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四肢の負傷は切断が最適の治療法だった

歩兵が両手で抱えて照準を合わせ発射する小銃は、すでに15世紀半ばには知られていた。銃身に螺旋状の溝(ライフリング)をつけたことによって弾丸に回転運動が生じ、ジャイロ効果によって弾軸の安定化が図られ、空気抵抗が減少して直進性が高まり、飛躍的に命中率が高まった。ただし、銃身に弾丸を装填するのに時間と手間がかかるという欠点があった。

この欠点を改良し、さらに武器としての性能を高めたのが、フランス陸軍大尉であったクロード・エチエンヌ・ミニエー(Claude-Étienne Minié)である。1846年、彼はミニエー・ボールと呼ばれる弾丸を設計した(ミニエー銃)。

ミニエー・ボール

これは、鉄製のキャップに包まれたドングリ型の鉛弾であり、弾丸の円周には3条の溝が切られていた。溝には、回転をよくするための動物性油脂が塗られた。発射すると火薬の燃焼によって発生したガス圧でキャップが膨張し、ガス漏れがなくなり、さらに弾丸が銃身壁に押し付けられ、ライフリングによる回転が直接弾頭に伝わり、銃口速度が増加した。

ミニエー弾は装填や発射の高速化を可能にしただけでなく、殺傷能力を飛躍的に高めた。しかしこれは兵士にとっては、言葉にならないくらいの悲惨な結果をもたらすことを意味した。

ミニエー弾はその後アメリカ・バージニア州の武器工場でさらに改良され、アメリカ国内で普及し、南北戦争(1861-1865)でもっとも多く使われる弾丸となった。

ミニエー弾は、それまでの丸い弾丸のように単に体に入って出て行くのではなく、高速度で回転しながら人体に食い込むため、より大きな組織損傷を引き起こした。骨に当たれば粉々に砕き、主要な血管への侵害は致命的だった。しかも鉛弾の溝に塗られた油脂が細菌を媒介し、壊疽(えそ)をはじめとする厄介な感染症を引き起こした。壊疽を起こした負傷兵の半数は死亡した。四肢の傷は、最終的には切断するしか治療法がなかった。

  • 1870 年から 1888 年にかけて出版された全6巻の北軍医学資料「Medical and Surgical History of the War of the Rebellion」(反乱戦争の医学的および外科的歴史)によると、北軍で記録された175,000件の四肢銃創のうち約30,000件が切断に至り、切断を受けた兵士の75%が生存している。

切断はもちろんたいへんな痛みを伴う「手術」であったため、負傷兵には大量のウィスキー、アヘン、モルヒネが投与され、術後の治療中にも多くの患者が定期的に薬物を投与されたため、必然的に薬物依存に陥っていった。しかし、負傷するということは、基本的な衛生基準が満たされていないお粗末な野戦病院でゆっくりと死んでいくことを意味することが多かった。

南北戦争の野戦病院

野戦病院におけるクロロホルム(麻酔薬)の使用は、米墨戦争(1846-1848)を皮切りに、クリミア戦争(1853-1857)でもロシアやフランスの外科医によってしばしば使用された。

しかし、軍隊は麻酔薬については懐疑的であり、むしろ敵対的ですらあった。軍医たちにとって麻酔薬は、最後の最後までタフで勇敢でなければならないという、戦士としての倫理観を阻害する罪深い物質だったのである。(了)

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