大江戸パープルナイト

 ときは江戸時代、今でいう東京の大江戸のど真ん中よりやや東南の場所に由緒ある武家屋敷があった。
そこにむさ苦しいさむらい、阿部寛という剣の達人が弟のペ・ヨンジュと一緒に住んでいた。そして不思議なことに阿部寛の屋敷には宇宙から来た四人の客人、四天王という殺し屋が逗留していた。安部寛は宇宙人がどういうものかわからなかったし、他の惑星の住人という概念はなかった。当然、阿部寛は四天王たちの地球降臨の目的を知らなかった。
同じように彼の屋敷には華剣、雷剣という魔力を持つ妖刀があったが阿部寛はその本当のすべての使い方を知らなかった。そしてその妖刀は剣豪から剣豪への手に渡るという数奇な運命を担っていた。
このふたつの宝刀がその屋敷にあることを探り当てた、くのいち山田優はその剣をねらっていた。色仕掛けで阿部寛に近付いた山田優は自分にとっても相手にとっても危険な、くのいち忍法の奥義ディープキッスを使って妖刀華剣を盗み出す。山田優を怪しいと睨んだ阿部寛は床の間に飾られている華剣を偽物に替えておいたのだが、阿部寛とペ・ヨンジュの手違いから山田優が盗み出した剣は本物の魔力を持つ妖刀雷剣だった。

☆ その剣法 宇宙剣
「弟のヨンジュはいないのか、なに、桃祭りに出ているって、囲碁の勝負の続きをしようと思ったのに、それになんだって、客人の四天王も一緒に出かけたって。アヒー」
阿部寛はかわやから出て手水鉢で手を洗いながら屋敷の中にいるこの屋敷にむかしから仕えている清べえに尋ねると弟のヨンジュは四天王を連れ立って桃祭りに出かけていると返事が返って来たので、気抜けしたようにあくびをした。
「桃祭りはこの辺では一番にぎやかな祭りだからな、きっとお客人たちも目をまわしていることじゃろうな、出店もたくさん出ているんじゃからな。あの客人たちが喜びそうなものがいっぱい置いてあるだべ」
実際、客人たちである四天王たちは出店の中を歩きながら目を回すようないろいろな種類の商品を見て興味本位にいろいろな店に首を突っ込んでいる。
彼らにとっては何もかもが新鮮だったに違いない。
藩の税の取り立ての仕組みのためにこのような露天は桃祭りのときにしか開けなかった。
この祭りのあいだだけは藩の税の徴収がこの日だけは大雑把になる。
それでふだんは商売をやっていないような町人や農民たちが露天を開いているのだった。四天王たちはある露天の前で釘付けになった。
氷をかんなで削ってガラスの器の中に雪をすくい上げたように山盛りにして中に黒蜜をかけている。その甘味がうっすらと暑い初夏に涼しげな要素を与えている。
現代で言えばかき氷であろうか。
四天王たちはその露天の前をじっと動かなかった。
「お客人たち、これらを所望ニダか」
四天王たちはどこか爬虫類じみた目を細めた。
「ピー、ピー」
さっそくヨンジュはそのガラスの器に盛られたかき氷を四つ買い求めた。
「お客人たち、ここで召し上がっていてくだされニダ」
彼らはそれらを手にとると黒蜜のかかったその冷たい氷の粉を杓子ですくって口の中に入れた。
「拙者、少し、そこらをぶらぶらして来るでござるニダ」
このことはヨンジュにとってははなはだ都合が良かった。
そのために桃祭りに来ているようなものである。
藩の威光が薄れ、いろいろなことに取り締まりが緩くなるのは露天だけではない。ふだんは外に出て来ないような町娘や村娘が異性を求めてこの華やいだ場所に出て来る機会はこの桃祭りのときが一番である。
それは暴発を防ぐ圧力弁の一種でもあった。
「いるニダ、いるニダ、どこにもここ一番に着飾った娘たちが」
海上にだけ首を出している潜水艦の潜望鏡のようにヨンジュはあたりを見回した。
中でもとびきり美しい娘の瞳とヨンジュの瞳を結ぶ直線は空中で結び会った。
しかもその娘は何かを訴えかけるようにヨンジュの方に瞳の視線をからめてきた。
ヨンジュは片手を上げて合図をするとその娘の方に駆け寄って行った。
「わたくしペ・ヨンジュと申しますニダ。時々、記憶喪失になるニダ」          
「お武家様、どうかわたしを助けてくださいませ」
離れていたときは聞こえなかったが娘のそばに近寄ると赤ん坊の泣き声がきこえる。
林の中に赤ん坊が寝かされていてさかんに泣き声をあげている。
「わたしの赤ちゃんが、赤ちゃんがお漏らしをして、おしめをぬらしてしまったのですが、替えのおしめがございません、一体どうしたら」
「おお、おお、よく泣くニダ、よく泣くニダ」
ヨンジュは、娘御、おぬし嫁だったのか、と口の中でつぶやいてその言葉を飲み込んだ。
「とにかく どこかでおしめを替えなきゃだめニダ。おむつかぶれになっちゃうニダ」
またのあたりの濡れている赤ん坊を抱きかかえるとその娘をつれて市場の雑踏の
中に入って行った。
「おしめになる布は、おしめになる布は」
娘もヨンジュのあとをついて来る。
鉄製の鍋や釜、そしてその隣にはふかし釜があり、芋をふかしている。
市場の片方の並びの背後はお寺の辻塀になっている。
日よけのためか木で骨組みを作って幌を被せている露天がその隣にあり、頭に布を巻いた農家の嫁らしいのが地面に大きな布を敷いて少し疲れたような布をたくさん敷いている。
「あった、あった、娘御、あったニダ。失礼、娘御ではなかったニダ、とにかくだ。おしめになるような布がたくさん置いてあるニダ」
その途端、泣き続けていたヨンジュの腕に抱かれている赤ん坊も泣きやんだ。
「よし、これに決めたニダ、いくらニダ」
ヨンジュがおしめに変化しようというその布を買い求めようとしてふところの中から紐で結んだ一文銭の塊を取り出そうとすると
「待てえ、その布、わしらが買おうと思っていたのじゃ」
横から人相の悪い侍が口を出した。
その侍の横には四五人のやはり人相の悪い侍が控えている。
「そんなこと言ったって、この布は赤ん坊のおむつになる運命ニダ、ほらほら赤ん坊が泣いているニダ。邪魔しないニダ」
ヨンジュはその侍を無視した。
ヨンジュは腕をつかんで制止しようとしている侍の腕を払いのけてそのもえぎ色の布をとろうとすると背後に金属の冷たい気配を感じた。
ヨンジュが背を丸めてその楕円軌道を描く刀の切っ先が半回転する前に腰に差していた刀を抜かずに小づかで背後にいた男の顎の真下あたりを強打するとその浪人はもんどりうって背後に大の字に伸びた。
刀を抜くよりもその方が効果的なのである。と言うよりも刀を抜く時間がなかったと言った方がよいかも知れない。
「きっさま、命はないと知れ              
「お前たち、何でヨン様を襲うニダ。ヨン様は身に覚えがないニダ」
ヨンジュにはまったく身に覚えのないことだった。
しかし、この乱暴狼藉を働く侍たちは刀の鞘を払って、抜き身の真剣を頭上に振りかざしている。
「正当防衛ニダ、ヨン様も真剣で太刀打するニダ。しかしニダ、ヨン様をなぜ襲うかしゃべるなら命までは奪わないニダ」
「それはこっちのセリフだ」
一人は気絶して倒れていたがのこりの三人はじりじりとヨン様に近付いてくる。ヨン様は左の方にゆっくりと動いた。
そしてその剣のさきには雑炊を煮ている鉄鍋があった。ヨンジュは剣の先でその鉄鍋の取っ手を引っかけると煮えたぎった中身を暴漢に浴びせた。彼らは顔を覆った。
「あっちちちちちち」
侍たちがひるんだすきにヨン様は水平に刀のみねで相手の急所を打った。返す刀でもう一人も倒した。残った一人が大上段に振りかぶってくるのをまわりにまるで透明な鉄の鎧で覆われてもいるように空振りさせるとその男の背後にまわり後ろの首筋のあたりに当て身を加えると最後のひとりはあっけなく崩れ落ちた。
それはたった十五秒のあいだにおこなわれた。
「へん、口ほどにもない奴らニダ。赤ちゃんのおしめを取り替えるニダ。ぶつぶつ」
赤ん坊はふたたび泣き始めた。
ヨン様は軽く鼻歌を歌い始めた。
「さあ、赤ちゃんをここに寝かせるニダ。おしめを取り替えるニダ」
「フツフツ」
確かにフツフツという声が聞こえたのである。
ヨン様がガールハントした若い女は無言で指をさした。
するとその指し示した指の方には容貌魁偉な侍がヨン様の方を向いている。
「まだヨン様に何か用あるニダ」
「フツフツ、お前の命を頂く」
「何で、と聞いてもきっと教えてくれないニダ。さっきは余裕があったから命まで奪わずに済んだニダ。でも余裕がないと死んでもらうことになるかも知れないニダ。それでもいいニダか」
「フツフツ、誰がお前と剣で勝負をしようと言った。俺の背中に担いでいるのが何だかわかるか」
男はそう言うと背中に背負っているまるで死んだ水子のようなものを肩から下ろすとヨンジュの方に向けた。
大きな金属製の筒が主になっていてその先に十本くらいの金属製の筒がついていてその先についている筒は一つの円周状に並べられてあり、その円周に沿って回転出来るようになっている。
どうやら西洋から渡来した飛び道具のようだった。
「これはなガトリング砲と言って瞬きするあいだに十もの鉄砲玉が飛び出す仕組みなのだ。さあ、ヨンジュ、お前の身体は蜂の巣になっちまうぜ。くっくっくつ」
「卑怯ニダ、卑怯ニダ。お前は卑怯ニダ。少なくとも侍の魂があるなら正々堂々と剣で勝負するニダ」
「卑怯もへったくれもあるか」
「いやだもん」
ヨンジュは鉄鍋で顔を隠しながら、この暴漢の方を盗み見ている。
「あっ、あれは」
この血なまぐさい騒動のために市場にいた群衆は遠巻きにこの死闘を見物していた。
その中から人の波を押し分けてガラスの容器をかかえて四人の子供が前の方に出て来た。
四人の子供という言い方はおかしい。
その中の一人は顔中を毛だらけにしたけだものだったからである。
「客人」
ペ・ヨンジュは絶句した。
四天王たちはやたらに興奮し、かつ憤慨しているようだった。顔を真っ赤にしているからそう解釈するほかない。
何かわけのわからない言葉を発した。
市場の群衆たち、暴漢、そしてヨンジュまでがその突然の訪問者たちをじっと見つめた。
すると彼らは何かを期待されていると誤解したのか両手を合わせてさかんに振った。
そしてそこには見る側と見られる側のあいだの越えられない誤解の壁による沈黙が重々しく流れた。
静寂の世界が広がった。
その均衡が突然に破られた。
この中の一人が腰にさしている剣を突然に抜いたのである。
すると他の三人たちも剣を頭上に捧げた。
そして四人たちは誰がリードをとるでもなく踊りを踊り始めた。
それを遠巻きにしている群衆は誰でもなく歌を歌い始めた
ひとり、ふたり、三人のインディアン
四人、五人、六人のインディアン
・・・・・・
十人のインディアンボーイ
彼らはインディアンの歌を歌い始めた。
すると天上は一天にわかにかき曇り、巨大な何者かがやはり巨大な杖を使ってかき混ぜているように、暗雲が水槽の中に水をためて急に栓を抜いたときのように巨大な円錐型の底を見せた。
「何をしやがるんでぇ」
ガトリング砲を持った暗殺者はいらだちと半ば恐怖の感情にとらえられ、その速射砲を四人の居候の方に向けた。
四天王たちは剣を暗雲に向けた。すると巨大な光に包まれ爆発音がきこえた。
天と地上をつなぐ幾本もの光とエネルギーの矢が降ってきた。
暴漢も大鉄筒を落としている。
寺の築地の上から顔を出している松の枝がめらめらと燃え、築地が五メートルの長さに渡って崩れ落ちている。
その爆発によって倒れた市場の商人が十四五人気絶して大の字になっている。
「ピーピー」
四天王たちは何かが不満のようだった。
今はもうその恐怖によって身動きもせず暗殺者は地面の上に倒れている。
ふたたび四天王たちは暗雲の渦巻きの中心に向かって剣を捧げるとその渦巻きの中から毛むくじゃらな豚鼻のわけのわからない巨大なけだものが自分の身体のまわりにいかづちをしたがえながら降りてくると暗殺者の首を食いちぎり空中に投げ上げた。
ペ・ヨンジュはあまりのことに言葉も出なかった。
「今の術は、なんニダ、なんニダ」
としっこく聞くと居候たちは
「宇宙剣」と
ぶすっと答えた。
その様子を少し離れた大木の高いところから白い太股もあらわに見物しているくのいちがいた。
「ふん、ばかめらが」
女は吐き捨てるように言った。
くのいち、山田優であった。
☆くのいち忍法 ディープキス
鬱蒼とした森の高い枝の木の葉のあいだを抜ける木漏れ日とともにどことなく悲しい野生の猿の鳴き声が時々もれてくる。
森に囲まれた秘密の場所があった。
ここで生まれ育ち、木から木へと飛び移る猿と同じ子供時代を過ごしたくのいちしかこの秘密の場所は知らない。
