カンフ-刑事

カンフー刑事

第一回
ダブル捜査一課
この物語は出世コースにのっている警視庁捜査一課とそこからはずれた裏捜査一課の物語である。

捜査一課
 後藤田まき警視正
 紺野田あさみ警部

裏捜査一課
 石川田りか警部
 小川田まこと警部補
 新垣田りさ警部補
   その一
「あんた、また来てるんですか。早くしてくださいよ。今日はお客さんがあまり来ていないからいいけど」
「うるさいわね。料金は払っているでしょう」
「料金のうちには、そんな撮影料は入っていませんよ」
「うるさいわね。資料を集めているのよ。東京の治安を守るために働いているの。ほら、あっちを見てちょうだいよ。子供がギロチンをいじっているわよ」
「あっ、危ない。やめなさい。やめなさいってば」
子供がギロチンをいじっている。その子供は大きくて重いギロチンの刃をつるしているひもをほどこうとしている。子供はひもの結び方を最近覚えたみたいだ。だからはずすことにも興味を持っている。警備員はあわてた。警備員はあわてて子供がいたずらをしているほうに走り寄った。もちろんギロチンの刃はつぶしてあるから首がすっぽりと落ちてしまうことはないが、大きくて重いギロチンはたしかに本物の鉄で出来ている。けがでもしたら大変だ。
「ストロボがうまく発光しないわ。くやしい。家でストロボの接点を磨いてくればよかったわ」
その様子を横目で見て子供のいたずらを止めさせた警備員はほくそえんだ。
「ほら、見てごらん。あいつ、ストロボがつかないので怒っているよ。カメラに八つ当たりしたいのを必死にこらえているのがおもしろいなぁ」
ふたりの警備員はその女が撮影がうまく出来ずにいらいらしているのを見てその女の感情を勝手に評した。その憶測はほぼ当たっている。スタイルの良い女だったが機械をいじることは得意ではないらしい。
「だいたい一般人だったら、写真撮影をすると言っても許可しないのがふつうだよ。全く桜田門の威光をかさにきやがって」
「なんでわざわざこの犯罪博物館の中で犯罪の再現シーンなんかを撮影しているんだよ。聞いた話によると捜査一課に属していると云うじゃないか。犯罪の現場を見たことがないのかなあ。だいたい普通の人間は家では仕事のことを忘れたいと思うのが普通のはずだぜ」
「よほど、捜査一課の仕事に満足しているのか。またはその逆なのか、どっちかだな」
女はストロボの調子が戻ったことに満足したのか、ストロボをばちばちと炊いている、ストロボからは光線が走った。そのたびに椅子に座った老人の頭に突き刺さった大きななたについた真っ赤な血がストロボ光を反射して毒毒しく光った。
 もちろん老人は蝋人形であり、真っ赤な血はアクリル系の絵の具だった。

第二回     その二

「こんなところで査定をしていていいのか
な」
「こらっ、生意気だぞ。平介。お前なんか、マスターに言って首にしちゃうぞ」
「おおっ。こわあーい。捜査一課の責任者が僕のことを首だって。マスター」
警視庁内部の社食でもある喫茶店の中で捜査一課の後藤田まき警視正は部下の内申書を紺野田あさ警部とともに読んでいた。コーヒーを飲みながら読んでいるのでそのこぼしたシミが部下の内申書の隅についた。
「あれ、汚れちゃったわ。でも気にしない、気にしない」
ひと月にいっぺん捜査一課では部下の日常の報告をさせている。それは昇進試験とは別の目的がある。もちろん内部の人間の不祥事を未然に防ぐという目的がある。その目的には充分に意味がある。不祥事を起こしそうなグループが警視庁捜査一課の中にはいた。紺野田あさみ警部は下の方の欄にある提案書に目を通していた。
「夜の弁当代を精算するのをカードでやるようにして欲しいという提案が結構ありますね」
「月の弁当代を払うためにその費用の入ったクレジットカードを提供して欲しいというのだろう。そんなカードを支給して勝手に金なんか借りられたらおおごとだよ。みんな裏捜査一課の連中が口裏を合わしてやっていることに違いないわさ。全く役にも立たない馬鹿者どもが。捜査一課の落ちこぼれどもたちの言いそうなことだわ」
「警視正、じゃあ、つぎの内申書に行きます」「つぎは誰だ」
「石川田りかです」
「あの落ちこぼれか」
「ええ、裏捜査一課の一員です」
「また、あいつが変なことをやっていると云う噂が耳に入ってきたんだけど」
「どんなことですか」
「うちで運営している犯罪資料館にしょっちゅう来て、写真をぱちぱち撮っていると云ううわさが資料館の館長から苦情めいて来ているのよ」
「自己研修としていいことではありませんか
、まき警視正」
「ちっとも、いいことではないわよ。あいつのやっていることが自己研修であるもんですか。あいつが休憩室で話していることをみんなメモしてあるのよ」
「警視正もなかなか悪ですね。裏捜査一課のなかにスパイを放っておくなんて。スパイは一体だれなんですか。わたしにも教えてくださいよ」
「だめよ。これは絶対の秘密なんだからね。あいつらの誰かに淫行なんてされたら、どうなると思う。そのスパイの重要性がわかるでしょう。わたしたちはあいつらのお目付役なのよ」
「それでなんて言っているんですか。まき警視正、石川田りかは」
「全く、笑止千万だわよ。自分が警視庁にそして捜査一課に入ったのは将来のためだなんて言っているのよ」
「どういうことですか」
紺野田あさみ警部は目を丸くして後藤田まき警視正の顔を見上げた。
「捜査一課にいる自分は羽化を待つさなぎであるなんて生意気なことを言っているのよ。あんな落ちこぼれは捜査一課とは呼べないわよ。落ちこぼれを集めた裏捜査一課だわね。まあ、それはいいとして、あいつは国民の税金を無駄にして無駄飯を食っているのよ。この捜査一課での経験をもとにして、将来はミステリー作家として世間の喝采を浴びるんだとか、言っているって言うじゃない。ばかみたい」
「みたいじゃないですよ。ばかじゃないですか。正真正銘の、あいつは。あいつなんかには事件らしい事件は担当させていないじゃないですか。どんな事件も担当していなてというのに、どうやって事件のねたが得られるなんて思っているんでしょうね」
「そうさね、そのうち落ち度を見つけてお払い箱にするつもりよ。今のうち首ねっこを洗っておけと言いたいわよ。あの落ちこぼれが」
「本当に、どうしてそんな夢のようなことを考えるんでしょうね」
「まあ、それも仕方がないわよ、世の中には幻影を信じ込ませて利益を得ると云う商売が国のお墨付きを貰って成り立っているわけだからね」
「後藤田警視正、いいことを考えました」
「なにを」
「捜査を再開しろとか、そうしないと裁判をおこすとか、週刊誌に訴えてやるとか、やんやと騒いでいる心中事件があったじゃないですか。裏捜査一課の連中にあれを担当させましょうよ。うちで一番暇で必要でない人間なんですから。苦情対策にはもっとも適任ですよ。うまくいけば週刊誌かなんかにたたかれて首にすることだって出来ますよ。もし、そうでないとしたって、全く労多くして益ない仕事なんですからね、まき警視正」
「そうね、紺野田警部」

