない。

日本人が自分たちの言葉で法律の話ができるようになったのは、ようやく明治20年頃になってからのことだというから、西洋法の翻案に実に十数年の時間と労力が費やされたことになる。その間の明法寮生徒らの努力は筆舌に尽くしがたいものがあったことは想像に難くない。西欧の法思想にまったく触れることになかった彼らが、この新しい概念をわが国の国情に合わせて日本語に翻案し、しかも理論的整合性を失わないように組み立てていく過程で、彼らの創意工夫が随所に発揮されたのであった。

しかし、旧刑法典(明治13年)から現行刑法典(明治40年)の制定に関する刑法典論争や、民法典の施行に関する国を挙げての民法典論争などを考えると、法律はまさに民意の表現であって、国民意識によってこそ、その妥当性が与えられるということがよく分かる。

ところで、2009年から始まった裁判員制度も、専門性が高く、閉鎖性が強かった従来の難解な刑事法学が一般国民に「継受」される百年に一度の出来事だといえる。専門用語という言葉の問題もそうだが、何より犯罪と刑罰に関する考え方や説明の仕方が大きく変わっていくことだろう。今までに研究者が積み上げてきた学問的共有財産の継承という課題もあるが、刑法学も、まさに民情に適し、時要に応ずるだけのものしか「継受」されないのだということかもしれない。(了)

【補遺】
何気なく使っている言葉でも、意外と歴史が浅かったりする。坪内遺遥が翻訳したとされる「文化」「批判」「運命」「襟準」「男性・女性」、福澤諭吉の手になる「自由」「演説」「討論」「為替」など、今ではすっかり日本語として定着している言葉もせいぜい、百数十年ほどの歴史しかない。「権利」や「義務」といった基本的な法律用語も、明治になって西洋法を輸入してから急遽考案されたものだ。「哲学」「論理学」「心理学」「現象」「容観・主観」「実体」「観察」など、基本的な学問用語の多くもそうである。しかし、日常世界に着地せずに、浮いたままの専門用語もかなりある。

欧米の専門用語は、よく言われることだが、日常用語の広い裾野をバックに、余分な意味が徐々にそぎ落とされて洗練され、特別な意味を持たされている。日常用語の下地があるから、学問的議論の中でも元の意味を引きずっている場合が多い。

これに対して、日本の場合は、そのような日常用語の裾野がない専門用語が多く、言葉がいわば宙に浮いた形になっていて、議論が特殊で難解なものとなりやすい傾向がある。

誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。この言葉は、江藤新平の言葉である(司馬遼太郎『歳月』)。東洋の貧しく小さな島国が文明開化の大号令のもと、西欧の国々からバカにされないよう、彼らに追いつこうと必死になって外国の法律を日本語に直してきた。この言葉には、明治の日本人の涙ぐましいまでの苦労がうかがえるのである。翻訳、翻訳で、日本語に言葉がなければ、造語。だから、法律学には日常から浮いた、特殊な言葉が多く出てくるのである。

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