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信仰と社会の価値観が心の中に死の恐怖の余地を残すことを許さなかった

フィリピン南部の島々に居住するイスラム教徒は、モロ族と呼ばれる。14~5世紀にマライボルネオ方面から移住したマライ系のイスラム教徒と先住民が改宗したもので、社会体制や習慣に独自なものを形成し、政治的宗教的にスルタン(イスラム世界における君主号)の下に統一されていた。

フィリピンは16世紀からスペインの支配下にあったが、スペインの全土支配を阻止したのは、モロ族の頑強な抵抗だった。

その後、1898年にアメリカとスペインの間で戦争が起こり(米西戦争)、アメリカが勝利して、フィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。その結果スペイン統治下で起こっていたフィリピン独立運動の対象がスペインからアメリカへ移った(米比戦争)。アメリカは、1902年に反米軍の鎮圧に成功はしたが、モロ族の激しい抵抗に直面することになった。1899年2月から1913年6月にかけて、モロ族への残党狩りとそれに対する激しい抵抗が長期間に渡って繰り広げられたのであった。

モロ族の戦士たちは、伝統的に素手で戦う大胆で勇敢な戦士だった。彼らは、「ジュラメンタド」[*]と呼ばれる、狂おしいまでに儀式化された攻撃を行い、しばしば殉教に散った。現地のタウスグ(tausug)語では、彼らは「自害する戦士」を意味する「パグザビル」(pagsabil)とも呼ばれた。

  • [*] juramentado=「(異教徒を殺すと)誓った者」という意味のスペイン語〈juramentar〉が語源

モロ族の戦士は、アサシン(暗殺者教団)と同じように、イスラムの敵を多く殺害すればするほど、自分たちに備わる徳が増し、天国の楽園に行くことができると信じていた。それゆえ、どのパグザビルも一撃でできるだけ多くの相手を倒そうとした。

一族の中からジュラメンタドに選ばれた少年たちは、最初に天国の楽園に行く準備を行なう。少年たちは、祈り、そして風呂に入って身を清め、全身の毛を剃った。腰に丈夫なバンドをきつく巻き、足首、膝、太もも、手首、肘、肩に紐を巻く。これは血流を制限し、怪我による出血が激しくならないようにするためである。そして、白い衣と白いターバンを身につける。また、濡れた紐で性器を強く縛り、陰茎や睾丸への血流を絶った。これが少年たちに激痛を与え、少年たちの憤怒を煽るのである。こうして彼らは、変性意識状態に入り、戦傷の痛みを感じない肉体に変わっていく。つまり、彼らは自ら強烈な痛みを招くことによって、痛みそのものに鈍感な状態になっていくのである。

戦闘でアメリカ兵が最も恐れたのは、銃弾に対するモロ族の抵抗力だった。何度撃たれても彼らは戦い続けた。弾丸が手足や胴体を貫き、身体に傷を与えても、彼らは死ななかった。つまり、モロ族の戦士は、弾丸に対する並外れた免疫性をもっていた。アメリカ軍が思いついた戦術は、技術的な優位性を高めるためにより強力な銃器を開発することだった。結局、アメリカ軍との戦闘で1万人から2万人のモロ族が殺害されるという残酷なものとなってしまった。アメリカ軍の戦死者はその100分の1であった。

モロ族の戦士は、戦いの前に何らかの薬物を摂取していたのではないかといわれた。事実、彼らは「狂った虎」のように戦い、ひどく酔っているように見えたが、薬物の証拠は見つからなかった。彼らをハイにしたのは薬物ではなく、別のものだったのだ。それは名誉や誇り、そして何よりも宗教であった。化学物質ではなく、意志と裸の信念に突き動かされていたのである。

それはちょうど、戦前の日本軍で降伏が不名誉とされ、天皇に対する信仰と社会の価値観が兵士の心の中に死の恐怖の余地を残すことを許さなかったのとまったく同じ戦争文化であった。モロ族は、自分たちの自治と精神的アイデンティティを奪おうとする異教徒に抵抗するために、自分たちの聖戦を戦ったのである。つまり、ときには宗教的教義も強力な〈社会的依存物質〉となりうるのである。(了)


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