    第三回

その三
 「お姉さん、ここに鰻のうなせいと云う店があるのを知らない」
「ふん、知らないわよ」
「あっ、あるわよ。あそこ、あそこ。けい子、あそこよ」
「なんだ。あの黒塀から柳の木が出ている店ね。なんだ。お姉さん、目の前にあるじゃないの。注意力散漫よ。おねえさん」
「もう、ばかにしてぇ。アベックだからって何よ。本当に頭にきちゃうわ」
・・・・ふん。あんたたちなんか、昼のサービス鰻丼を食べるんでしょう。わたしなんか招待されて肝吸い付きを食べるのよ・・・・
・・・いきな黒塀、みこしの松に・・・
石川田りかは思わず鼻歌を歌った。捜査一課の上司から心中事件の再捜査の担当と云うことになったと告げられた。昼にサービスで鰻丼を安く提供しているうなせいと云う鰻屋がある。ふだんは高くて刑事石川田りかのさいふではそこで肝吸い付きのうな重を食べることなど自腹で払う限り不可能な相談だった。今度の事件の捜査依頼している家族からうなせいに来るようにと連絡があった。そこでこんどの事件のことを話すと家族は言った。
 石川田りかは髪が日本人のくせに金髪ぽくに見える女の子である。そして同時に警視庁捜査一課の刑事だった。
 うなせいの入り口に行くと番頭のような人物がいたので
「石田川と云う人の招待だわよ」
と言うとうなせいの人間は
「石川田さまですね」
と言って左のほうで昼のサービス鰻丼を食べるために並んでいる列の逆のほうへ案内した。風呂屋の縁台のような廊下を通って行くと日本庭園の前に広間のような部屋があり、足のところが竹で出来ている机が五、六並べられている。そこに二組ぐらいの客がすでに来て座っていた。片方は高校生のようにみえる。しかも一人だけだ。もう一つのテーブルには小柄で丸顔の五十くらいの男と四十くらいのこぎれいな顔をした女が座っている。
 石川田りかは当然、事件の関係者は高校生のほうではないと思ったから夫婦らしいほうに近寄った。
「石田川さんですか。今度担当することになった刑事石川田です」
「わたしが石田川ゆり子の父親の石田川庄三です。こっちが妻の加世子です。わたしは川路でゴルフ場とホテルを経営しています。これが名刺です。受け取っていただけますか」
「川路からいらっしゃったのですか」
「ええ、頼んでいたうな重を持って来ておくれ」
石田川庄三という男は江戸時代の豪商のように手を叩いた。
店のほうで石川田がこの店に着いたときうな重を出すことが出来るように石田川庄三は頼んでおいたのだろう。すぐにうな重は運ばれて来た。
「まずは食べてください」
「遠慮なく、もらいますわ」
刑事石川田ははしを手にとると急に立ち上がった。石田川夫妻はなにが起こったかわからなかった。石川田は瞬間的にその広間にいたもう一人の客の高校生のところへ行き、その右手をねじ上げた。
「あなた、誰に頼まれたのよ」
高校生の右手には本に小さな穴を開けて小型のデジタルビデオカメラが隠されていた。
「だいたい誰が差し金だか、わたしにはわかっているわよ。これは預かっておくわ、さぁ、さっさと帰るのよ」
高校生は何も言わずにすごすごと帰って行った。石川田が席に戻ると石田川夫妻は目を丸くしていた。
「いいんですか。高校生にあんなことをして。一般人ですよ」
「残念ながら、彼は高校生でもなければ、一般人でもありませんわよ。ある連中がやとっているスパイなんですわ」
「今度の事件の再捜査を開始することになったからなんですか」
石田川加世子は不安な表情をして石川田に尋ねた。
「もちろん、今度の事件を再捜査することになったから、わたしは盗撮されたわけですが、おふたりにも石田川家にもなんの関係もありません。きわめて個人的な問題なんですわ」
もちろん石川田はビデオカメラで彼女を撮ろうとした犯人を知っている。それは捜査一課のあいつである。たとえ捜査のためだと云え、個人的に五千円もするうな重で接待を受けることは公務員として処罰の対象になる。うな重で饗応されている姿を録画して警視正が石川田を首にすることを計画していたのである。しかし、その計画を石川田は阻止した。
「敵は内部にあり」
「なんのことですか」
「いえ、こっちのことです」
「とにかく、うな重を食べてしまいましょう。あっ、お茶がなくなっている。お茶を持って来ておくれ」
石田川はまた御用商人のように手を叩いた。
「やはり、このうな重はうまいですね。いつもこんなものを召し上がっていらっしゃるんですか」
刑事石川田りかは犬食いをしている。
「そうですな。さいわい、金には困っていないので」
「嫌みに聞こえないところがすごいですわね」
「そうですか。あはははは」
その笑った声は儀礼的だった。しかし石川田りかはただで高級なうな重を食べられるので機嫌が良かった。
「亡くなられたお嬢さんが通っていられたのは橘大でしたね」
「ええ。ゆり子は一人で上京して大学に通っていました」
「橘大は男女共学でしたね」
石田川庄三は少しむっとしたようだった。刑事石川田りかは何の意味もなく言ったのだが石田川庄三は自分で悪意を持って解釈したようだった。
「わたしはあの子をキャリアウーマンにしようと思って東京にひとりで来させたわけではないんですよ。あの子にいい機会を与えようと思ったんですがね」
「と言うと」
石川田りかにも石田川庄三の言っている意味はよくわかる。橘大は良家の子女が集まることで有名である。その親で貧乏人はまずいない。貧乏石川田りかには遠い世界だった。
「いい出会いがあると思ったんです。日本には金持ちの集まる社交界のようなものがないでしょう」
すると横にいた少し小綺麗な女が口を開いた。
「主人もそういう考えだったんですが、私たちの考えが甘かったんですね。東京にいるのは橘大の学生ばかりだと云うわけではないんですから」
「お前、なにを言うんだ。ゆり子は無理矢理ストーカーのような人間に殺されたんだ。そしてそいつが最後に自殺したんだ」
石田川庄三は内心の憤りを押さえて顔を真っ赤にしていた。
「警察はなにを考えているのですか。ゆり子が男と心中なんかするわけがないじゃないですか。それも相手は中国人の留学生だなんて、きっとその男はゆり子のストーカーだったんですよ。警察はしっかりと捜査して欲しいですな。わたしも独自に調査しますから。わたしは国会議員にも知り合いがいます」
・・ちぇっ、今度は脅しなの。・・・
石川田りかはただでうな重を食べた喜びも半減した。
「週刊誌の編集長にも知り合いがいるんですよ。とにかく心中事件ではないということだけははっきりと証明してください。うちの名誉にもかかわることですから」
「じゃあ、娘さんは彼とはなんの関係もないということですね」
刑事石川田りかは父親の目をじっと見つめた。日本人には珍しい金髪みたいなふっさりとした柔らかい髪が少し揺れた。つい二三日前に美容院に行ったばかりだった。
「当たり前ですよ。ゆり子には男も、いや男友達もいませんでしたよ。わたしたち夫妻はそういうふうに育ててきましたから」
石川田りか警部は両親にいくつかの質問をしてそれをノートに書き留めた。つまらない事件のようである。まったく凡庸である。これでは自分が将来ミステリー作家として世の脚光を浴びるためにはなんの題材にもならない。親には内緒で娘が乱れた交友関係を持つということは充分に考えられるし、旅先で売春まがいのことをしてそのトラブルで殺されるということもありうるのだ。この事件の被害者の石田川ゆり子がたとえ大金持ちの娘だとしてもだ。女に特異な好奇心というものがあるかぎりその可能性はある。自分自身、変な好奇心のかたまりのような石川田りかは自分を振り返ってそう思った。しかし、少し気になることもある。自分の娘が変死したというわりにはいやに冷静な態度を彼女の両親がとっているということである。むしろ、この変死事件で地元での自分の評判が気になるというふうだった。

