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天授の一石

占いの道具であったともいわれている囲碁がいつ頃生まれたのかは定かではないが、論語にはすでに囲碁に関する記述があるので、少なくとも今から二千数百年前頃の中国では、囲碁は庶民の娯楽としてよく打たれていたのではないかと思われる。

日本には、遣唐留学生が囲碁を持ち帰り、平安貴族のたしなみとなったという。その後の、信長、秀吉、家康の碁好きは有名で、江戸時代に幕府が一部の碁打ちに俸禄を与えて保護したことから、囲碁の研究が飛躍的に深まり、進化した。

ところで、現在まで同じ碁はどれ一つとして存在しない。これは確かめようはないが、碁のパターンは気が遠くなるほどの数であって、同じ碁がもしも存在していたとすれば、それはまさに奇跡なのである。

そもそも囲碁のパターン、打ち方はどれくらいあるのだろうか。

碁盤には縦横19本の線が引かれており、361個のその交点に石を置く。交点の数は1年を表し、中央の点は宇宙の中心を意味する「天元」(てんげん)と呼ばれる。

一手目は、理論的には361の可能性があり、二手目は360の可能性、三手目は359の可能性・・・。つまり、「361の階乗」(361×360×359×・・・×2×1=361!)のパターンがあることになる(囲まれた場所〈着手禁止点〉にはルールによって石を打つことはできないのでその数は減るが、石が取られた跡にも、着手禁止点でない限り再び打つことはできるので、単純に361の階乗と考える)。

そして、これは10の760乗ほどの数だと聞いたことがある。宇宙に存在するすべての原子の数が10の80乗個ほどであるといわれているので、10の760乗という数はとてつもなく大きな数、思うだけで目眩がしそうなくらいの数なのである。だから、まったく同じ碁が打たれることは確率的にもゼロに等しく、かりに同じ碁が打たれたとしたら、それはまさに、猿が見よう見まねでキーボードを叩き、源氏物語を一言一句違わず入力してしまったのと同じくらいの奇跡ではないかと思う。

プロ棋士がタイトル戦で1時間も2時間も長考することは、普通にある。ひと目300手といわれるプロの読みの凄さだが、そのときおそらく対局者の頭の中では、何万手、何十万手、いや何百万手の変化図がもの凄い速さで流れて、検討されていることだろう。しかし、それとて無限の変化のごく一部でしかない。

難しい局面で勝敗を決する一手の打着にどの点を選ぶかは、とうてい人智の及ぶところではないのである。スーパーコンピュータですら、序盤中盤での最善の一手を読み切ることは不可能である。100歳で亡くなられた昭和の棋聖、呉清源九段が「天授の一石」という言葉を残している。囲碁に限らず何事にも通ずる、きわめて含蓄に富む言葉ではないか。(了)

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