忍者屋敷の裏手からつま先上がりの茂った木々の葉に隠された小道を上がって行くとそこだけは森の天井が抜けて蒼天がのぞき見ることが出来る。
自然の摂理で大きな岩がいくつも置かれ、岩に囲まれた一角に小さな小さな湖が液体をたたえていた。
その液体の表面からは湯煙が上がっている。
ここは忍者しか知らない温泉であった。
その温泉につながっている細い坂道をふたりの女が浴衣を着て上がって行く。
ふたりは木製の桶を持ち、その中には綿の手ぬぐいが入っていた。
ふたりは素足に下駄をひっかけて、その足の指先はほんのりとピンク色になっている。
「姉じゃ、そこそこ、そこの枝からこのまえ蛇が出て来たのよ。今日も出てくるかも知れないから、気をつけてね。ほら、出た」
「いやん、優、お前は何て意地悪なの」
「はるか姉さん、くのいちが蛇ぐらい怖がって、どうするのよ」
くのいち山田優は片手に持った小枝を振り回しながら、前を歩いているくのいち井川遙を笑った。
ふたりはくのいちである。
山田優はナンバー十一、井川遙はナンバー七。
したがって井川遙の方が若干年上であった。
ふたりは軽口をききながら小枝を払い、木の葉が途絶え、満々とたたえたお湯が見える場所に立つと自分たちの持って来た桶を緑がかった灰色に輝く大岩の上に置いた。
お湯がかからないあいだはこの岩は灰色をしているが深い地の底に沈む自然からの贈り物で濡れたとき、何とも言えない緑色に変化をする。
大岩の上に立つふたりは下駄を脱ぎ、素足で岩の感触を感じていた。
井川遙のふくらはぎのあたりは見えていたがやがて見えなくなった。
彼女は着ていた浴衣をするすると脱ぐとくろぶしのあたりに浴衣が固まった。
くのいち山田優は腰をおろしたまま、くのいち井川遙のフランス梨を思わせる裸体の背後の映像をじっと見つめた。
くのいち井川遙は浴衣を着たままじっと自分の裸体を見つめている山田優に顔を赤らめた。
「優ちゃん、何を見ているのよ。自分は浴衣を脱がないで」
「やっぱり、見事なものね。大名の美人局を得意な技にしているだけのことはあるわ」
「やだわ、優ちゃん。あなただって似たようなものじゃないの。こんな格好をしているのをお猿さんに見られても仕方ないわね」
くのいちナンバー七は手ぬぐいで前の方を隠しながらゆるゆるとお湯の中にその見事な裸身を浸すと濡れた手ぬぐいであげた髪の生え際のあたりを拭うった。すると耳たぼのあたりがうっすらと桜貝のように染まった。
くのいち山田優はその様子をじっと見ている。
「優ちゃん、あなたも早く入りなさいよ。わたしだけ先に帰っちゃうわよ」
くのいち井川はやはり手ぬぐいで首のあたりを拭いながら首だけ振り返り、くのいちナンバー十一の方を見た。
山田優は忍者の早技を使い、浴衣を脱ぐと同時にお湯の中に入った。
「いいお湯」
優は遙の方に近付きながら言った。
お湯は思ったよりも透明でふたりの裸身が透けて見えている。
「姉じゃの乳首って思ったより大きいのね。つまんでみたいくらい」
「優ちゃん、実は自分でももてあましているの。えっ、なに、何、冗談言っているのよ。優ちゃん。それより、あなた大変な宝物を盗んで来たって本当なの」
「ああ、そのことね」
ナンバー十一は透明なお湯をかき混ぜながらつまらなそうに答えた。
「阿部屋敷に入ったそうじゃない。阿部屋敷と言ったら、阿部寛といい、その弟のペ・ヨンジュといい、大変な剣の使い手、気をつけてよ。命あっての物だねだわ」
「あははははは、キスマークいりの置き手紙も置いて来たわよ。また来てねって。そのときはメイクラブしましょうって。だって阿部寛の奴、布団まで敷いていて泊まって行けとまで言って、わたしを誘ったのよ」
「何、言っているのよ」
「遙ねえさん、心配しないで、こっちには雷剣があるわ。雷剣をうち破るものはいない」
「雷剣って」
「最初、華剣を盗むつもりだった。そもそも雷剣なんてものがあることは知らなかったんだもの。でも、間違えてかえって良かったわ。雷剣って大変な代物よ。雷、電撃を起こすことが出来る。天から地上のものはみな一瞬のうちに破壊しつくすのよ」
「優ちゃん、あまり、あぶないことばかり、続けないでね」
「もし、雷剣に対抗出来るものがあるとすれば、あのわけのわからない四人の生き物だけだわ」
「四人の生き物って」
「何でもない、こっちの話しよ」
くのいち山田優はあの市場での恐ろしい場面を思い出していた。
もし、あの四人を敵にまわしたら、もっとも恐ろしい敵になるに違いない。
「優ちゃん、何を考えているの」
井川遙は山田優がもっと女らしいことを考えているのではないかと思っているらしかったが、実際はあの恐ろしい四人組の剣法のことで頭がいっぱいだったのだ。
「優ちゃん、前から心配していたんだけど」
「何よ」
「もう、くのいち忍法ディープキスを使うのはよした方がいいんじゃないかしら。たしかに忍法ディープキスは最強の忍法だわ。でも、成功と破滅との表裏一体の忍法だということはあなたも知っているわね。あなたが自分を投げ出してその忍法をつかうとき、あなたは相手に技をかけると同時にかけられる運命にもあることを知っている。つまりあなたがくのいち忍法ディープキスをかけるとき、その相手が運命の人だったら、あなたはその人と恋いに落ちるの。そしてあなたは身も心もその人の恋の奴隷になってしまうんだわ」
くのいち井川遙が潤んだ目をしてくのいち山田優に訴えかけると
優は温泉のお湯をばしゃばしゃさせて笑い転げた。
「運命の人、運命の人ですって、あの唐変木のしやくり顎が。遙ねえさん、もう九百九十九回もくのいち忍法デイープキスを使っているのよ、一度だってわたし、その術は破れたことはない。あの芋野郎で千回目だわ。わたしがあんな奴の術中に陥るなんてあり得ない、あり得ない、よしてよ。くっくっくっくっ」
くのいち山田優は忍法ディープキスが決して破れないという自信があった。つまり、運命の人に出会わないだろうし、恋いにも落ちないだろうと思った。強い自信があった。
ましてやあんなあごひげ伸び放題の男にである。
だいたいわたしのようないい女が最初に会ったその日に自分の家に泊まって行けというような無神経でずうずうしい男と恋いに落ちるなんて考えようがない。
「遙ねえさん、これからも必殺技忍法ディープキスを使って金目のものを盗みまくるつもりよ。そして大金持ちになってルソン島に移り住むの、大きな屋敷に住んで女王様のような生活をするつもり」
くのいち井川遙は優から何度この話しを聞いたことだろうか。
金目のものを盗むのはくのいち十一号自身の目的があるということはわかる。
しかしだ、しかし、忍法ディープキスを使うのは危険すぎる。
七号は十一号に危ういものを感じた。
そう思って遙は湯に浸かって上気している優のほっぺたにある変化が生じているのを発見した。
「優ちゃん、ほっぺた、ほっぺた」
「なに」
「ほっぺたにピンク色のハートのマークが浮かび上がっている」
「えっ、なに、なに」
優はお湯に映った自分の顔を見た。
たしかにほっぺたに小さなピンク色のハートのマークが浮かび上がっている。
「あいつのせいだわ。あいつのせいだわ」
「あいつって誰」
「あの唐変木よ」
「千人目のあいつよ」
山田優の頭の中にはあのいまいしい雷剣の持ち主、阿部寛の顔が憎々しげに浮かんできた。
くのいち忍法ディープキスは無敵の忍法である。
そのわざをかけられたら最後、相手の男は気絶するしかない。
しかし、阿部寛は一度だけ顔を離して優のほっぺたにキスをしたのである。
「あいつに変な病原菌うつされた。もう、ただじゃすませないわ」
優はお湯の中で立ち上がると両腕を振り回してお湯をばしゃばしゃと叩き出した。
お湯しぶきがばしゃばしゃとあがる。
「やめて、やめて、優ちゃん、わたしが忍法博士マイケル・ジャクソンにそのこと聞いてあげるから」
くのいち屋敷に戻ってから山田優はすぐ寝てしまった。
くのいち屋敷の中には忍者のことを何でも調べている忍法博士マイケル・ジャクソンも住んでいた。
くのいち屋敷は大きな農家にも見えるし、匠の工房のようにも見える。
しかし、その中にはいろいろな仕掛けが施されていて、変なところを歩くと足に輪をつながれて逆さ吊りになったり、変な滑り台に乗っている自分を発見して屋敷の外に放り出されてしまったりする。
しかし、くのいち井川遙は屋敷の中を熟知していたからそんなことはなかった。
変な掛け軸の裏の隠し扉を開けて階段を上がって行くととても実際には使えないくらい大きな火縄銃やその逆に小さな火縄銃、かんじきのようなかたちをしていて水面の上を歩いて行ける道具、水の中に何時間でも潜っていられる道具、おぼろ影という忍術に使う道具、
そんなものが天井からたくさんつり下げられている。
その中でかび臭い和綴じの本の中で忍法博士マイケルくんは何か調べ物をしていた。
「マイケルくん、相変わらず熱心ね」
「なんだ。遙さん。お久しぶりです。ここ二三日お会いしませんでしたね」
「これなに」
「あっあっ、やめて下さい。遙さん、その紐を引っ張るとこの部屋全部が空中に飛んで行きます。緊急脱出装置です」
「あら、危ない」
くのいち遙は持っていた紐を離した。
「遙さん、最近、役小角が実は忍者だったということを発見しました。もっとも古い忍者かも知れません」
くのいち遙は役小角と言われても何のことかさっぱりわからなかった。それよりも緊急を要する問題がある。
「くのいち忍法ディープキスのことですが」
「遙さん、くのいち忍法ディープキスを使っているのですか、やめなさい、やめなさい。
あれは大変危険な忍法です。仕掛けた相手に身も心も奪われてしまう可能性のある忍法だからです」
「わたしじゃありません。ナンバー十一の優のことです」
「えっ、えっ、彼女、忍法ディープキスを使っているって」
忍法博士マイケルくんは頭をかきむしった。
「やめさせなさい。やめさせなさい。あれは大変危険な忍法です」
「それで忍術のことなら何でも知っている忍法博士マイケルくんに教えてもらいたいことがあるんです」
「十一号の山田優のことですか。早く話してください」
「優は最近、おかしいんです。この前、お腹が空いたのでウサギの肉をとろうとして手裏剣を取りだしたのはいいんですが、つがいのうさぎだったら、手裏剣を投げられなくなっちゃったんです。それにこの前なんか、木から木に飛び移る術は天下一品だったのに手を滑らして地面に落ちて尻餅をついちゃうし」
「それから、それから」
「さっきお湯に入っていたとき発見したんですけど、ほっぺたに小さなピンク色をしたハートのマークが」
「えっ、えっ」
忍法博士マイケルくんはまた頭をかきむしった。
「大変です。大変です」
「本人はくのいち忍法ディープキスを仕掛けた千人目の相手がほっぺたにキスされたときに変な病原菌をうつされたと言っています」
「そんなことはない、そんなことはない。大変です。大変です。優は大変なことになっています」
「大変なことって」
「優は破れました。くのいち忍法ディープキスは破れてしまったのです。優はその千人目の男に身も心も奴隷になるしかありません。ああ、大変だ。大変だ」
「ええ、本当ですか」
くのいち遙は忍法博士マイケルくんの首をしめると激しく揺さぶった。
「やめて下さい、苦しい、わたしを誰だと思っているんですか。忍法博士マイケルくんですよ」
そう言われて冷静になった井川遙はマイケルくんの首から手を離した。
「助ける方法はありません。そのほっぺたに出来たハートのマークはくのいち山田優がその千人目の男に逆ディープキスのわざを返された証拠なのです。ああ、山田優はくのいち失格だ」
「ちょっと黙ってくださらない。このことは誰にも言わないでください。とくに十一号の山田優には」
   ☆子犬のワルツ
すっかりと期待を裏切られて落胆の色がその背中にあらわれているくのいち井川遙が忍法博士マイケルくんの部屋を出て行こうとすると、急に思いついたようにマイケルくんは古びた机の上でにっと白い歯を輝かせて遙を呼びとめた。
「ちょっと待ってください。あの方なら、あの方なら、山田優のほっぺたのマークを消せることが出来るかも知れない」
「えっ」
呼びとめられたくのいち遙は座り机の前で正座して熱い視線を自分の方に向けている忍法博士マイケルくんの顔をまじまじと見つめた。
「あの方って」