   第四回
 その四
 橘大学に行くと石田川ゆり子の友人という調理栄養士学科に属している女子大生のところに刑事石川田りかはまず向かった。すると自分は彼女の友達ではなく、彼女の友達は恵比寿のレストランでバイトをしているというのでそのほうに行った。
 レストランと云っても酒をメインに飲ませる店で良家の子女がなぜこんなところにつとめているのか石川田りか警部にはわからなかった。店の裏口は公園に面していてそこは鬱蒼と木が生えている。裏口に出てきた女子大生の化粧は濃く、夜の女のようだった。
「石田川ゆり子さんが草津で変死したことを知っていますよね。石田川ゆり子さんのことを少し教えてもらいたいんですが」
女は刑事というのが自分とあまり年の変わらない女なので最初びっくりしたようだったが、気楽に答え始めた。
「刑事さんね。ゆり子のことを聞きにきたの。ゆり子は中国人の留学生と心中したんですって」
「いや、まだそういう結論になったわけではないんですよ。殺されたと云う可能性もあるのよ」
「誰に。その中国人にですか。あはははは」ここで女子大生は急に笑いだした。
「刑事さん、そういうのは、いけないんだ。そういうのを誘導尋問と云うのよ。事実を恣意的に引き出すためによく警察がやる手口ね」
「恣意的」
刑事石川田は首をひねった。そんな言葉を使うこの女子大生の真意を計りかねたからである。
「警察は事実を引き出すことによって、捜査をする。刑事さんにそんな能力があるかしら」
「・・・・」
「刑事さんは最初から、その中国人にゆり子が殺されたと仮定して前のほうの経緯を引きだそうとしている。だいたいわたしがこの店で働いているのを見て、良家の子女が集まる大学でも貧乏な学生がいるものだという推論をしたでしょう。それが刑事さんの頭の固い証拠なのよ。可愛い顔をしているわりには刑事さんって単純ね。これでもわたしの父は大企業の社長なのよ。そのわたしがここで働いているのは好奇心がもとになっているの」
「好奇心」
石川田りかは少し可愛く首をひねった。
「そう、好奇心」
好奇心と云っても何に興味を持つかでだいぶ評価は変わってくるが。
「まず、かぶとを脱いておくわ」
刑事石川田りかはたいして年齢の違わないこの女子大生に毒気を抜かれた気分だった。
「たしかにそういう疑問を持ったのは本当だわよ。あなたは石田川ゆり子の交友関係を知っているのね。あなたしか友達がいないとまわりの人間はみな言っているわ。もっと詳しく教えてくれないかしら」
「知らないわ。その中国人の留学生とつき合っていることも。ほかのこともみんなよ。ゆり子の交友、つまりセックス関係は広すぎて。知り合ったその日のうちにセックスをするような女なのよ」
「なにか、あなたは彼女の友達でもないような口振りじゃないの」
「別に友達でもないわ。なんなのかしら、一種の遊び仲間」
石田川ゆり子の生活を学友たちはうわべだけしか知らないようである。しかし、相当に遊んでいたことは事実であるらしい。刑事石川田りかは石田川ゆり子が旅先でたまたまその中国人留学生と意気投合して遊んでいるうちにその人物に殺されたと仮定してみた。
とにかく彼女の日常をさらに詳しく知らなければならないと思った。大学の人事課で聞いた石田川ゆり子の住むマンションに行ってみることにする。
 そこは都下の大きな植物園のそばにあった。白亜の豪邸と云う表現がぴったりの大きくて立派なマンションだった。壁なんかにも大理石が多用されていて田園地帯の中に白い大きな彫刻のように建っていた。貧乏石川田りか警部のマンションとは大きな違いだった。
 そこは化粧品で大きな成功をした女性実業家が生活と美を調和させると云う題目を唱えて建てたマンションで金持ちしかその中に入ることは出来なかった。日本には場違いの大きな外車がその建物の地下駐車場に入って行くのを近所の住民はうさんくさいものを見るような目で眺めていた。
 部屋は普通のマンションの二倍くらいの大きさがあるらしい。噂によるとその中には大理石の大きなジャグジーがあるそうだ。
 マンションの入り口に入ってすぐ左側がマンションの管理人の部屋になっている。管理人の部屋の中に入るとモニターがあってマンションの廊下や入り口をテレビカメラで写している。管理人の部屋の窓は小さく、鑑賞植物で覆われていてマンションの住人とは接触しないようになっていた。このテレビカメラを通しての関係しかないようだった。
 管理人は五十くらいの男だった。
「今度、変死した石田川ゆり子さんのことを調べに来たんです」
管理人は捜査一課の刑事というのが自分の娘よりも若い女の子なのでびっくりしているようだった。
「石田川さんは中国人と心中したと云う話ではないんですか。別の刑事さんからそういう話を聞きましたよ」
「そういう話ではないんですわよ。ここで石田川さんが出入りをするのをテレビカメラで見ていたんでしょう。彼女の交友関係を何でもいいから教えてもらいたいんです。あれだけの美人だから、目立つでしょう。いつも何時頃家に戻って来たんですか」
石川田は赤い口紅のついたくちびるの上を鉛筆のさきで少しだけ触った。
「まちまちでしたよ。早いときもあれば遅いときもありました。でも学生らしくはありませんでしたね」
「この中国人が来たときはなかったんですか」
刑事石川田りかは心中したというその中国人の写真をとりだした。管理人は前にもその写真を見たことがあったが、いちおう驚いてみせた。
「マンションの住人が管理のほうになにかあったらどうやって連絡するんですか」
「最初は本部のほうにつながるようになっているんですよ。それからこの管理室のほうに連絡がくるんです」
これがIT革命というものなのか、刑事石川田りかはずいぶんと面倒なことをやるものだと思った。
「このモニターはマンションのおもな共用部分を映しているんですね。個人の部屋の中を映すことはないんですか」
「ありませんよ。そんなこと」
「この映像は記録しておくんでしょう」
「本部のほうに記録装置があってそこに記録されています。でも一週間でその記録は破棄されてしまいます」
「この一週間で不審な人物が入りこむということは」
「ありません。マンションの入り口も個人の部屋の入り口もICカードで入るようになっています。それを忘れたときはここで予備のカードを使って開けます。もちろん、カードを持っている人間がドアを開けたとき、さっと横から入れば入ることは出来ますよ」
ここで刑事石川田りかはある想像を浮かべていた。石田川ゆり子は写真で見たとき相当な美人である。この管理人も石田川ゆり子には相当な興味を持っていたに違いない。この管理人と特別な関係がないだろうか。石田川ゆり子の行動になにか目をつぶっていたというようなことが。
「石田川ゆり子にどんな印象を持っている」
「遊び人でしたね。しょっちゅう男をつれて来ていましたよ」
意外と管理人は石田川ゆり子をかばわなかった。
「化粧も水商売の女のようでした」
「とにかく、石田川ゆり子の部屋を見せてくれませんか」
管理人はICカードをとりだした。マンションは三階建てになっていて豪奢なエレベーターで上がることが出来るようになっている。石田川ゆり子の部屋は三階にある。一つのフロアーにはふたりしか住民がいない。
「ここが石田川さんの部屋です」
管理人は予備のカードを使って厚いドアの横の読みとり機にカードをふれると部屋のドアがひらいた。廊下を歩いて行くと十畳ぐらいの部屋があって窓に面して大きなソファーが置かれている。そこに座って外の景色を見ていたのかもしれない。そのほかにはごくふつうの女子大生のような家具類が置かれている。しかし個人で買った家具の印象のことを言っているだけであってみんな豪奢なものである。タンスの中にはブランドものの服がたくさんつめこまれていた。そして部屋のすみには大きなマントルピースが置かれている。それが少しアンバランスな感じがする。
それもそのはずでそこで火を炊くわけではなく、隠し金庫になっているので部屋とのバランスがとれないのだ。
 管理人の話によるとその金庫の中も警察で最初の捜査のときにすみからすみまで調査したそうだ。
「そんなことも教えないで」
刑事石川田りかは低く憤った。
 その部屋を抜けて行くと大きなジャグジーが置かれていた。まるでアメリカの女優の入るようなものだった。
「立派な部屋でしょう。わたしらなんかには一生かけても住むことも出来ませんよ。そしてこの部屋はこの部屋で、みんな他の部屋は違う仕様になっているんですよ」

