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爆撃機のパイロットは眠くなると乳白色の錠剤を噛み始めた

1940年、イギリスによって撃墜されるドイツ機の数が増えるにつれて、ドイツ空軍はロンドンへの空爆を夜間に行なうようになった。イギリスはこれを「ブリッツ」(稲妻)と呼んだ。

ドイツ空軍の出撃は夜の10時から11時に行なわれる。3~4時間かけて爆撃機はロンドン上空に到着した。眠気を催すと、パイロットたちは「ゲーリング錠」と呼んでいた「ペルビチン」(メタンフェタミン=覚醒剤)の錠剤を噛んだ。

  • 軍服の膝のポケットには小さなハンカチがあり、そこに乳白色の錠剤が数個貼り付けてあった。ラベルには〈ペルビチン、疲労回復剤〉と書いてある。袋を開け、パッドを破って錠剤を2~3個取り出し、マスクをずらして噛み始める。苦い小麦粉のようだった。

  • しばらくすると、エンジンの音が遠ざかり、静寂が訪れる。空が突然明るくなり、厳しい光の中で目が痛んだ。機内には振動がなくなり、エンジンの均等なうなりが遠くから微かに聞こえてくる。すべてが非物質的で抽象的な世界に変わる。だれもいない、何も動かない中で、パイロットは正確に任務をこなしていった。

ペルビチンは、戦局がドイツに不利になってもからも重宝された。1942年1月に、東部戦線の北側でソ連軍に包囲されていた500人のドイツ兵にペルビチンが投与されたことがある。

  • 兵士たちは疲労で、よろめき、戦う意志を完全に喪失していた。ふくらはぎと足の付け根の痛みと痙攣、動悸、胸の痛み、吐き気に襲われていた。退却を開始してから6時間後の深夜、何人もの兵士が雪の上に横たわった。そこで兵士たちにペルビチンが2錠ずつ与えられた。30分後、兵士たちの状態が驚異的に改善した。彼らは再び整列して行進しはじめた。筋肉の痛みも軽くなった。兵士の中には、少し幸福な気分になっている者さえいた。

  • こうして脱出は成功した。

実は1940年頃にはすでにドイツ医学界でメタンフェタミンの副作用への懸念が高まっており、ドイツ軍は1940年末にメタンフェタミンの割り当てを減らし始めていた。ドイツ保健省も、1941年6月にアヘン法を改正してペルビチンを規制薬物に指定した。危険性を指摘する新しいガイドラインも医療将校に配布した。

それにもかかわらず、ペルビチンは西部と東部の両方の前線で使われ続けた。記録によれば、ドイツ国防軍は1942年の前期だけで10万錠のメタンフェタミンを東部戦線に送り込んでいる。製造元であるテムラー・ヴェルケ社は、相変わらず莫大な利益を上げていた。

終戦間近になり戦況が絶望的になっていたドイツ軍は、薬理学上の奇跡を探した。そうして開発されたのが、D-IX だった。5ミリグラムのコカイン、3ミリグラムのペルビチン、5ミリグラムのモルヒネベースの鎮痛剤(これは今日「スピードボール」と呼ばれる組み合わせである)である。ザクセンハウゼン強制収容所で囚人たちを使った実験が行なわれた。囚人たちにD-IXが投与され、かれらは20キロのバックパックを背負わされて行進するように命令されたが、休息なしで90キロを行進することができた。

この成果に医師たちは狂喜したが、D-IXが大量生産される前に終戦となったのであった。(了)

〈参考〉PETER ANDREAS:KILLER HIGHーA HISTORY OF WAR IN SIX DRUGS(2020)より

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