「古今を虚しくする恋愛忍法の大家、武田鉄也導師です。今は市井の人となり、城下のどこかに住んでいるはずです。武田鉄也導師の恋愛忍法の精華に較べたら僕の忍法の研究などは児戯に過ぎません。そもそも忍法はすべて恋愛忍法をそのもとにしています。遠く平安京のむかしから恋愛忍法は脈々と続いているのです。われわれのやっている忍術、いや、くのいちの技などはみな恋愛忍法の一部に過ぎません。武田鉄也導師はそのすべての恋愛忍法に精通しています。恋愛忍法の世界は武田鉄也導師にとって自分の住んでいる小さな町に過ぎません。そして導師は町内会でその町のすみずみまで熟知している古株なのです。導師の年齢はすでに千才を越えているといわれています。これは導師の若い頃の話しなのですが遠く中国に渡ったことがあります。そこで貧乏な一族に会いました。一晩の食事と寝床のお礼に何かお礼をしたいと言ったとき、彼らは皇帝のきさきをわが一族から出したら、わが一族の繁栄は約束されるだろうにといいました。すると武田導師は小屋に飼われた一匹のうさぎをつかまえると恋愛忍法をかけました。すると、そこに絶世の美女が生まれ、お風呂に入りたいというのでお風呂につかわせると、その肌をつたう汗は白い花びらとなりました。その一族が栄華を極めたのは言うまでもありません」
「恋愛忍法なんて、いわれたって。でも、魔法みたいなものなんですね。でもそれを使えば優ちゃんのほっぺたのマークもきれいに消えるんですね。忍法博士さん」
くのいちはるかはその名前を口の中で繰り返してみた。
「導師なら逆ディープキス返しの技を解くことが出来るでしょう。しかし、そのための料金が必要となります。それはけして安くはありません」
「マイケル博士、ありがとう、ためしてみますわ」
くのいち井川遙の顔は急にバラ色に輝いた。
井川遙はマイケル博士に礼を言うとその部屋を出た。
翌朝、くのいち屋敷の雨戸を開けると前庭に植わっている竹林のあいだから上がってくる日が笹の葉にぶら下がっている水玉をきらきらと輝かした。
「いいお日より」
山田優の部屋に入って行くと壁の横についている寝床の中でふとももでかけぶとんをはさみながら、すやすやと寝息をかいている。くのいち優のふとももはあらわになっていた。くのいち屋敷の寝床は壁の横についていて、もし敵が襲ってきたときは壁についている秘密の戸を使って他の部屋に逃れることが出来るのだ。
そのために変な位置に寝床がついている。
山田優は目を閉じ、唇を少し開け、寝息をたてながら掛け布団をくしゃくしゃにして抱きしめている、天上での世界を夢見ているようだった。
「優ちゃん、起きなさいよ、起きなさいよ」
くのいち遙が寝ている山田優の肩を揺さぶると眠い目をこすりながら十一号は上半身を起こした。
くのいち山田優はふとももの半分のところまでしかない薄すみれ色のネグリジェを来ていたが、くのいちらしくない格好である。
「こんな姿で敵に襲われたら、どうするんですか」
山田優の太ももは半分以上あらわになっていて胸もそのための下着がないためにその束縛される不自由から解放されてその頂点を向く角度が九十度以上になっていた。
「鳴子を仕掛けてあるから大丈夫よ」
くのいち屋敷のまわりはてぐすが張られ、侵入者が来るとそれを知らせるようになっているし、庭にはいくつも落とし穴が掘ってある。
「優ちゃん、いいお知らせよ。これから城下に行くのよ。さあ、はやく服を着てちょうだい。あなた、気にしていたじゃないの、その変なほっぺたについているピンク色のハートのマークについて、いいお医者さんが見つかったのよ。忍法博士マイケルくんの紹介よ」
くのいち優は上半身を起こし、ネグリジェを脱ぎ捨てると、小麦色の肌の上に下着をつけた。
「マイケルくんの紹介じゃ、やぶ医者じゃないの」
くのいちはるかはその人物が恋愛忍術仙人だということは隠しておいた。
そして、ほっぺたに出来たしるしが忍法ディープキスが逆に阿部寛に返された結果だということも。
さらに、その逆デイープキスの技を仕掛けられたということも、阿部寛が山田優の運命の人かも知れないということも。
もし、そのことを山田優に言ったら、彼女は大騒ぎをして取り乱すに違いない。
それどころかむやみやたらに暴れ出すかも知れない。とにかく優にとって、あの男は唐変木のあごひげむしゃむしゃの男に過ぎないからだ。
ふたりはくのいち屋敷を取り囲んでいる森の中を、木の高枝から高枝へと飛び移っていた。
森の茂みが途切れるところにほとんど人が来ない寺があって、ふたりはそこの仏像の裏の隠し戸棚に忍者の衣装を隠し、町娘の姿に着替えた。
仲の良さそうな町娘がそこに現れた。
ふたりは田んぼの横の用水路につながれている小舟を盗んで、もやいを解くと小舟はまだ背の低い稲が水の上からちょこんと顔を出しているいくつもの田んぼを横に見ながら春の日の下をなめらかに下流に下って行く。
やがて小舟は江戸の町に入った。
ふたりは橋の下の人の目につかない場所にたくみに櫓をつかい岸に寄せると小舟を半ば朽ちた川面から飛び出ている杭につないで岸に飛び移った。
「江戸の町なんて久しぶりね、姉じゃ」
「せっかく来たんだから、何か、おいしいものを食べなきゃ」
ふたりの意見は一致したが財布の中に一銭もあるわけではなかった。
しかし、くのいちにとって財布の中が空っほ゜などということはなんのその行動の障壁ともならない。
「すっごく有名なおそばやさんがあるって言う話しじゃない」
「知ってる、くのいちナンバー3の裕子が言っていたわ」
くのいち屋敷には多数のくのいち達が住んでいた。どれもおとらずの手練れである。
夜な夜なむじなが出没するといわれている佐賀藩の下屋敷を三丁ほど下ったところに江戸でも評判のそばや玉露庵があった。
ふたりはその玉露庵に行くことにした。
最初ふたりはそこが小さな町家を改造したぐらいの店だと思っていたが、ちょっとした旅籠ぐらいの大きさがあり、何人もの女が働いていて、客もたてこんでおり、客たちのおしゃべりや蕎麦をすする音が華やかな雑音としてふたりの耳に入ってきた。ふたりが玉露庵と障子紙におお書きされた引き戸を開けると、月夜に照らされた夜の江戸の町の透明感とはまた違う、喧噪が充満しているもやった世界がそこにあり、座っていた客が振り返りながら注文したそばがまだ来ないと店の女に苦情を言っている。客席と下半分の高さしかない壁で区切られた、縄のれん越しに見える蕎麦をゆでている場所には天井の上の方にまで湯気がたちこめている。
「優ちゃん、あそこ、あそこ」
大きな杉の木を縦に割ってその割れ口を磨いて平らにしたみたいな机が空いているのを見つけて、くのいちはるかとくのいち優はそこに座るとすぐに店の女が寄って来て
「お客さん、何になさいます」
と言ったので山田優は盛り蕎麦十枚と答えた。
「すぐにね、別にあとから連れが来るというわけではないから」
とも付け加えた。
「優ちゃん、やだわ。盛り蕎麦十枚だなんて」
「姉じゃ、食べられるわよね」
「もちろん、食べられるけど、でも、どうして、つれが来ないなんて言うの」
「くのいち八号から聞いた話よ、くのいち八号、天ぷらそばとおかめそばと合鴨のせいろを注文したら、いつまでたっても料理が運ばれて来なかったんですって、そのあいだもあとから入って来た客にはどんどんと蕎麦が運ばれてくるし、一緒の時間に店に入った客は食べ終わってそば湯まで飲んで店を出たし、とうとうしびれを切らしたくのいち八号は
わたし、ずっと前に注文したのに、ぜんぜん料理が運ばれて来ないじゃないの、一緒に店に入った人はとおの昔に店を出て行っちゃったじゃないの。わたし、怒っちゃうわよ。
そう言ったら店の女の子が
お客様、随分とたくさんお召し上がりなさいますから、てっきりお連れ様が来ると思いまして、あまり早くお出ししてもまずくなってしまうと困ると思いましたので、お連れ様が来るまでお待ち申し上げておりました。
って言ったんですって、
くのいち八号、すっかり恥ずかしくなって顔を真っ赤にしてしまったって言っていたわ。
わたし達のところでも、いつまで経っても蕎麦が運ばれて来なかったら、困るじゃないの、
だから前もって言っておいたというわけ。
でも、わたし、そばって好きだわ、するするすとお腹の中に入って行くし、あののどごしがなんとも言えないのよね」
くのいち山田優が机の上に置いてある七味唐辛子の入った木製の小瓶をお手玉をいじるように触りながら言った。
「もうそろそろ始まるんじゃないの」
濡れた髪をうしろで束ねたままにしている湯上がりの女が前に座っている瓦版や風の男に話しかけると、その男は店の真ん中の柱の中くらいぐらいの高さのところに視線を移したので、それに興味をひかれてふたりのくのいちたちもその視線のさきの方を見た。
そこには変なものが飾られている。
何のまじないだろう。
それとも何か宗教的な意味合いがあるのだろうか。
店の中央に大きな柱が一本立っているのだがその柱の真ん中ぐらいの高さのところに仏壇や神棚を飾るための台みたいなものが拵えてある。
しかし、面妖なことにそこには民間宗教の信仰の対象にもなりえないものが飾られているのだった。
台上にはちょっとした木の台が置かれていて、その木の台自体には何の意味もなく、その飾られているものを固定するという意味合いしかないようだったが、その木の台の上に珍奇でかつ凡庸なものが飾られていた。
不思議そうな顔をしてそれを見ているふたりのくのいちに、首に手ぬぐいを巻いた大工らしい若者が話しかけてきた。
「お姉さんがた、江戸っこじゃないね、よそ者だね、どこから来たんだい」
と下心、見え見えで、色っぽい、ふたりのくのいちを見た。
目の玉がくるくると球面運動をしている。
「ふん、わたしたち、生粋の江戸っこよ。墨田川で産湯をつかったんだから」
「姉さん方、嘘、おっしゃい。これを知らないなんて、江戸っこは、みんな、これをはじめているよ、もう、そろそろ始まるんじゃないかな」
その木製の箱の上にはお茶碗が横向きに置いてある。
木製の箱があるのは茶碗が転げないようにするためだけだというのは明らかだった。
ふたりのくのいちは何が始まるのか、わからなかったが口は開かなかった。
すると、突然、音楽が流れ始めたのである。
それも何の変哲もない御飯茶碗からである。
店の中にいる江戸っ子たちはみんな聞き耳をたてた。
「さあ、エブリバディ、グットイブニング、ニダニダ、お江戸の夜に夢の一夜をお届けするヨン様ですニダ。お江戸のみんな、今夜はどんな夜を過ごしているかな。
神田明神の富くじは明日、発売だよ。みんなに幸運があるように。ニダニダ。
深川の植木職人の三助さんから、味噌屋の小梅ちゃに伝言だよ
小梅ちゃん、好きです、結婚してください。おいらは一度会ったときから小梅ちゃんのことが好きになりました。
さあ、熱い三助さんからの告白ですニダ。
今夜も素敵な夜を
キューウーーー
 ヨンさまの江戸紫の夜、始まるよ。
これから丑三つ時まで、みんなつき合ってくれよニダニダ」
それから、電気三味線の音が入り、
その音楽に合わせて、蕎麦屋にいる若者は身体を揺らしている。
「なに、これ」
「江戸の町は一体、どうなっているの」
この面妖な事態に、起こっている事象自体が面妖だというのではない。
確かに、この声は聞き覚えがある、それどころか、その声の主を山田優も井川遙も知っているのだ。
「阿部寛の弟、ペ・ヨンジュ」
ふたりのくのいちは期せずして声を合わせた。
そして、驚愕となかばあきれた感情を持って顔を合わせた。
ふたりの瞳の中にはお互いの驚いた顔が映っている。
何の変哲もないお茶碗の中から、ペ・ヨンジュの声が聞こえてくる。
「アンニョン・ハセミダ、葉書職人くりくり坊主からのお葉書ニダ
幼稚園児がお母さんといつも一緒にふとんに入って寝ることにしていたニダ。
ねえ、ママ、僕の願いを何でもきいてくれるニダか、
ええ、かわいい、かわいい、わたしの息子、子ヨンジュ、何でもいいわよ。
あなたの願いは何でもいいわよ、かなえてあげる。そのかわり、わたしのことチェ・ジュウ・ママと呼んで」
「いいよ、ママじゃなかった。チェ・ジュウ・ママ。恥ずかしくて言えないんだけどニダ。
僕のお手手、さっき外に行ったから冷たくなっているニダ。
暖めて、暖めてニダニダ」
「いいわよ、子ヨンジュ。暖めてあげる」
「ママのおへその穴に指、入れていいニダ。指が冷たいだもんニダ」
「いいわよ、子ヨンジュ」
しばらくすると子ヨンジュは変な感覚を覚えた。
チェ・ジュウ・ママも変な感覚を覚えた。
「やめて、子ヨンジュ、そこはおへその穴じゃないのよ、ああん、それに。子ヨンジュの指、大きくなっているじゃない」
「へへへへへ、僕が入れたのは指ジャナイニダニダニダ」
ばんとテーブルを叩く大きな音が聞こえた。
「下ネタじゃないの、下ねたじゃないの」
「確かに下ねたね」
「あいつの弟がやりそうなことだわ」