 第五回
 その五
 「まったく、つまらない事件だわ。女子大生が放蕩遊びの果てに殺された。それも大金持ちの娘がよ。こんな事件は家族が自腹で調べて犯人をつかまえればいいんだわ。時間の無駄だわ。なんのネタにもならないわ」
石川田りかがぶつぶつと言いながら警察署の出入り口の階段を植え込みのけやきのにおいを嗅ぎながら降りて行くと向こうのほうからこちらに歩いてくる人間がいる。そのうちふたりの距離が縮まって石川田りかの目の前に来て止まった。白いシャツを着て女子高生のようだった。
「警察の人に話したいことがあるんですが」
「どんな用件」
「殺人事件のことなんですが」
「殺人事件って、どんなこと」
「石田川ゆり子と云う人が変死して、いったんは心中事件と云うことになったんですが他殺の疑いがかかって警察が再捜査をするという話を聞いたのでわたしの知っていることを少しお話したいと思ってここに来たんです」
「いいわよ。わたしについて来なさい」
女子高生は石川田が自分とたいして違わないのに警察の関係者だということを知って意外に思った。まして捜査一課の刑事だということは理解の範囲を超えていた。
石川田りかはその女の子を近所の喫茶店につれて行った。最初はこのアイドルそのものである女が捜査一課に所属していると云うことを信じなかったが警察手帳を見せるとようやく納得した。さらに
自分が橘大に捜査に行ったその人物だと言うと目を丸くして驚いた。石川田りかが女子高生だと思ったその女の子は実は女子大生で橘大とは違う一般の子弟が通う学校に行っていると言った。石田川ゆり子の行動範囲はきわめてひろいらしい。遊び人として夜の街を遊び回っている。彼女はまじめなほうだったが、石田川ゆり子と出会って交友関係が始まった。石田川ゆり子は同級生に対抗意識を持っていてなにかと持ち物や行動で張り合うことが多く、金持ちの子弟の集まる橘大の中では本当の友達がいないということだった。そして石田川ゆり子は夜遊びをよくやるが男にもよくもてたという話だ。それから彼女の口から決定的な話が出た。石田川ゆり子は中国人の留学生とつき合っているのは事実である。石田川ゆり子から現にそのはなしを彼女は聞いたし、ある日、彼女がその中国人と痴話げんかをしているの見たと言った。
 それから石川田りかは石田川ゆり子の写真を最初に見たときから気になっていたことがあった。石田川ゆり子をどこかで見たことがあるような気がしたのである。その疑問がどうしても解けなかった。すると女子大生は意外だという顔をしてあらためて石川田りかが縁日の金魚のような表情をしているのを見つめた。
「なんだ。刑事さん、知らなかったんですか。見たことがあると思うのは当然ですよ。石田川ひかりというアイドルタレントがいるじゃありませんか。あの娘がゆり子の実の妹なんですよ」