くのいち山田優は歯をぎりぎりとならした。
そして立ち上がり、あたりを見回したが息巻いたまままた座った。
「優ちゃん、落ち着いて」
「何よ、これ。江戸の町は一体どうなっているの。下品、下品、下品だわ」
山田優の憤りはまだ収まらなかった。
「やだあ、姉じゃ、わたし、弟がこんなことをやっている兄とディープキスをしたの。
やだあ、やだあ」
くのいち山田優はさかんに地べたにつばを吐く仕草をした。
「おえおえ」
「優ちゃん、そんなに気持ち悪がらなくても」
「これが気持ち悪い以外のなんなのよ。姉じゃはあの男に会ったことがないから平気でいられるのよ。顎から出ているあごひげの気持ち悪さや、鼻の穴から出てくるあいつの息を、私、吸っちゃったんだもん、ああ、思い出してもむかむかする、あいつの体臭が残っていたらどうしよう、ああ、寒気がするわ」
「馬鹿なこと言わないで、優ちゃん、お風呂に入ったんだから、あの人の体臭なんて残っているわけないでしょう。馬鹿ね、あんた」
ペ・ヨンジュの茶碗から聞こえてくる声はまだ続いていた。
「次は向島に住むおけいちゃんから来たお手紙ニダ。今晩はヨン様、いつもヨン様の江戸紫の夜、楽しみにしています。わたしは十三才です。近所のおばさんの家に行って裁縫を同じくらいの年の女の子と一緒に習っています。そこでもいつもの話題はヨン様の江戸紫の夜のことです。みんなヨン様のファンですよ。うれしいニダ。うれしいニダ。みんなで浴衣を縫っているところなんですが、そこでの話題はいつも彼氏のことばかりなんです。
みんな彼氏がいるみたいなんです。でもわたしには彼氏がいません。わたしは十三才なんですが、見た目はみんなよりも幼く見えますって、みんながそう言うからそんなものなのかなと思ったりします。そうかニダ、そうかニダ。みんな個人、個人で成長の速度が違うニダだから、あせる必要はないニダ。まだお手紙の続きがあるみたいニダ。さきを読むニダ。でもヨン様、最近、わたし、好きな相手が出来ました。その人は好物があるので、その人の好きななものをいつも持って行くと喜びます。でも、いつも誰かに追いかけられているらしく、わたしが行っても好きなものだけをくわえると高いところに駈け上って行きます。彼の最大の敵は魚屋です。彼の身体は毛むくじゃらです。わたしの身体は二色の毛が生えています」
「すごいニダ、すごいニダ。とうとう、ヨン様のところに猫から恋愛相談が来たニダ」
「馬鹿だねぇ、ヨン様、猫から恋愛相談が来たと言って喜んでいるよ」
さっきあんた達江戸っ子じゃねぇだろうと言った若い大工がくっくっと低い笑い声を漏らした。
「ねぇ、あんた」
「なんだい、姉さん」
くのいち山田優が顔を向けると、その若い男も優の方に顔を向けた。
「実を言うとわたし達、江戸っ子じゃないのよ。江戸がこんなことになっているなんて知らなかったわ。こんな変なことになっているなんて。茶碗の中から声が聞こえたり、ペ・ヨンジュの江戸紫の夜ってなんなの、江戸の住人がペ・ヨンジュの話しを聞いたりして、中にはペ・ヨンジュの家に文を出しているみたいじゃないの」
「そうなんだよ。不思議なんだけどな。あっしの場合はここで酒を飲んだときのことなんだ。杯の中から変な音が聞こえたんだ。小さな音だったんだけど耳を近づけてみると微かに人の声が聞こえたんだ。それがヨン様の声だったんだよ。江戸中の瀬戸物のがみんなそんなことになつたんだ。それでも瀬戸物の種類によって大きな音が聞こえたり、耳を近づけなければ聞こえなかったりといろいろなんだ。それで、あんな大きな声で聞こえるのは珍しいんだぜ。ほら、あの茶碗ぐらいにヨン様の声が流れてくるやつなんかは瀬戸物が千個くらい集まって一個ぐらいだよ」
ではペ・ヨンジュの方はつまり阿部寛の屋敷の方はどうなっているのだろう。
ペ・ヨンジュは書斎の中で机の前で話していた。ペ・ヨンジュの横には江戸の住人から届いた大量の文が置いてある。
最近はいつも決まった時間になるとペ・ヨンジュはこの作業を繰り返しているのである。
これもまた突然のことだった。
山田優に雷剣を盗まれたために阿部寛の屋敷に残された家宝は華剣のみとなった。
そのために阿部の屋敷にとって華剣の価値はさらに高まったのである。
当然、華剣を手入れする回数は増え、手間をかけるようになっていた。
たまたまペ・ヨンジュが華剣を鞘から抜き、その手入れをしていたときのことである。
台所の方から阿部寛の声が聞こえた。
「ヨンジュ、何か、言ったか」
阿部寛は台所で大根の葉っぱを刻んでいた。
「何も、言わないニダ」
また、阿部寛は台所に戻った。
そこでまた、阿部寛は微かにペ・ヨンジュが鼻歌を歌っている声が聞こえた。
「ヨンジュ、お前、鼻歌を歌っていただろう」
「そうニダ、でも、どうしてわかったニダ」
「お前の声が微かに聞こえた」
「不思議ニダ」
「今度は場所を入れ替わろう」
そうして今度はペ・ヨンジュが台所に行き、阿部寛が書斎にいると同じ現象が起こった。
「兄じゃ、これニダ、これニダ」
ペ・ヨンジュは台所にある桜の花があしらわれた小鉢を持って来た。
同じ場所にいるふたりの声はたしかにその小鉢から聞こえてくる。書斎にはペ・ヨンジュが手入れをしている華剣が置かれている。
その華剣も刀身が畳につかないようにとの、また転がらないようにとの配慮から逆さに伏せた茶碗の底の上に一部が置かれている。
「これニダ、これニダ。犯人は華剣ニダ」
ふたりは家宝の華剣の不思議な使用法を知った。華剣は花園や妖怪を呼び出すだけではなかったのであった。
華剣をお茶碗にふれさせて置くと、遠く離れた場所でお茶碗から華剣が声を拾い出し、その声を遠い場所に運ぶことがわかった。
そしてヨン様は華剣とお茶碗を紐で縛って、お茶碗に向かって話しかけると遠く離れた場所に置いてあるお茶碗からその声が聞こえてくることを確かめた。
そこでいつも決まった時間にそれを使って話したことが吉原の中にあるお茶碗からも流れて遊女もその話しを聞くことが出来ることがわかった。
そうしてヨン様がその作業を繰り返すことにより、阿部寛の屋敷にはその話しを聞いた江戸の住人から文が来るようになり、その文を読んだペ・ヨンジュがその内容を話すようになった。
それに対してまた文が来るようになったのである。
ヨン様はその作業を始める前に自分のこの作業とその作業によって流される内容も含めて、ヨン様の江戸紫の夜と名付けた。
くのいち屋敷に住んでいた山田優も井川遙も江戸の町に起こっているこの現象を知らなかった。
そして、もうひとつ知らないことがあった。
江戸の町には火竜あらため組という、一種の犯罪捜査組織が出来ていて、オランダから流れて来た高性能の武器を使った強盗や金蔵破り、忍者の集団による盗みなどを取り締まっていた。
ふたりはまだ蕎麦を半分まで食べていなかった蒸籠も蕎麦のつゆもまだ大部残っている。
蕎麦屋の中にいた客たちはそわそわしていた。
「もうそろそろ火竜あらため組が来るんじゃないかい」
この蕎麦屋の中に西洋から来た高性能の武器を持っている族や忍者がいたら大変なことになってしまう。
「みんな、そわそわしているみたいだけど」
「姉さん方、火竜あらため組が来るころなんだよ、何もなきゃいいけど、忍者なんかがいたら大変なことになっちまうぜ、ここが桶狭間の戦いみたいになっちまうからな」
あんちゃんは眼の下を赤くして言った。
「どうする、姉じゃ、江戸の町は面倒なことになっているみたいだわよ」
「そうみたいだわね、優ちゃん」
「とんずらする」
「賛成」
「あら、火竜あらため組だわ」
山田優が蕎麦屋の入り口の方を指さすと客たちはみんなその方を向いた。ふたりのくのいちの女は飛び上がると天井の梁の上に座って、下の客たちがあわてふためいているのを見た。
「みんな、きょろきょろしている」
ふたりの手には蕎麦の蒸籠、二段ずつとそばつゆの残っているそばちょこが握られている。
山田優は蕎麦をすすりながら、その様子を見ていた。
「優ちゃん、ここに長居は無用よ」
ふたりが屋根裏に出ると、夜空には月がかかっている。
ふたりは江戸八百八町の屋根瓦の上にとびのっていた。
そしてその上を走り抜け、ひとけのない河原におりたつと食べ残していた蕎麦の蒸籠にふたたび挑戦した。
その箸をひとつふたつ、つつかないあいだに
「待って、優ちゃん」
くのいち遙が振り返るのと山田優が後ろを振り返るのは全く同時だった。
ふたりの火炎玉が一直線に背後の茂みの中に飛んで行き、紫色の煙が立ち上がり、ごほごほとせき込みながら、マッシュルームカットのイギリス人が茂みの中から顔を出した。
「ひどい、ひどいでごじゃります。お仲間だと思っておりますのに」
金髪のイギリス人はまだせき込んでいる。
くのいち優と遙はまた顔を見合わせた。
「いやはや、まず手前から名をなのらなければなりませぬな、拙者、恋愛忍法、武田鉄也導師の一番弟子、ポール・マッカトーニーと申します。お見受けしたところ、あなた方も忍者、今の火炎玉ですべてがはっきりとわかり申した。最近は火竜あらため組などという輩があらわれて、忍者も生きにくい時代になりました。いやはや、あなた方が最初にあの蕎麦屋に入って来たときから、あなたがくのいちだということはわかっておりました。そして、あなた達が拙者と同様に蕎麦代が払えないのではないかということも、拙者も実はどうやってあの場を逃げようかと悩んでおりました。あなた方が騒ぎを起こしてくださったので、拙者もそれにまぎれて逃げ出すことが出来ました。そのことのお礼を申し上げようと思いまして、失礼ですがあなた方のあとをつけさせて頂いたのです。わたしも同じ忍法の道を志す者、どうか、エゲレスにいらっしゃった節には、わが屋敷、りんご忍者屋敷を訪ねてくだされ、では、失礼いたします」
エゲレス忍者が立ち去ろうとすると、くのいち遙が彼を引き留めた。
「待ってください。恋愛忍法と聞こえましたが」
「確かに、恋愛忍法と申しました。恋愛忍法をこころざす者は少数しかおりません。恥ずかしながらこのポール・マッカトーニー、武田鉄也導師の一番弟子でございます」
「本当ですか、あなたは武田鉄也導師を存知あげているのですか」
「わたくし、武田鉄也導師の一番弟子でございます」
くのいち井川遙はその言葉を聞くとまだ手をつけていない蕎麦と蕎麦つゆを差し出し、ポール・マッカトニーに食べるようにすすめた。
「食べてください、食べてください」
彼はその言葉を聞くと、すなおに貢ぎ物を受け取り、蕎麦をすすり始めた。
くのいち遙はポールが一心に蕎麦をすすっている姿を満足そうに見ていた、何か次の機会をうかがっているようだった。
しかし、当の本人くのいち優は腰に手を当てて、その様子を見下ろしていた。
「うまい、うまい、さすがに名の高い店だけのことはある。しかし、お二方、何故、拙者に親切にして頂けるのですかな」
そう言いながらポールはそのことに何の関心もないように見えた。
「実はわたしたち、くのいち、ふたり、恋愛忍法の世界で右に出る者がいないという武田鉄也導師にお目通りをかなえたいのです」
「なぜですか」
「実は恋愛忍法の奥義を究めたという武田導師に解決してもらいたいことがあるのです」
「若奥様のようなあなたがどんな問題を抱えているというのですか」
ポール・マッカトーニーはいぶかしげにくのいち遙の顔をしみじみと見つめたが、くのいち忍法ディープキスのような妖しいわざを使うにはこの女は清楚すぎると思った。
「いいえ、わたしではありません。ここにいる、くのいち十一号の優ちゃんの方なんですが」
「わたし、困っていないもん」
そばの立ち木に背を持たせながら、山田優がすねたように答えた。
「うそ、おっしゃい。そのほっぺたに出来たハートのマークのこと、すっかり気にしているじゃないの」
「そのことではないわよ。あの唐変木に変な病原菌を移されたんじゃないかと思って心配しているのよ」
ポール・マッカトニーは山田優の言葉を聞いて蕎麦を食べることのみに集中していた意識をはじめて外部に向けた。
その視線は山田優のほっぺたの方に釘付けになった。
そしてその反応は忍法博士マイケルくんと全く同様のものだった。
つまりマイケルくんのように頭の毛をかきむしると目をむきだして絶望とも驚愕とも違う声を上げた。
「逆デイープキッス返しだ。逆ディープキッス返しだ」
「変な声、出さないで頂戴よ」
山田優は不機嫌そうにポール・マッカトニーをにらみつけた。
山田優の眼にはいつもの強気とも違った不安の炎がちろちろとしている。
「まだ、あなた方のお名前を伺っていませんでしたな。わたくし、恋愛忍法の導師」