  第六回
その六
 石川田りかはひとり覆面パトカーを運転しながら考えた。石田川ゆり子の生活にはどことなくもの悲しい印象がある。大金持ちの娘として男遊びも含めて夜遊びにあけくれていたらしい、しかし、心からそれを楽しんでいたのだろうか。お金は自由に使えただろうし、男もあの容姿だからいくらでも寄って来たに違いない。しかし、真に楽しんでいたのではないのではないかと石川田りかは勝手に解釈していた。妹はアイドルタレントとして世の脚光を浴びている。もしかすると妹に劣等感を持っていたのではないか。だからけんつくばいの態度をとってクラスの中でも他の学生に対して対抗意識を持っているように受け取られたのではないかと思った。
そして石田川ゆり子と心中した中国人留学生の名前はわかっている。しかし、わかっていいるのは名前だけだ。その名前もどこまでが本当なのかはわからない。
 そんな彼女とつき合っていた草なぎ山剛と云う中国人留学生は何者なのだろう。写真で見ると特別な秘密も隠し持っていない、きわめて地味な印象を受ける。この男のどこに石田川ゆり子はひかれたのか刑事石川田りかには少しもわからなかった。
 鎌倉のほうに向かって覆面パトカーをとばしていると大きな高圧電線鉄塔の下あたりに見たことのあるような人間が背広を着たプロレスラーのような人物と一緒になにかやっている。
「あいつ、なにしているの」
石川田りかは車のハンドルを切った。赤土を跳ね上げて車道からその空き地に車を刑事石川田は乗り込んだ。その男のそばに車を止めると隣に立っている背広を着たプロレスラーのような男の顔には表情がなかった。顔は黒い中華鍋のようだった。その頭の上に深くパナマ帽を被っている。
「なんだ。りかちゃん、こんなところで何をしているんですか」
「それはこっちのせりふだわよ」
「見てくださいよ。この捜査用のロボットが完成しそうなんですよ。ピストルで撃たれても死なない刑事の誕生ですよ。りかちゃん」
その背広を着た怪物は両手を頭上に差し上げると一声ほえた。
「高圧電線の下で試験をすることは非常に重要なんですよ。高圧電線の下ではいろいろな電波が生じていますからね。内部には精密な電子機器が組み込まれているし。それがどんな誤動作をするかもしれない。ここで試験をすることは一番悪い条件で試験をすることにひとしいんです」
「こんなものを作ってそれがどんなに有用だとしても正統捜査一課のものが使うかしら。われわれ、裏捜査一課の人間の作った機械を」
「使わせますよ。いつもわたしたちのことを馬鹿にしている正統捜査一課の奴らを見返してやりたいんです」
ロボットはまたウオーと吠えた。ここで道草を食っているわけにもいかないので石川田りかはふたたび自動車に乗り込むとアクセルをふかした。
「なんだ。見ていかないんですか。このロボットの素晴らしさはまだまだあるんですよ」
裏捜査一課の小川田まことは走り去る車に向かって石川田りかを呼び止めようとして叫んだ。黒い鉄の固まりのロボットもウォーと叫んだ。
 石田川ゆり子と心中したことになっている草なぎ山剛が留学している日華大は神奈川と東京の境のあたりのむかしは漁港だけでなにもないところだった町にあった。
 刑事石川田りかはむかしそこに行ったことがあったがあまりの変わりように驚いてしまった。
 そこはすっかりと新興住宅地になっていた。
 子供が海岸で作った砂の城のようにその大学は建っている。草なぎ山剛は北京から日本に経済学を学ぶために、この大学に来て白滓有伸という経済学の教授に師事していたと云う話だ。
 受付のところで用件を伝えるとその教授の研究室の場所を教えたので勝手にその部屋へ行った。
「これでも一年の五分の一は中国に行っているんですよ。たまたま尋ねて来てわたしに会えるというのは運がいいんですよ。今は講義もほとんど持っていないし、研究に専念しています。それに修士の学生の指導もやっています」
白滓有伸は五十ぐらいの紳士然とした男で年の割には身軽な感じがした。
「修士の学生というとどんな学生を指導しているんですか」
「ほかの研究室と少し違っているんですが。僕が指導しているのはみんな中国から来た留学生なんですよ。近年あそこも市場原理を取り入れていて経済学の必要もあるんですね。なかなかみんな意欲的です」
「日本の学生とは違いますか」
「違いますね。彼らは目的を持っているから」
「先生はよく中国に行かれるという話ですが、どんな目的で中国に行かれるのですか」
「調査ですよ。僕は少し変わったことを調べている。中国のマフィアが市場経済に与える影響とかですね。少し社会的な側面が強い」
「危ないことはないんですか」
「それは少しは危ないこともあります」
刑事石川田りかは見た目はふつうの人のようだが随分と変わったことをしている人だと思った。
「指導している学生はみんな中国の留学生なんですか」
部屋のすみに置かれている雑誌の本棚には中国語の雑誌しか置いていない。
「そうです」
「指導している学生のひとりに草なぎ山剛という学生がいましたね。どんな学生でしたか」
「草なぎ山剛ですか。真面目なよく勉強をする学生でした。前にも日本人の女子大生と心中をしたと云うことで刑事さんが調査に来ましたよ。あれは心中事件ではないんですか。僕は心中をすると云う理由がよくわからなかったんですが」
「相手の家族から強い再調査の要望が来たんです。心中なんかやるわけがないと云う話でしたわ」
「心中と云うと世間体が悪いですからね。相手はホテルやゴルフ場を経営している大金持ちの娘だと云う話じゃないですか」
「そう、わたしもつまらない心中事件だと思っているんですが、家族の再調査の要望があまりに強いんですよ」
石川田りかは石田川の両親の自分の娘が殺されたと云うわりには冷たい表情を思い出した。世間体をつくろうために心中ではなかったと調査を依頼しているのではないかと云う疑いも石川田りか警部は持っていた。
「僕は個人的なことは学生に対しても少しも知らないです。だから草なぎ山くんが心中事件を起こしたとしてもそんなものかなと云う印象しか持っていなかったんですが、もうひとり受け持ちの学生でときどき草なぎ山くんと食事を一緒にすると云う学生がいるんです。その学生の話によると草なぎ山くんが悩んでいる様子だと感じたことがあると云う話も聞いたことがあります。この建物の最上階に学食があるんですが、そこで一緒に食事をしたとき草なぎ山くんは少し悩んでいたらしく憂鬱な顔をしていたそうです。カレーライスの皿にスプーンをつっこんでご飯とカレーを口に運ぶ途中でその手を五分ほど止めているのを見たことがあるそうです。その悩んでいる内容については具体的なことは聞かなかったそうなんですけどやはり男女問題で悩んでいたのではないでしょうか。それもあとで聞いて知ったことなんですが。相手は大金持ちの長女だと云う話ではないですか。わたしはなるほどと自分では納得したわけですよ」
白滓有伸は自分で至極納得しているようだった。石川田りか警部もそれが妥当な線だと云う考えを持っている。貧しい中国人留学生と大金持ちの良家の娘との恋、家族の反対がないわけがない。それで事件が起こる。しかしこのつまらない事件のふたつの展開がある。ひとつはこのふたりが絶望してみずから死を選んだという展開である。そしてもうひとつはこの困りごとをいっきに解消するために他殺がおこなわれたということである。後者のほうでもっと細かな解釈も考えられる。まず無理心中というものがある、まず別れ話のもつれから草なぎ山剛が石田川ゆり子を殺してその復讐のために誰かが草なぎ山剛を殺したと云う線である。そうなると草なぎ山を殺したのはゆり子の父親という線が強くなる。ふたりの死体はほぼ同じ場所にあったが折り重なっていたということではなく、同時に息たえたということも証明出来ないと鑑識は石川田に報告した。そういうことも考えられるのではないか。