「武田鉄也の一番弟子、ポール・マッカートニーでしょう」
「そのとおり、あなた方は」
「くのいち七号、井川遙」
「同じく、くのいち十一号、山田優」
「そして、あなた方の願いというのは」
「武田鉄也導師にこのハート型のマークを消して頂きたいと思うのです」
「このポール・マッカトーニー、まだ恋愛忍法の皮相な部分だけしか理解していないのですが、山田優さまのほっぺたに出来ているのは確かに逆デイープキッス返しの証拠、噂に聞いていただけなので、それを見るのも今がはじめて、なにしろ拙者、あのいまわしい忍法くのいち忍法ディープキッスも見たことがございませんからな」
「なんなら、今、その技をかけて見せましょうか。沼にひそんでいる電気なまずのことも知らず足を踏み入れた馬のように身体がしびれて倒れてしまうわよ」
くのいち山田優は笹の葉を唇ではさみながら、ふてくされて言った。
「優ちゃん、お口を慎みなさい、とにかく優ちゃんのほっぺたについたハートのマークを消したいんです」
「うーむ、確かに恋愛忍法の奥義を究めた武田鉄也導師なら、それはいともたやすいことかも知れません。しかし、そのためには大変な費用がかかります。武田鉄也導師にその技の呪縛を解いてもらうには大変な料金がかかります。その金子を集めることが出来ますでしょうか」
「わたし達が蕎麦代も払えないのをご覧になったから、そう仰っているなら心配は無用ですわ、なにしろわたし達はくのいちですから、くのいち忍法にかかれば江戸一番の大店から、はては江戸城の本丸に忍び込むのもいともたやすいこと」
「その一言を聞いて、安心しました。実は今夜、不浄の金がある場所に集まります。それを石川五右衛門よろしく頂戴することにいたしましょう」
ここで今まで曇りがちだったくのいち山田優の顔は晴れ晴れとして、隠し持っていた宝刀を取りだした。
そしてその刀を鞘から抜いた。
「それは」
「雷剣よ。雷剣があれば天下無敵」
山田優が雷剣を抜いて夜空に照らすと妖しい紫色の電撃が蜘蛛の糸のように四方に広がりパチパチとなったのでポール・マッカトーニーは驚いて目をしばたいた。
「優ちゃん、そんな危ないものはしまいなさい」
三人は再び夜の江戸の町を戻った。
ポール・マッカトーニーは恋愛忍法を、女たちはくのいち忍法を使い、夜の見回りの目にもふれられることはない。
まるで闇の塊のようにその闇の中にまぎれて誰の目にふれることもなかった。
三人は貧乏長屋にたどり着いた。
「ここでございます」
長屋の住人たちはみんな寝静まっていたが一軒だけ茫洋と行灯の明かりが薄汚れて、ところどころ破れている入り口の障子に映っている家があり、春の夜なのにそのたなだけが木枯らしが吹いているようだった。
この長屋にはまるで絶望がうずまいているようだった。今まで隆盛を極めていたものも、幸福のまどろいに安逸の日々を送っていたものも、予想のつかない転落の運命に陥って、この深い底にころがり落ちて行った。そんな人間たちがこの長屋には住んでいたのだ。
「この家ですが」
破れた障子を細めにあけると中の部屋には行灯の明かりを囲んでボロきれを羽織った、頭がもじゃもじゃの眼球が半分顔から飛び出ている感じの太った男、髪型はアフロだったが、そしてもう一人、同じようにボロきれを羽織って長髪の丸めがねをかけた哲学者めいた風貌の男がイマジンを口ずさみながら座っていた。
「パパイヤさん、夜分、おそれいります」
するとパパイヤと呼ばれた男はアフロで巨大になった頭を回転させて、入り口の方を振り向いた。
彼は布がところどころ破れてぺしゃんこになった綿がその破れた布から飛び出ているはんてんを着ている。むかし原因のわからない奇病、綿死病というものがあった。その病気にかかると傷口から血が出て来ないで綿が出てくる。そしてしまいには身体の中がすべて綿になって、死んでしまうという病気だ。
その男はまるでそんな病気にかかっているようだった。
長髪の方は死人のようにイマジンをぼつぼつとつぶやいている。
「そちらの方たちは」
アフロヘヤーの男はけだるい身体を大儀そうに、上半身だけをひねって、言葉を発した。
「わたしの知り合いであります。この人たちが悪党たちをやっつけてくれます」
「そうですか」
パパイヤ鈴木はよろよろと立ち上がると三人の方にすがりつくような仕草をして近寄って来た。
長髪の方は移動せずにその場をよろよろと立ち上がると放心したように手を合わせている。
「とにかく、上がって下さい」
くのいち達はアフロの男が差し出した破れた座布団に座った。
そして三人の目の前には丸めがねの長髪がいれた出涸らしのお茶が置かれた。
「この人たちが助けてくれと言っているのです。遙さんに優さん。パパイヤさん、この人たちは忍術を使います。わたしの流派とは違いますが、大変な使い手です。あなたたちの力になってくれることでしょう。こちらがくのいち七号井川遙さん、そして、こちらがくのいち十一号山田優さんです。こちらがパパイヤ鈴木さん、そして手代のジョン・レノンさんです」
紹介されたアフロヘヤーは今にも崩れ落ちるくらいに感情の起伏を露わにして肩を震わせると半分涙で濡れた瞳を持ち上げた。
「ううううううううう、わたし、今は尾羽打ち枯らしておりますがかつては江戸でも有数の昆布問屋として知られておりました。パパイヤ昆布のパパイヤおぼろ昆布を皆様方はお口にしたことがあるかも知れません。大部、手広く商いをしておりました。この横にいるのが手代のジョン・レノンであります。不幸の荒波がどんなふうにやって来て船を丸飲みにしてしまうのかわかりません。考えもしないことがあったのが昨年のことでございました。ずっとわたしどもの商いは順調にいっていたのですがパパイヤおぼろ昆布を食べた江戸の住人が何人も腹が痛いと言ってぽっくりと死んでしまったのでございます。それからがわたしの店も手前どもも坂道を下るように不幸のどん底に落ちて行ったのでございます。
お役人から厳しいお取り調べは受けるは、そのうちにパパイヤ昆布も売れなくなり、回船屋への支払いも滞る始末、おぼれる者は藁をもつかむのたとえ通り、悪辣な金貸しに関わったのが運のつき、借金を半分返してやるからと言われ、半ば無理矢理に賭場につれていかれました。そこで明らかな八百長を仕組まれて、しまいに店も手放す仕儀にあいなったのでございます」
昆布問屋パパイヤ鈴木の話しはしまいには涙声になって聞こえなくなった。
「どうか、天下のお裁きを と言ってもお上はお聞き届け下さいません。この手代とふたり百代大橋のなかほどで身投げでもしようかと思い悩んでいたところをたまたまとおりかかったポール・マッカトーニーさまにお救い頂いたのでございます。聞けばポール・マッカトーニーさまは恋愛忍法の使い手とか、敵をうって頂こうと思い、今晩も賭場でわたくしのような小商人が悪者たちの餌食になろうかとか言う話しです。どうか、悪者を成敗してください」
今の話しを聞いてポール・マッカトーニーはふたりのくのいちの方を振り返った。
「お二方、話しはこういう具合です。これなら、その賭場の売り上げをわたし達が頂戴しても天道に背くことにはなりませんでしょう」
「わたしたちもお力をお貸ししましょう」
くのいち遙は優しげに言ったがその目的は明らかに違っていた。
くのいち山田優は雷剣が使えると思い、わくわくした。雷剣を実際の場面で使える機会が来たので、それが楽しみなのだった。
道具はただ飾っておくだけなら一種の鑑賞物である。それによって美術的感興を持ち主に与えることも出来るかも知れないが、その道具の機能を明らかにすることによってその道具に対する興味も執着もわくだろう。
雷剣には雷撃というわざがあることもひとつ山田優は知っていたが、まだひとつの機能をそなえていることを知っていたのである。
その機能を今夜、ためすことが出来る。そんな期待をである。
「とにかく、その賭場が開かれる場所に案内していただけますか」
くのいち山田優もくのいち井川遙もさぞいかがわしい場所でその賭場が開かれるのだろうと思っていたが、実際は意外な場所で開かれた。
日本でも指折りの京都に総本山を置く江戸の別院の本堂だというから驚きだった。
本堂の回りはしっかりと雨戸が閉められている。
雨戸も長屋の雨戸というわけではない、まるで石で作られたもののようだった。
光一つ漏れて来なかった。
どういういかがわしい手段を使ってこの由緒ある建物をやくざの使う賭場に使う算段がたったのか、くのいち達もそのことを知らなかったが今はそれを知る必要もなかった。
とにかくそんな幕府のお墨付きをもらっている建物の中だったから役人も手が出せなかった。
それが博打場を開いている連中の魂胆だった。
中では金欲の塊となった人間たちがその欲望をむき出しにして賽の目の動きを追っている。
そしてその中にはその犠牲となるべく連れて来られたパパイヤ鈴木のような哀れな子羊がいたことも事実である。
中にいる人間達は安心しているのか、外には膝小僧を出した非力そうな若者が長脇差しひとつで誰か来ないか見張っているだけだった。
「外にいるのはひとりよ、優ちゃん、あの若者を眠らせてちょうだい」
「言われなくてもわかっているわよ」
くのいち優はその若者がちょうどこちらを向いてあくびをしているときに、指を弾くと、丸薬が一直線に飛んで行き、その口の中に入った。
口を一直線に飛んで行き、ちょうど喉仏のど真ん中に命中して、そのまま食堂を通過した。
若者は声を出すことも忘れた。
するとその若者はその場に崩れ落ち、いびきをかいて眠り始めた。
パパイヤ鈴木はふんふんふん言いながら肩をいからせ胸を左右にふりながら前の方にししゃり出てくると指をさした。
「あそこです、あそこでやっているんですよ」
パパイヤ鈴木は恐ろしげにつぶやいた。
あなた方はここで待っていてください。
恋愛忍法の雄とくのいち忍者ふたりは本堂の回廊に飛び乗って中の様子をうかがうと不健康な煙の中に木札が動いていた。
中でおこなわれているのは丁半双六である。
壺の中にふたつのさいころを入れ、そのさいころの出た目をたして丁、つまり偶数か、半、つまり奇数かで勝負をわけるのである。
親とよばれる壺をふる役がいて、子というその賽の目に金品をかける方の役がいる。
座頭市にかならず出てくる場面であり、親がつまり壺振りが自分に都合のいい目を出す細工をして、座頭市がその賽、見せておくんなさいといい、賽を居合い抜きで真っ二つに切るとさいころの片方の目が出やすいように鉛のおもりなんかが仕組まれていたりするのだ。
座頭市の場面のように博打場の中は異様な熱気に包まれている。
木札がうずたかく積まれて、その賽の目ひとつで大金が動こうとしている。
「愛子さま、壺を振っておくなせぇ」
その場にいたやくざの親分のようなのが壺振りに言った。
しかし、その壺振りは一風変わっていた。
幼稚園児なのである。
そのやくざは幼稚園児を下に置かなかった。
「あれは」
ポール・マッカトーニーはつぶやいた。
「愛子親王」
「それでわかったわ。こんな権威のある寺の中で賭場が開かれているわけは。愛子親王を騙したのよ。幼稚園のお楽しみ会とか、何とか言って、愛子様に壺振りをさせるという名目でこの寺の本堂を使っているというわけね。愛子様はきっと自分がファミリーボードゲームをしていると思いこんでいるのよ。なんてことなの」
くのいち井川遙はつぶやいた。
「愛子様がいるなんて、ことが面倒ね」
三人がそのいかがわしい場所を盗み見ているということも中の人間は知らないようだった。
「愛子さま、壺をお振りになってくだせぇ」
愛子さまはさいころを左手でとって右手にもっている壺の中にふたつのさいころを入れるとマラスカみたいにその壺を振った。
ちょうどよいと見計らって壺の上下を逆転させて畳の上にしかれている布の上に走っているごきぶりを押さえつけるようにしてふせた。
そして壺を畳につけたまま左右にこすった。
「優ちゃん、どうする、愛子さまがいるなんて、ことが面倒だわ」
くのいち遙が雨戸の隙間からのぞき見ている目をくのいち優の方に向けた。
「姉じゃ、わたし、雷剣を持っているのよ」
くのいち山田優は不敵に笑った。
「雷剣を持っているって言ったって」
「雷剣がすごい武器かも知れませんが、愛子様がけがでもしたら大変なことになってしまいます」
ポール・マッカトーニーも心配気に山田優の方を見つめた。
「雷剣の威力を見せてあげるわ」
くのいち山田優はいやに自信があるようだった。
「拙者も雷剣がすごい宝剣だということは噂には知っていますが、何事もないように事をすすめるのはやはり困難だとおもいます」
恋愛忍法のポール・マッカトーニーは下から山田優の顔を見上げるようにした。
優の口元には嘲笑にも似た微笑みがひろがった。
「ふたりとも黙って見ていればいいわ。いや、ひとつだけたのみたいことがある。わたしが合図をしたら、その雨戸を開けてちょうだい。ここに麻の袋がある、これの口を開いて持っていてもらいたいのよ」
「優ちゃん、あなた、何を考えているの」
「入るものがあれば出ていくものがある。潮の満ち干と一緒よ。海の潮を引っ張っているのは月の力。月の力が強まれば海の水を引っ張るし、弱まれば離れていく。雷剣は月と肩をならべるものなの」
「恋愛忍法を使う拙者にも優殿のおっしゃることは理解出来ません」
「変な理屈はあとからでも、つけくわえることは出来るわ」
くのいち山田優はさやから雷剣を引き抜くと右上段にかまえた。
雷剣の刀身はそれが金属で出来ているのにもかかわらず、いやになまめかしかった。
金属は鏡と同じだから色のないもの、しかしそれ自身が薄い紫味をあびている。
かまえた雷剣は夜気を吸っているようだった。
その刀は硬質の金属であるにもかかわらず生命を持っていた。
その手応えが優には確かに伝わっているようだった。
「今よ、開けてちょうだい」
くのいち優の小さくかつ短い叫び声が響いた。
ふたりが雨戸をいきおいよく開けると同時に優が刀を振り下ろすと雷剣のきっさきから光の固まりが生じ、そのその塊まりが博打場の中に入り、光の爆発が起こり、誰も目を開いていられなくなった。
「誰だ」
賭場の中は大騒動となったが誰も何も見えない。完全にもののかたちと色でそれを識別する能力は失われている。
愛子さまもこぶしを握るとその拳を自分のつぶった目の上に押し当てている。
喧噪と怒号の中にまいおどる人々はまるででいくつもの弾ける光の塊のプールの中でおぼれていると同じである。
くのいち遙とポール・マッカトーニーが事態を了解して優の方を振り返った。
「ふたりとも、袋を用意して頂戴。そこにお宝が飛び込んでくるから」
そしてくのいち優が刀身を返すとひもでもつながっているように博打場の中の金、小判も大判も一朱銀も一文銭までもがふくろの中にとびこんでくる。
まるで餌もつけず魚をつることの出来る魔法の釣り竿のようであった。
くのいち井川遙も忍者ポール・マッカトーニーもあまりのことにびっくりして優の顔を見つめていたが、しばらくするとすべての金目のものが袋の中に入ったようだった。
入ってくる小判がまだらになり、やがて
ふくろの中へ何も飛んで来なくなった。
そのあいだじゅう博打場の中の連中は目が見えなくなっていた。
「もう、いいわ」
山田優は雷剣をさやの中におさめた。
「さあ、戻りましょうよ」
中にいる連中はまだ目くらましを浴びて右も左もわからずに右往左往しているばかりだった。
袋をかついだ優が境内の庭に降りてパパイヤ鈴木たちが待っている場所に行ってもパパイヤ鈴木もジョン・レノンの姿もそこにはいなかった。
こぶだらけの樹齢のわからない桜の木だけがそこに立っている。
「パパイヤ鈴木さん、パパイヤ昆布さん、ジョン・レノンさん、あなたたちが騙し取られたお金を取り戻してあげましたよ。パパイヤさん」
ポール・マッカトーニーはあたりを見回してふたりを探したがふたりはそこにはいなかつた。
「一体、どうしたんだろう」
あたりを見回しているポール・マッカトーニーの背後の方でくのいち遙とくのいち優は彼の方に近付くと彼の肩を叩いた。
「いいじゃないの、ポール、これらは不浄の金よ、わたしたちが頂戴しましょう。恋愛忍法の武田鉄也導師に差し上げるにはこれで充分ですよね」
「ええ、もちろん、そうですが。それにしてもパパイヤ鈴木さんもジョン・レノンさんもどこに行ったのだろう」
パパイヤ鈴木もジョン・レノンもその場所にはすでにいなかった。
彼らはその場から遠く離れた水門にいた。
月の光を背景にした彼らの姿は薄墨で塗られた看板のようだった。
目も口も鼻もぼんやりとしか見えない。
まるでジャワ島でおこなわれている影絵芝居の人形のようである。
「おい、レノン、見たか、あの剣を」
「あんなものは見たことないですよ。あれがあればいくらでも簡単に金を盗むことができますね。どろぼうにとっちゃあ、魔法の杖みたいなもんだ」
「自分たちが、騙されて大金を奪われた昆布問屋の主人と手代だと偽って、恋愛忍法の使い手ポール・マッカトーニーをうまく使って賭場の売り上げを全部奪わせ、さらにそれを俺達が横取りをするという、濡れ手に粟の企み、いや、それどころではないわ。海岸で小魚をさがしていたら真珠をみつけたようなもの、よほどの馬鹿でもないかぎり、真珠の方に目がいくというもの。目当ての桜をあの宝刀に鞍替え、あれを手に入れることに決めたぞ、それにはジョン・レノン、お前のさえ渡った奸計が何よりもたよりだ」
「もちろんです。親分、あれを手に入れるためなら自分の悪巧みのための細胞をいくらでも使いましょう、そして、最終的には江戸城の奥深く御金蔵の山を掘り当てて末代までも名の残る大盗賊という伝説を作ることにいたしましょう」
「その言葉を聞いて、何よりも心強い、して、あの宝刀はなんというのか」
するとどこからでもなく、鈴の音のような声が聞こえてきた。
「へん、何を言っているのよニダ、あの宝刀の名前さえ知らずに騙し取ろうというつもり、相変わらず間抜けなでこぼこコンビじゃない、夜の森を浮遊するふくろうの笑いの種だわ、いいあざけりのなぐさみものだわね」
「お前は」
アフロヘアーのパパイア鈴木と死に神のような丸めがねジョン・レノンが月の方を振り返ると黒ずくめの長身の女が水門の上に腰掛けている。
「お前はチェ・ジュウ」
自称大盗賊はうなった。
黒ずくめの女は水門から飛び降りるとふたりの自称大盗賊の前に立った。
「おぬし」
ふたりとも身構え、刀のつかに手をかけている。
「おこらない、おこらない、お互いさまよニダ。たしかに弥勒寺の金の仏足石はわたしが横取りをした。でも、わたしの海竜号の船底に穴を開けたのは誰だったかしらニダニダ」
「うーーーむ」
パパイヤ鈴木もジョン・レノンも深くうなった。
「あれこそは雷剣、そしてついになる剣がある。その剣は華剣」
「雷剣、華剣」
「そうよ、ニダ、ニダ。それらこそ忍者たちが知り得る最高の剣、ふたつそろえば天下無敵、天下を征することが出来る、湖底深くに沈み誰の手にふれることもないという話しだった。しかし、いつの頃からかその使い方を知らない芋侍がそれを所有し、その屋敷にずっと眠っていた。そしてその剣に命をふきこむのは私だった。この恋愛忍法、最高の使い手であるわたしが」
チェ・ジュウ、彼女もまたくのいちだった。
しかし、彼女の忍者装束の胸のところには韓の字が対になって堂々とその存在を主張していた。
「しかし、最近、韓国くのいち忍者クラブの名前をかたる、不届きなくのいちがいると聞いたわニダニダ、何も行儀作法も知らない山家育ちの猿たちたが韓国くのいち忍者クラブの名を語っているという、そのひとりが雷剣を見つけだし、盗み出したと聞いた」
「わざわざお前がその剣の所有権を主張しなくても、雷剣、華剣を自由自在に使いこなす人物があると聞いたぞ」
「なに」
チェ・ジュウはその言葉を発したジョン・レノンの方をきっとにらみつけた。
「恋愛忍法の最高の使い手は武田鉄也導師、そもそもお前は武田鉄也導師の弟子じゃないか。その不品行のためにお前は武田鉄也導師に破門され、導師に勝負を挑んだが不思議な二本の剣を使う導師の軍門に下ったという話しは風まかせに広く流れているわ。そうかパパイヤ親分、その二本の剣こそが雷剣、華剣なのです。目をつぶると心の中に浮かび上がります、その二本の剣こそが雷剣、華剣なのです」
「ふん、お前の知っていることはそれだけか」
チェ・ジュウはふたりにさげすみの微笑を投げかけた。
「チェ・ジュウ、それだけではないぞ、お前は武田鉄也導師に惚れていた。どうだ、図星だろう」
彼女の表情はゆがんだ。
そのとき、ジョン・レノンはおしりに手をあてて跳び上がった。
正当派韓国くのいちチェ・ジュウの放った小さな火炎玉がおしりに当たったのだ。
死に神ジョン・レノンは煙を立てているおしりに手を当てたまま川の中に飛び込んだ。
「わたしは山の中に住んでいる奴らが正当派韓国くのいちを名乗っているのが許せない、今度はわたしも手を貸そう、雷剣、華剣は二の次だ」
さらし首が飾られている刑場のそばにうらびれた一軒家があって、そのまわりにはひとつも家がない。
たぶん、江戸の中でももっともうらびれた場所かも知れない。その小屋の中から声が聞こえた。悲痛に聞こえる叫びだった。
「僕は死にません、僕は死にませえん、僕は死にましぇぇぇぇぇん」
するとくずれかかった障子戸の前にその声にさそわれて野良猫が四匹集まって来た。
破れ障子を爪でがりがりと削った。
野良猫が来た気配を察した叫び声の主はぼろ家の中から出て来た。
「来ていただけましたか、しかし、まだ、帰って来ないのです」
「そうか」
四匹の猫は声を合わせて返事をした。
猫が人の言葉を話すということも異様だった。
しかし、その猫はさらに変わっていた。
身体は大きさも形も猫、そっくりなのに、顔は人間の顔をその三匹まではしていた。それも子供の顔だ。そしてもう一匹はどんな動物図鑑をさがしても出てこないような、確かに動物なのだが、なんだかわからないものだった。
それから四匹の猫はするすると大きくなってかたちも変わり、人間のこどもとへんなけだものに変わった。
しかし、彼らの着ている服は面妖なものだった。
全身を覆っているのは銀色の金属製のものできらきらと輝き、頭のてっぺんは尖っている。死にませんと絶叫を続けていた男はその四人、四匹、とにかくわけのわからない者達とひそひそ話しを続けている。
彼らこそ、宇宙剣を使う阿部寛の屋敷の居候、別名、四天王だった。
「ちょっと、待ってください。ユン・ソナが帰って来ます」
すると、彼らはまた奇妙な猫に姿を変えた。
「ダーリン、待った」
「ちょっとだけ待ちました。そのあいだ龍馬が行くを読んでいました。この坂本龍馬、日本ではじめて会社をはじめた人物で、日本の資本主義の最初の一歩を踏み出した人物です。あと彼が十年生きていれば・・・」
すると
男は彼女の口で自分の口をふさがれて言葉をそして呼吸も止まった。
「やめてください、忍猫たちが見ているじゃありませんか」
「もう、忍猫なんて、見ていたって何もわからないんだから」
ユン・ソナは男を押し倒した。
まだ、さかんに男の口を吸っている。
「にゃー、にゃー」
「せっかく、いいところだったのに、うるさい忍猫ね。あんた達のチヂミも買って来てあるわよ」
「もう、いい加減に忍猫なんて飼うのはやめたら、あなたが恋愛忍法の最高の達人だったというのは知っているわよ、でも、雷剣、華剣を使い、その恐ろしさを知り、もう恋愛忍法を使うのはやめようと決心した。と言ったでしょう
忍猫なんて何の必要もないじゃないの」
「たしかに、恋愛忍法を捨てた今のわたしに残っているのは漢字博士の称号だけです。
忍猫を飼う必要はありません」
「本当、それだけ、恋愛忍法の奥義は、漢字をいっぱい知っていることだけなの。くくくくくくくくくく」
ユン・ソナはくぐもり笑いを漏らした。それから欲望にからんだ目をしてぼろ家の奥の方を見た。
「奥にふとんはしいてあるわね」
恋愛忍法武田鉄也導師の首に腕をからめてくる。それも二の腕までをもである。
知らないうちに忍猫は家の中に上がり込んでしいてあるふとんの枕元のまわりに集まっている。
「やりたいのよ、やりたいのよ、ちぢみなんて食べるのはあとのことよ」
鼻息の荒くなったユン・ソナは武田鉄也導師をふとんの置いてある奥の方にまでがぶり寄って行き、導師の衣服を無理矢理脱がせると、導師はすっかりと丸はだかにされていた。それからユン・ソナは武田鉄也導師が逃げられないように馬乗りになると自分も服を脱ぎ始め、上半身裸になると、そのすべすべした肌をあらわにした。
ちょうどよい胸の肉、その頂点についている突起が興奮してちょこんと上を向いている。ユン・ソナは髪を振り乱しながら、武田鉄也導師の頭を両手で覆うと、足をからめながら覆い被さった。
武田鉄也導師の口はちょうどユン・ソナの乳首の位置に来て、武田鉄也導師が舌をちょろちょろと動かすとユン・ソナは動物のように激しい雄叫びを上げた。
そのあいだじゅう枕元に鎮座している四匹の忍猫たちはモアイの石像のように無表情で
右も左もわからない小学校の新入生のように押し黙ってその痴態をじっと観察していた。