第七回
 その七
 警視庁の地下の研究室の前を通ると小川田まことがハンマーをがちがちいわせながらロボット刑事の顔をぼんぼんと叩いていた。ほかの部分は特殊合金で作っているのに、なぜ顔のところは中華鍋を素手で叩き出して作っているのかと疑問を持っていたら頭のところは飾り物でなんの機能も持っていないそうである。ただのかざりものだそうだ。爆弾で頭を飛ばされてもこのロボット刑事はなんの支障もなく動くと自慢気に言った。それなのになぜ顔の部分をハンマーの叩きだしで作っているのかと聞くとこうすると計算では出せない味がでるそうである。
「顔の部分はコンピューターによる設計では作れないんですよ。制作者の署名みたいなものだからね、りかちゃん」
そう言ってまたとんかちをかちかちいわせて顔のでこぼこを彫っている。それから思い出したように
「石田川ゆり子のマンションに行くように連絡があったそうですよ。石川田りかちゃん。あのマンションもなかなかのくわせものだそうだよ。まるでマンションが人間みたいに人格を持っているような言い方ですが。あの所有者が所有者だからな」
 石川田りかはあの白亜の殿堂にまた向かった。女子大生が住むにはふさわしくない建物である。と同時に日本には金持ちがいるものだと思った。これを建てたのはあの有名な美容家である。
「生活と美を調和させるか、さすがに商売とはいえ、うまいことを言うものね」
刑事石川田りかはなぜだか、あんこのたくさん入った大判焼きを食べたくなった。それからあのマンションを調査したあとには日本蕎麦の有名なところが軒を並べている場所があるのでそこへ行ってとろろ蕎麦でも食べて警視庁に戻ろうかと思った。
 車を停めるとそこにはこの前に捜査したときと同じハリウッドのスターが住むような白亜の豪邸が目の前をふさいだ。
「刑事さん、待っていましたよ」
彼女の車がマンションの前に止まる音を聞いて管理人が部屋の中からあわてて出て来た。
 民間人のほうから警察の捜査に協力するとは珍しい。
「堺るい子会長からのご指示なんです。うちの間借り人から自殺者を出したなんて縁起でもない。このさい徹底的な調査をするようにというお話です。それにこのマンションの特殊性をご存知ですか」
「生活と美を調和させるというやつですか」
「ええ、ひとつの部屋をこんなに大きくしていて、ひとつひとつの部屋がみんな違っているなんて、変わったマンションだと思うでしょう。わたしなんかも知らない仕組みがこのマンションにはあるんです。その設計者が来ています。その人がもっと有益な情報を教えてくれるかも知れませんよ」
管理人はにこりともせず石川田りかをしたがえてエレベーターの入り口に立った。
「そうだ。忘れていた。刑事さんが捜査に来てから二、三日して石田川さんの部屋を見せてくれと来た男がいましたよ」
「なんですって」
刑事石川田りかは思わず声をあげた。
刑事に商売敵なんぞはいない。もし、いるとすれば犯人だけだ。この事件が他殺か自殺か、まだわからないが。なんの関係もない人間がこんなところに首をつっこんでは来ないだろう。いや、何人かはいる。堺るい子をたねにしている週刊誌の記者とか、ライバルの美容業界の経営者という線もある。でも誰なんだろう。
「どんな人。わざわざここまで来て調べに来るなんて」
「若い人でしたよ。わたしの見たところ中国人のようでした」
エレベーターを三階で降りると石田川ゆり子のコンドミニアムの入り口のドアは開いていた。
「このマンションの設計をした黛菅五郎さんがお待ちしています」
管理人はドアが開いているのを確認するとまたエレベーターに乗って一階に下りて行った。
 石川田りかが大きなリビングルームに入って行くと、ソファーに腰掛けてこのマンションの設計者の黛菅五郎が目の前に資料、彼の座っている横には計測機器を置いて座っていた。この建築家は変な建物を建てることで有名だった。まだ若い建築家である。それに目をつけた堺るい子が変わったマンションを建ててくれと依頼して建てられたのがこのマンションだった。しかし表面的にはけばけばしい豪華さはあるものの実質は普通のマンションだった。とこの前までは石川田りか警部は思っていた。
「わたしがこのマンションを設計した黛菅五郎です」
「あなたのほうから捜査に協力してくださるそうですね」
「これも堺るい子さんの指示です。ふつうに調べていてもこの建物のすべてはわかりませんよ。たとえばこの超音波スキャナーが一台でもなければね」
「それはどういうことですか」
「けっこう、ここには隠し戸棚なんかがたくさんあるんですよ」
「鑑識でも発見出来ないような」
「そうです。超音波スキャナーがなければね」
「なんで最初の捜査のとき、そのことを言ってくれなかったんですか」
「別に言う必要もないでしょう」
最初の捜査に着手したのは正統捜査一課の連中だった。石川田りか自身、正統捜査一課の連中のやっていることだからどうでもよかった。
「でも石田川さんの買ったのはあんまり変なことはしていませんよ。あそこに見えるスカッシュの部屋がありますよね。あれは完全に密閉することが出来て排水溝や、酸素ポンプまで備えられています。あそこを水でいっぱいにすればインドまぐろを飼うことだって出来るんですよ。そしてマントルピースを見ましたよね」
「あそこは警察でも調べてあります。隠し金庫ですよね。でもあの中にはなにもありませんでしたよ」
「ええ、そうです。たしかに隠し金庫です。でもあそこのはじに電気のコンセントがあるのを見つけませんでしたか。あそこに電気のコンセントのかたちをしたメモリーを差し込むと二重底になったもう一台の金庫があくんです。どろぼうもそこまでは見つけられませんよ。これがそのコンセント」
「じゃあ、隠し金庫の隠し金庫を開けてくれるんですか」
「もちろん」
石川田りかは黛菅五郎とともにマントルピースのある部屋に行った。マントルピースの横のほうをいじくると扉があいた。その中にまた電気のコンセントがあった。黛菅五郎はそのコンセントに変なかたちをした器具をさしこんだ。すると、たんに背面だと思っていた金庫の壁があいた。石川田りかは背をかがめてその中に手をのばした。
「刑事さん、なにか置いてあるみたいじゃないですか」
「ちょっと、待って、待ってぇ」
石川田りかはあわててのばしていた手を引っ込めて鑑識用の手袋をしてビニール袋をとりだした。金庫の底には小さなノートぐらいの大きさのものが置いてある。石川田りかは手袋をはめた手を伸ばしてそれをとりだした。
「刑事さん、写真じゃないですか」
「そうですね」
それは女性の写真だった。それも妖艶な美女である。写真のはじのところには見たこともないような変なサインが書かれている。
「刑事さん、色っぽい美女ですね。日本人じゃないでしょう。雰囲気でわかりますよ」
「そうですね。これは日本人じゃないわね。中国人だわ」
石川田りかは写真を裏返してみた。そこには英語が書かれている。筆記体で書かれている。日本語で発音すればブリジット・リン。
「ブリジット・リン。知り合いにいますか」
「いいえ」