恋愛忍法から離れた武田鉄也導師であったが恋愛忍法のわざを忘れた導師ではなかった。それはもちろん意識的におこなわれているわけではない。
大自然に生きる動物のようにそれが本能としてあらわれてしまうのだった。
武田鉄也導師の舌からは微弱な電流が流れ、その強さもコントロールできるのだった。
武田鉄也導師はただ死人のように寝ていればいいだけだった。
舌をちょろちょろと動かし、その電流をコントロールすればいいだけなのである。
導師がたとえぐるぐる巻きにされていて、身動きひとつ出来ないとしても
舌ひとつを出しておきそのさきにユン・ソナが自分の感じやすいところを接触させればそれでことは足りるのであった。
すると武田鉄也の舌のさきに接した部分にたまらない快感が生じ、それが全身に広がっていく。快感のうねりは絶えることはない。
ユン・ソナは何度も絶頂を味わい、武田鉄也導師の上に覆い被さり、海草のようにその黒髪を導師の上に広げ、激しい運動のあとの休息の軽い息ねをたてていたが、忍猫たちが冷や酒を運んで来たので身体を起こすとそれを口につけた。
武田鉄也導師の方は黄金の棺桶の中に入れられているエジプトの王のミイラのように天井を向いたまま、何か呪文をつぶやいていた。
ユン・ソナは硬直状態にある武田鉄也導師を無視してひとり手酌で酒を飲んでいる。
「あんた、覚えている。あんたと始めて会った夜のことを」
武田鉄也導師はやはり何者かに呪いをかけられた木偶の人形のようにじっとしてその虹彩を針のようにして中天の何者か見つめていた。
「あの日は雨だったわ。傘もささずわたしは世の中にいや、男に絶望していた。あたしは男に捨てられて四軒も居酒屋をはしごして、ぐでんぐでんに酔っぱらって大川端にある居酒屋に入ったときのことだった。わたしの着物もびしょびしょになって、すそのところから滴がたれていた。居酒屋の障子戸をあけて縄のれんをくぐると、居酒屋の親父が姉さん、もう帰った方がいいよと言いつつ、のばしてきた手を振り払いながら、店の中に入ると、あんたはいた。やはりお銚子が何本も転がっている机の上にあんたはうっぷしていて、背中に背負った剣の小づかは上を向いていて、黒い忍者装束そのもののようにくちゃくちゃになっていた。あなたは撃墜されたこうもりが地面に墜落した姿そのままだった。あたし、ここに決めた。って言ってあんたの前に無理矢理座ると、あんたは黒ずきんをかぶったままの頭で顔を上げた。あんたの目は死んだ魚みたいになっていて、手裏剣をさける忍者かたびらの上にはよだれがかかっていた。わたしは直感した。この忍者の格好をした男もわたしと同じにおいがする。あんた、何でこんなところで酔っぱらっているのよ。すると無言で顔を上げたあんたはじっとわたしの顔を見つめて、また、乱れ転がっている銚子の上におっぷした。ふたりはひとつも言葉を交わさなかったのにすべてを了解した。この男と一緒に死のう、と私は思った。居酒屋の親父に二十文払うと、足りないよと叫ぶ親父を振りきって川端まで行くと小舟が浮かんでいたので、いやがるあんたを無理矢理のせてもやいを解くと小舟は川の中程までするするとすすんだ。そこでなかば意識が朦朧としているあんたを起こすと、わたしの身の上話しをした。あんたは聞いていたのかどうだかわからない。それからわたしはあんたの話しを無理矢理聞き出した。あんたには最愛の人がいた。しかし、その人は理由も言わず自分のもとを去って行った。と言った。その日からわたしはあんたと一緒に暮らそうと思った」
ユン・ソナは忍猫のついだ酒を飲みながらひとりごちした。
その瞳は濡れていた。
そのあいだじゅう武田鉄也導師は仮眠状態にあるようにじっと動かなかった。
しかし、忍猫たちは知っていたのである。
武田鉄也導師が最愛の女人と別れたことも、そして恋愛忍法を捨てたわけも。
古代から起こった恋愛忍法は忍法の中では最高の位置を占めていたが、為政者にその存在を知られることはなかった。
江戸時代に生まれた武田鉄也導師は恋愛忍法の最高の使い手だったが、しかしそれは彼一人ではなかった。もうひとり恋愛忍法の奥義を究めたものがいたのである。
しかもそれは女性だった。
武田鉄也導師はその女性を愛していた。
そしてその女性も武田鉄也導師を愛していた。
しかし、ひっそりと生きてきた恋愛忍法にも時代の転機が訪れようとしていた。
徳川家光に恋愛忍法の存在を知られることになったのである。
今まで栄華の枠外に生きていた恋愛忍法に決定的な影響を与えることになる。
恋愛忍法の最高の使い手はふたりはいらない。
自分たちの栄華栄達を求める恋愛忍法の術者たちは武田鉄也ともうひとりの使い手、
その女性を筆頭として争いを始めた。
そして武田鉄也導師はその女性とどうしても勝負をつけなければならない状況に追い込まれたのである。
そして、彼の愛する女性は行き先も知らせず身を隠したのである。
無益な争いをさけるためであった。
彼女を失った武田鉄也導師は世をはかなみ、恋愛忍法総帥の地位を捨てることにしたのである。
このぐるぐる巻きにされたミイラのように仮死状態に突入した男にはそんな過去があったのである。
「あんた、いつも愛し合ったあとには蚕みたいに動かなくなっちゃうのよね」
ユン・ソナは人差し指をたてると武田鉄也導師の硬直して動かなくなった顔の上に指先をはわせた。
ユン・ソナがそんな指遊びをしていると
「にゃーご」
枕元で鎮座している忍猫たちが何者かの気配を感じて玄関の方を振り向いて泣き声をたてるのと、その方から恋愛忍法の弟子ポール・マッカトーニーが声をかけたのはほぼ同時だった。
「武田鉄也導師、ご在宅でしょうか」
ユン・ソナが武田鉄也を起こすまでもなく、その声を聞いたかつての恋愛忍法の総帥は目を開くと二間しかないこの家の玄関の方へ行った。
恋愛忍法武田鉄也が玄関にまでやって来ると自分の弟子のポール・マッカトーニーのうしろにふたりの美しい娘が立っている。
「ポール、その娘さんたちは」
そう聞くまでもなく武田鉄也はこの娘たちがただ者ではないこと、つまり術者であることはすぐにわかった。
自分の存在を消すこと、つまり闇にまぎれる術をすでに体得していて、背後の闇夜とほぼ同化していた。
「娘ごたち、そちらはくのいちじゃな」
「御明察にございます」
くのいち井川遙が微笑んだ。
「ということは、拙者がかつて恋愛忍法の総帥だったということもご存知ですな」
「師匠、これを」
間髪を入れず、ポール・マッカトーニーは稲藁で結んだくさやのひものを師匠の前に差し出した。
「いつも、いつも、ありがとうございます。ポールさん」
ユン・ソナがそのみやげものを受け取ってにおいをかいだ。
「これ、好物なのよね」
忍猫たちは武田鉄也の足下でひかえている。
「いかにも、このおふたりはくのいちでございます。韓国くのいちクラブ、ナンバー七、井川遙」
遙は目で挨拶をした。
「そして、こちらが、同じく、ナンバー十一、山田優」
山田優は首を縮めながら唇をあひるのようなかたちにした。
「そうですか、韓国くのいちクラブも随分と大がかりなものとなりましたな。かつて私にも、韓国くのいちクラブに属していた弟子がおりました。腕はたったが」
「チェ・ジュウのことですか。師匠の厚恩も忘れて、今は悪の道に進んでいるという噂を聞きました」
「ポール、そのことは言わぬことだ。すべてわたしの徳がいたらなかったにすぎない。過ぎたことは忘れよう」
「しかし、残念です」
恋愛忍法武田派のポール・マッカトーニーは一瞬、何か考えごとをしているようだったが
武田鉄也に言葉をかけられてその考え事から気持ちが元に戻ったようだった。
「この娘御ふたり、なぜ、お連れしたのだ」
「実は師匠に術を解いて貰いたいという申し出でございます」
「どんな術じゃ」
山田優は不承不承、自分の頬についている小さなハート型のマークを指し示した。
「これは」
「師匠の推察のとおり、くのいち忍法逆ディープキッス返し」
武田鉄也の顔は見る見る曇っていった。
「娘御、くのいち忍法ディープキッスを使ったのじゃな。なんてことじゃ」
山田優は不満気な表情を露わにした。
「逆ディープキッス返しでかえされるということは、ふたつある。ひとつは相手がよほどの術者である可能性、そして、もうひとつは相手が運命の人であるかも知れないということじゃ」
「おえー」
くのいち山田優がげろを吐くまねをするとくのいち遙は優をたしなめた。
「優ちゃん、およしなさい、ふざけるのは。真面目な相談をしているのですからね」
武田鉄也はそんなことも全く気にしていないようだった。
「そもそも、くのいち忍法ディープキッスは忍法蜘蛛の網の工夫改良を重ねて完成した技。その効果ははなはだ強力であるが、返し技の怖れもある危険な技。そんな術をなぜ使ったのか、問いただすのはせんないこと。ただ、どういう相手に術を返されたのでしょうか、そもそも忍法の世界に生きる者なのかな」
「優ちゃんの相手は忍者ではありません、さむらいでございます」
「ということは運命の相手である可能性もある」
くのいち優がまたげろを吐く真似をしようとしたのでくのいち遙が優をにらみつけたので山田優はしゃっくりをする真似に置き換えた。
「とにかく、優ちゃんのこのハートのマークを消して頂きたいのです。恋愛忍法の奥義を究めた武田鉄也導師なら、不可能ではないでしょう。ここにそのための金子も用意してございます」
「師匠、わたくしからもお願い申し上げます」
「そう、わたくしを買いかぶられても困ります。くのいち忍法ディープキッスにしても忍法ディープキッス返しにしても恋愛忍法の中で秘技中の秘技、その術を解くことは至難のわざ、しかし、とにかく、やって見ましょう。優さんとやら、こちらにいらっしゃい」
二間しかないこのぼろ家はふすまで隔てられるようになっていた。
部屋の中には天竺から輸入されたような香がたかれ、なにやら妖しい雰囲気と香りが立ちこめた、ふたつの部屋は片方が控え室となり、片方が治療室となった。
武田鉄也導師は山田優をつれて中の治療室となったぼろ家の一郭に閉じこもった。
そちらの方の部屋には武田鉄也の弟子ということで忍猫たちも入って行った。
残りの者たちは待合い室となった方の一郭で待たされた。
なにやら人体図のような掛け軸がかかっていて、その各所に点がうたれ、その点に直線が引っ張ってあり、人中とか、陰とか陽とかいう漢字がたくさん書いてある。
その人体の点の説明であるらしい。そしてその点同士が結んである。
その図を遙が見ているとユン・ソナが草津から買ってきたという温泉饅頭をどんぶりの中に山盛りによそって来た。赤がねで作った急須と清水焼きの湯飲みも持って来て、お茶も入れてくれた。
「飲んでちょうだい」
ユン・ソナがお茶を入れた。彼らのいる部屋には片隅にたなが置かれ、その棚の上には眼鏡ケースのような金属製のカイロプラティックみたいなものや、ガラス製の容器に入った大量の脱脂綿、それから何度も使って焦げたあとのある、何に使うかよくわからない金属製の道具が置いてあった。
「しばらく時間がかかるかも知れないからそこら辺の瓦版でも読んでいてちょうだい、わたし、ちょっと用事があるから出てくるわね」
そう言ってユン・ソナは出て行った。
こんなぼろ家にもかかわらず南蛮渡来の西洋時計が置いてあり、時計の装飾でもある作り物の小さな青い鳥が針金につながってくるくると回っている。
くのいち遙が瓦版を手にとると江戸で一番人気のある歌舞伎役者が向島に船遊びに行ったときの同行記が書かれていた。
その船遊びには最近西洋水仙の球根の輸入で大もうけしたという御大尽、三崎屋恵比寿五郎も来たそうである。さぞかし豪勢な船遊びになったようである。
治療がおこなわれている方の部屋の障子はぴったりと閉められていて、中で何が行われているのかはさっぱりわからない。
ひそめた声で武田鉄也導師が優に生年月日を訪ねている声が聞こえた。
それに優の方も声をひそめて何か答えていた。
くのいち遙は中でどんな治療が行われているのか、声を出して言えば、隣の部屋に聞こえるかも知れないと思い、口をきくのを我慢していたが、ポール・マッカトーニーの方も瓦版をひろげて、むずかしい顔をして黙っていた。
障子の向こうで息を殺したような声がときどきもれてくる。
「ここは」
武田鉄也導師の声だ。
すると優のらしい押し殺したうめき声がもれてくる。
甘くせつない調子だった。
「ひろげてください」
「えっ」
小さく反問するような声がもれた。
「このくらいでいいですか、導師」
「もう、ちょっと」
「無理よ」
「もう、ちょっと我慢して」
障子の向こうでため息が漏れた。