第八回
    その八
 裏捜査一課の中ではブリジット・リンの噂で持ちきりになっていた。その写真は何枚もコピーされて裏捜査一課の中で回された。正統捜査一課の連中が近寄ってくると彼らはその写真を隠した。美女の容疑者などは小説や映画の世界の中だけの出来事であり、実際の事件に出てくるのは生活に疲れはてていたり、まったくの平凡な容貌をしているものばかりだ。このブリジット・リンが事件に関係しているのかはともかく、こんな妖艶な事件関係者はいないだろう。日本人にこんな妖艶な女性はいない。やはり油っこい中華料理を食べている関係だろうか。
「わたしもひとくち加えてくれません、石川田りかちゃん」
小川田まことが手の甲をこすりながら石川田りかのほうに近寄ってきた。
「まことは自分の仕事があるでしょう」
「石川田りかちゃんの事件のほうがいいわよ」
「きみもブリジット・リンが目当てなのね。変な女、まことみたいな裏捜査一課の連中がもう朝から五人もいたわよ」
そして石川田りかは覆面パトカーを走らせた。
「ブリジット・リン。いったい何者なんでしょう」信号待ちをしているとオートバイがとなりに止まった。サイドミラーにその姿が映っている。そのオートバイは外国製でずいぶん珍しいもので見た目も派手だったが、ぜんぜんそのほうに気がとられなかった。
 刑事石川田りかは大学の校門の前に覆面パトカーを停めて、出てくる学生たちを見ている。 ここは橘大ではない。真面目な学生が多いと世間から評価されている星望大である。
 石川田りかが待っているとおとなしそうな女子学生が校門から出て来た。車の運転席から手をあげて挨拶をすると女子学生は石川田りかのほうに寄って来て運転席のほうに首をつっこんだ。
「刑事さん、またなにかご用ですか」
「車に乗りません」
「刑事さんの車にですか」
「自家用車じゃないわよ。これは覆面パトカーなのよ」
「警視庁につれて行くんですか」
「刑事ドラマの見過ぎよ。あなた。ちょっとドライブしないこと。うちに帰るだけなんでしょう」
「ええ」
彼女は石川田りか警部が石田川ゆり子のことを最初に聞いた女子大生だった。
「どこに行く」
「うちまで送ってくれますか」
「いいよ。車の中で話しをしましょう」
女子大生の家は田端にある。彼女は実家から家族と一緒に暮らしているらしい。
「いつも、家まで直行なの。恋人もいないんだ」
女子大生はつまらないことを訊くなという感じで表情も変えなかった。女子大生をのせた覆面パトカーは商店街を抜けて旧街道のほうにでた。気がつくと大正時代に建てられた水道塔の横を走っている。
「刑事さん、これ、なんですか」
女子大生は車のコンソールボックスの中に入っていた壺療法という東洋医学の本を取りだしてながめ始めたので刑事石川田りかはあわてて自分の本来の仕事を思い出した。
「刑事さん、肩でも凝っているんですか」
「凝っていないわ」
石川田りかは首を左右に動かすと彼女の軽い髪が吹き込んでくる風に揺れた。
「それより、この女を知りませんか」
石川田りかは例の写真を取り出すと横に座っている女に見せた。
「知りません」
「じゃあ、ブリジット・リンと云う名前を聞いたことはありませんか」
「ありません。写真の女の人は中国人みたいですね」
「まだ、確定はしないが、たぶん、そうだと思うわ。あなたはどうやって石田川ゆり子と知り合いになったんですか。あなたと石田川ゆり子とはどうしても接点がないように思えるんだけど」
「わたしの趣味は旅行なんです。京都なんかにひとりで旅行に行くんです」
石川田りか警部は男と一緒にではと茶々を入れようと思ったがやめにした。この女子大生には冗談にならないような気がする。男が寄って来るような印象はない。
「旅行さきで偶然知り合いになったんです。東京に戻ってから交友が始まりました」
「石田川ゆり子のことをずいぶんといろいろ知っていたのね」
「はい。橘大の人と違ってわたしにはなんでも話してくれました」
「草なぎ山剛とつき合っていたと云うのは事実だと言っていたわよね」
「今度変な中国人とつき合っているんだ。と言っていました。それが本当だと思ったのは彼女のマンションに遊びに行ったときのことなんですけど」
「ことなんですけど」
刑事石川田りかは合いの手を入れた。
「駅からあのマンションへ行く道で小山を越えて行くと近道になるんです。小山の頂上のところから下のマンションの裏庭がちょうどよく見えるんです。こちらからはよく見えるんだけど裏庭からは気づかない場所があって、ちょうどそこに石田川ゆり子さんがいたんです。中国人と立ち話をしていました。わたしの知っている人でした。草なぎ山剛でした」
「なにを話しているのか。聞こえなかった」
「それが、とぎれとぎれだったんですけど、聞こえたんです」
石川田りかはハンドルを握る手の力を急にいれて隣に座っていた女子大生のほうをちらりと見た。
「俺と別れるのあるか。俺と別れるのあるか。わたし、お前を許さない。草なぎ山剛は変な日本語を使って石田川ゆり子さんの肩を両手で持って激しく揺らしていました」
「ほかになにか言っていませんでしたか」
「いいえ。そして草なぎ山剛は立ち去りました。かなり感情が激しているようでした。わたしは悪いと思って石田川ゆり子さんにそのあとそのことも訊きませんでした」
覆面パトカーは女子大生の住んでいる町に入った。
「あなたも石田川ゆり子の夜遊びについては聞いて知っていると思うけど、橘大では石田川ゆり子の評判ははなはだ悪いのよ。それがどうしてだかわかる」
女子大生はちょっと考えているようだった。
「この前も言ったと思うんですけど、ゆり子さんは妹のひかりさんに劣等感を持っていたんだと思います。外見だったらゆり子さんのほうがずっときれいなんだから当然ですよ。心の中では自分もひかりさんのようにアイドルタレントになりたかったんじゃないでしょうか」
車は女子大生の家のそばに停まった。
「刑事さん、ここでいいです」
「あっ、そうだ。聞き忘れたことがあるわ。石田川ゆり子はきみにとってどんな人だと言えるんですか」
女子大生は一瞬とまどったが車のドアを開けながら顔を赤らめた。そしてぽつりと言った。
「お姉さんみたいな人です」
石川田りかはある確信を持った。石田川ゆり子は草なぎ山剛と心中をしたのではない。もしそういう言葉を使うなら無理心中と云うことになる。なぜなら石田川ゆり子は事実、草なぎ山剛と別れたがっていたのだから。内輪げんかをしているのを見られている。もちろん女子大生の言うことが事実だとしてである。石川田りかは行きつけの定食屋の前に覆面パトカーを停めてあじフライ定食を食べた。
 それから是非にでもアイドルタレントの石田川ひかりに会わなければならないと思った。
 石川田りか警部はやどかりテレビに行くと歌番組へ出演前の石田川ひかりのタレント控え室の中に入って行った。
 テレビで見たことのある、グループでやっているアイドルタレントと談笑していた。石川田りかがその中に入って行くと同時にそのグループは出演時間が来たのでスタジオに向かった。石川田りかは一段高くなった畳に腰をかけて妹の石田川ひかりに話しかけた。
「石田川ゆり子の妹さんがあなただったとは知りませんでしたよ」
「姉の事件の真相はまだわからないのですか」
「それより、あなたのような有名人のお姉さんが不審な死を遂げたと云うのに大騒ぎにならないというのが不思議ですね」
「事務所の社長が圧力をかけたからなんです。うちの事務所は芸能界では最大手ですから」
たしかに可愛いが外見だけでは石田川ゆり子のほうがきれいだし、色気もある。そのことが石川田りかには不思議だった。
「こんなことを聞いてもいいのでしょうか。わたしの受けた印象ではお姉さんのゆり子さんのほうが魅力的なような気がするのですが。こんなことを聞いて失礼ですか」
「わたしもそう思います」
「なぜ、そう断定できるのですか。みんな自分のほうがきれいだと思うのがふつうの人が考えることでしょう。お姉さんにもタレントになりたいと云う希望がなかったんですか」
「それどころか。いっしょにタレントのオーディションを受けたんです」
「でも、あなたは合格して、お姉さんは落ちたのね」
「わたしはタレントとして人気があると云うことがどういうことか考えたことがあります」
石川田りかは意外とこのアイドルタレントがいろいろなことを考えているようなので驚いた。
「このことは誰にも言わないと約束してくれますか」
石田川ひかりは真面目な瞳の色をして石川田りかの顔を見た。ひかりの瞳の中には石川田りかの姿が映っている。
「タレントというのは万人受けしなければならないものでしょう。誰にでも受け入れられるような」
「そう思うわ」
刑事石川田りかはそれは裏捜査一課の正反対の位置にあるようなものだと思った。裏捜査一課が万人受けするわけがない。
「姉には特殊な性癖があったんです。刑事さんの捜査で姉の夜遊びぐせの激しいのを知ったでしょう」
「そのようですね」
石川田りかは石田川ゆり子の夜遊び自体には興味はない。そこでどんな遊びをしていたかと云うことには。むしろそこでどんな人間と関係を持っていたかと云うことのほうが重要なのだ。
「姉が好感度の最大公約数的なものを持つことが出来ない最大の理由は姉の特殊な性癖にあったんです。姉は男の人と同じように女の人を愛することも出来たんです」
「レズ」
刑事石川田りかは思わずうなった。
 なんということだろう石田川ゆり子がレズだったとは。それであの女子大生が自分にとって彼女がなんに当たっているかと尋ねられたとき、顔を赤らめながら「お姉さん」と答えたのだと気づいた。
「きっと、それで姉さんはタレントのオーディションで選ばれなかったんだと思います」