「奥の方までいきますよ」
「ええ、そんなに」
ここでまた、ああという甘いうめき声が漏れてきた。
その声を聞きながらくのいち遙は気が気でなかった。
恋愛忍者ポール・マッカトーニーも自分の感情を押し隠すようにして、やたらむずかしそうな顔をして瓦版に見入っている。
くのいち遙は我慢が出来なくなってポール・マッカトーニーの顔にじぶんの顔を近づけるとひそひそ声で話しかけた。
「武田鉄也導師は何をなさっているんですか」
ポール・マッカトーニーも声を押し殺して言葉を発した。
「針治療です」
「えっ」
くのいち遙は聞き返した。
「鍼灸です」
ふたりのどちらからでもなく、ふすまのそばまでいくと細めにふすまを開けて中をのぞいた。
さっきまで硬直して身体を少しも動かせなかった武田鉄也導師とも思えなかった。
身体を弓なりにして両手でくのいち優がうつ伏せになっているのを押さえつけている。
水死人に人工呼吸を施している人のようだった。
優はうつ伏せになっている。
山田優の美しい背中は露わにになっていた。
下半身の方も忍者衣装の裾がはだけられていて量感のある太ももが露わになっている。
武田鉄也導師は小鼻を膨らませていた。
恋愛忍法の達人はまた針治療の達人でもあった。
武田鉄也導師にはこんなこともあった。
弟子のチェ・ジュウとともに山の中にわらび狩りに出かけたことがある。
ぜんまいを砂糖醤油で煮付けた総菜が導師のなによりの好物だった。
チェ・ジュウがぜんまいを探して熊笹の中を分け入って行ったときのことである。
ざわざわと笹の葉が鳴る音がして、
そのあとに巨大な黒い影が突然、出現した。
洞窟を通り抜ける風音にも似た咆吼をともにしてである。
怪しい黒雲にも似た毛むくじゃらの怪物が両足立ちになった。
すでに村人を何人も襲った巨大なひ熊だった。
くのいちチェ・ジュウは背中に背負った長剣のつかに手をかけると後ろに飛び退いた。
そして、次の瞬間、巨木でさえもその幹を裁断しながら空中を飛翔する巨大十字手裏剣の片方を握っている。
「チェ・ジュウ、待ちなさい、わが愛弟子よ。殺生は最後の手段だ」
「そんなことを言っても導師」
巨大なひ熊は今にも、このふたりの人間に襲いかかろうとしていた。
すると恋愛忍法総帥武田鉄也は袂の袖から何かを取りだし、左手で自分のひじをおさえ、右手を突き上げると。その手のさきには何か、光るものをつまんでいる。
それは異常に長い針だった。
チェ・ジュウが武田鉄也導師の方を振り返ったとき、
人間の三倍もの大きさの怪物がふたりに襲いかかってきた。
ふたりは左右べつべつの方向にとびのいた。
そして武田鉄也導師は背後の木の中程に飛び上がるとひ熊よりも高い位置から、その背後に回って、ちょうどひ熊の神経の集中しているあたりに針を打ったのである。
ひ熊は老朽化したビルのように地面に倒れた。
そのまま猛獣はいびきをかき始めた。
武田鉄也導師は猛獣を傷つけることなく眠らせてしまったのである。
そのあと、忍者屋敷に戻った武田鉄也導師はチェ・ジュウとぜんまいの煮付けを挟んで卓を囲んだ。
けだし、武田鉄也の針の効果はそれほどのものがあった。
武田鉄也導師は山田優のそばで少し膝を開き気味にして正座している。
山田優は半裸になって薄く目を閉じ、まるで夢の中をさまよっているようであった。
武田鉄也導師の横には金属製のへちまみたいなかたちの皿があり、その中に消毒した針とその筒が入っている。
そして梅干しの壺みたいなものも置いてある。
「武田鉄也導師は優ちゃんに変なことをしませんよね」
くのいち遙は声をひそめてポール・マッカトーニーに尋ねた。
「心配なく、導師の鍼灸には何の副作用もありません」
「優ちゃんの背骨の線に指をはわせていますわ」
「背骨が曲がっていないのか調べているのでございます」
「優ちゃんは眠っているみたいなんですが」
「いいえ、眠っているわけではありません。軽い催眠術をかけられているのです」
ふたりがこっそりとその様子を見ていると武田鉄也導師は梅干しの壺みたいなものの中からその指先にとろりとした油みたいなものを出して、その背中の上に落とした。
「いやん、冷たい」
くのいち優が甘えるような声をもらした。
それから深いため息をもらそうとすると
枕元にかしずいていた忍猫たちが山田優の頭頂部を押さえると優は口元を半開きにした。
もう一匹の忍猫は自分の肉球で優のほっぺたを軽く押す運動を繰り返している。
そのとき忍猫の一匹がこちらを向いてくのいち遙のほうを見たようなので七号はどきりとした。
導師は優の背中に置いた油を手の平でのばしている。
優の背中のきめ細かい肌が油を塗られててらてらと光っている。
それが終わると
武田鉄也導師はまた油壺に手をのばした。
そこでまた油を一抱えとると太ももの上に落とした。
それから足の線にそって、つもり太ももの付け根から膝の裏の方に向かって、両手を使って油をのばしている。
優の身体の神経のどこかが刺激されたのか、山田優はぴょこんと一瞬のけぞった。
その作業が終わると導師は清潔な布で手を拭って油を落とした。
そして、いよいよ、導師は金属製の皿に手を伸ばすと、針とそれを打ちやすくするための筒を手にとった。
「娘御、最初、ちくりとしますが、あとでだんだん気持ちよくなります」
半分、眠っている山田優の首と肩の中間のあたりに武田鉄也導師は針の筒先を押し当てると優の肌はちょこんと凹んだ。
武田鉄也導師は筒のさきから頭を出している針のさきをつんつんとつくと針は身体の中に入っていった。
山田優は最初、あっとその唇から小さな叫び声を上げたが、そのまま、深い眠りに入って行くようだった。
「娘御、忍法デイープキッス返しの技を解きましょう、下半身が少し、感じるかも知れませんが、我慢してくだされ」
武田鉄也導師は両手を袋のようにすると山田優の太ももをなでさすった。
それから口に針をくわえ、両手にも針を持った。
「娘御、いきますぞ」
武田鉄也導師は両手にもった針を筒も使わずに左右両方の太ももの付け根のあたりに突き刺した。
「あああああぁぁぁぁぁぁんんんんんんん」
山田優の口からたえられないような甘い吐息がもれ、優は身体をくねらせた。
武田鉄也導師はそんなことに頓着せず、口にくわえた針を手にとると刺したままになっている針のそばにその針を刺すと、ぐりぐりした。
山田優のかたちの良い唇から甘い吐息が漏れてくる。
武田鉄也はやはり針をぐりぐりしている。
「これこそ、恋愛忍法奥義のひとつ、恋愛感情針刺激」
武田鉄也は勝利したように雄叫びを上げている。
四匹の忍猫たちもそれに呼応して泣き声をあげた。
「にゃあご」
「にゃあご」
「にゃあご」
「にゃああああぁぁぁぁご」
「優ちゃんは大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。噂に聞いていましたが、見るのははじめてです。あれこそ、恋愛忍法奥義恋愛感情、針刺激ですか」
山田優はさかんに身体をくねらせている。
そのあいだ、くのいち山田ゆうは夢を見ていた。
夢の中には武田鉄也導師がいる、忍猫、四匹もいる、そして、自分も姉の井川遙もいた。
武田鉄也導師は山田優に言った。
「娘御、忍法ディープキッス返しの呪縛を解いてさしあげよう」
そしてどういうわけか武田鉄也導師の腕には可愛い子犬が抱かれている。
そして気がつくと、迷路のようなものが作られ、小さな小部屋がふたつ用意されていた。
「娘さんたち、どちらでもよい、この小部屋に入ってくだされ」
そう言われたので、山田優は小部屋に入った。
井川遙も小部屋に入った。
「娘さんたち、これから子犬を放します。迷路を歩いて子犬は娘さんたちのどちらかの方に行くでしょう。優さんとやら、子犬があなたの方へ行けば、ディープキッス返しの技は解けるでしょう、そうでなければ、残念ですが」
そう言って武田鉄也導師は子犬を放すと子犬は尻尾を振りながら迷路の中を歩き出した。
子犬は楽しそうである。
優は子犬が来るのを待っていた。
子犬が迷路の中を歩いている気配を感じた。
子犬がきゃんきゃんと楽しげに笑い声を上げるのが聞こえた。
そして迷路は雲散霧消している。
目の前に自分の胸に抱いている子犬に話しかけている姉、井川遙の姿があった。
「優ちゃん、優しさがあればもっと男の人に好かれるわよ」
その言葉を聞くと優は胸が熱くなるのを感じた。
武田鉄也導師の目の前に眠っている優の太ももに刺された針は飛び出した。
と同時に優は目を覚ますと障子のあいだからこちらを見ているくのいち遙の姿があった。
「ひどい、ひどい、姉じゃ、ひどい」
優は飛び起きるとくのいち遙の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「どうしたの、優ちゃん」
くのいち遙には何が何だかわからなかった。
その様子を恋愛忍法総帥、武田鉄也導師はむずかしい顔をして見ている。
「鍼灸の技は身体内部の断ち切れている気の経路を再び結ぶこと、自分自身の中にある気の力を呼び覚ますことでしか、逆ディープキッス返しの呪縛は解けませぬ」
「じゃあ、優ちゃんはどうなるんです」
「その技をかけた侍と結婚するしか・・・・・・・」
「ひど~~い」
   ☆峡谷の中の宝石
「そのさむらいがどんな人間なのか、はっきりわからないんですよ」
「運命の人である可能性はある」
「絶対、いや」
「恋愛忍法の奥義を使っても術は解けなかった。待てよ、しかし」
「何か、いい方法があるんですか」
「あの忍者なら」
「誰です、誰でもいいわ」
「けちけちしないで、早く教えてよ」
「相撲取りから忍法の道を確立したものがいる。その者の術を使えば」
「誰なんですか」
「相撲取り忍法総大将、朝青龍、あの男は縁切り剣というものを持っています」
「相撲取り忍法」
「縁切り剣」
「朝青龍」
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
皇居の中では今回起こした不祥事について御前会議が開かれていた。
思い空気が流れていた。
誰も一言も発する者もいない。
愛子親王が博打場で壺を振っていたという一件である。
「そもそも、何故愛子様があんな場所に行っていたかという問題です。愛子様がひとりで行けるはずがない。誰かが連れて行ったとしか、思えない」
「これはやはり乳母に多いに責任がある」
「わたしより侍従に問いただして頂きたいわ」
「巧妙に仕掛けられていたんです」
「ずっと、愛子さまがいると思っていました。皇居内のすずらんの間で遊んでいたとわたしたちは思っていたんです」
「一番悪いのは病院長だと思いますわ」
「私が、なぜ」
「そもそもの原因は病院長ではないですか」
「なぜ、病院長の名前が上がるのですか」
話しの内容を良くわかっていない宮内省の責任者の一人が口を挟んだ。
「これはごくごく内密にしておかなければならない問題ですが」
「あんないい加減な話しを最初に持ち込んだのは病院長ですからね」
「わたしが持ち込んだわけではない、わたしの名前を勝手に使ったんだ」
「でも、あの男たちは病院長が連れて来たんじゃないか、病院長も何か弱い尻でも握られているんですか」
「そもそも、あのふたりの人間は何者なんだ。全く、あいつらにいっぱい食わされた」
「だって、あいつらは小泉の名刺まで持っていたんだからな」
ときの首相の名前まで呼び捨てにしている。
「小泉の名刺を持っていた時点で怪しいと思わなければ」
そのときこの会議の机の端の方に控えていた子供が重々しく口を開いた。
「麻呂が知っているでごじゃる」
「おじゃる丸様」
その子供は子供のくせに平安時代の貴族が持つ、しゃくを持ち、烏帽子を被っていた。
「麻呂が知っているでごじゃる。麻呂に何度、言わせるのじゃ」
この子供はおじゃる丸と呼ばれていた。
この子供こそ、摂関政治の始まった平安時代から綿々と続く、お公家忍法第九十八代当主、おじゃる丸、その人であった。
お公家忍法の使い手たちは、遠く天皇のそば近くに仕え、その権謀術数のわざを磨いていたのである。
「麻呂の不覚じゃった。麻呂が六本木でホットドツグを食っていた、すきをつかれたのじゃ。しかし、彼らふたりの名も素性もわかっている」
「だいたい、愛子様と同時に双子の男の子が産まれていて、病院の手違いで男の子が民間の家に引き取られているなんて、でたらめをよく信じましたね」
「そのとおりじゃ、麻呂がいればよかったでごじゃる」

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