  

第九回
 その九
 石川田りかはマンションで押収した写真に関してある疑問を持っている。疑問と言うよりも謎と言ったほうがいいかも知れない。疑問であればある解答の選択肢があってそれから選ぶことが出来るわけだが、その選択肢も見つからない状態だったからだ。それを引き起こしたのは写真に書かれていた変な文様である。見方によっては竜がからんでいるようにも蛇がからまっているようにも見える。なにかの符号には違いないだろう。しかしそれがなにを意味しているか石川田りか警部にはわからなかった。
 警視庁に戻るとなにかものものしい雰囲気が警視庁の内部を包んでいた。正面玄関から広い廊下を通って捜査一課の特別室の前を通るとけやきで出来た昔見た映画のような大きな扉の前には「ブリジット・リン事件捜査本部」と大きな模造紙に墨で書かれてそれがべったりと扉の正面に張られている。その紙が真っ白いところを見ると昨日か今日、とにかく最近それが張られたらしい。捜査一課が一丸になって大々的に取り組むと云う腹づもりや意思のようなものがその張り紙から見てとれる。
 ブリジット・リンというのは石川田りかがあのマンションで押収した写真に書かれていた名前だ。石川田りかはその捜査本部の重くて大きな扉を開けた。ギィーという重たい音がして中にいた刑事たちがいっせいにこちらを向いた。よけい者を見るような目でこちらを見ている。
「ブリジット・リン事件ですが」
刑事石川田はその部屋の中におそるおそる首を突っ込んだ。
「石川田くん、困るじゃないか。これは特別捜査本部だよ。きみはこのチームに参加していないじゃないか」
石川田りかの上司が無理矢理、彼女を外に押し出した。
「これは秘密捜査本部だからね。他言は無用だよ。きみ」
中にいた構成員は正統捜査一課の主だった刑事たちだった。捜査一課総出でブリジット・リン事件というものに取り組む気らしい。しかし自分が捜査上得た情報にブリジット・リンという名前が出てきた。だからその捜査本部の部屋の中を覗いてみようと思ったのだった。そのうえに中国人らしい妖艶な女性の写真も出てきたのである。このことも知らずに正統派捜査一課はその事件に取り組んでいるらしい。それがどんな事件であるかは刑事石川田りかは知らないのだが。
 警視庁の社食に行くと裏捜査一課の構成員の一人である小川田まこと警部補が竹輪の竜田揚げをおかずにしながらうどんをすすっていた。石川田りかは彼女の横にカレーライスを持って腰をおろした。
「正統捜査一課の連中がやっきになって捜査している事件というのはなんなの」
「あの大きな張り紙を張ってあるやつですか」
「そうよ」
「わかりません」
「ブリジット・リン事件とは捜査一課が総出になって取り組むような事件なんですか」
「そうかもしれません」
それを聞くと石川田りか警部補はカレーライスのルウをスプーンですくいながら口元がほころんだ。
「それに対して重要な手がかりを私は持っているのよ。私が石田川ゆり子のマンションで押収した写真があるでしょう。裏捜査一課でブロマイドのように出回っているものよ。実はあの写真の裏にはブリジット・リンと云う名前が書かれているのよ。しかも変な文様も添えられているわ」
「そのことを正統派捜査一課の連中に伝えたんですか」
「うんにゃ。私が捜査本部の中に入ろうとしたら追い出されたわ。そこにいた刑事たちの顔を見たら、全部、正統派捜査一課の連中だもん。よほど重大な事件に違いないわ。そしてその手柄を自分たちだけで一人占めにするつもりなのよ。気色悪いわ。だからそれは教えないであいつらを出し抜いてやろうかと思っているの」
「それはいい考えじゃないですか。石川田先輩」
ふたりは目を合わせてくつくつと笑った。ふたりは出し抜いて「ブリジット・リン事件」を解決したときの正統派捜査一課の連中のあわてふためいたた顔を思い浮かべた。
「それはそうと、白滓有伸に会ったんですか」
「ああ、会ったわ」
「あれは大変な人物だそうですよ」
「経済学者だと言っていたわ」
「中国マフィアを調べていると言わなかったですか」
「言ったわ」
「中国の黒社会の専門家だそうですよ。警察もときどき意見を聞きに行くそうです。その文様のことを知っているかも知れないですよ」
 石川田りか警部は小川田まこと警部補の意見にしたがうことにした。日華大の白滓有伸の研究室に行くと押収したあの写真のコピーを取りだした。
「この女性は中国人ですね」
白滓有伸は断定した。
「この文様ですが」
差し出したその文様の書かれている資料を白滓有伸はまじまじと見つめた。そしてロッカーのところに行き、資料を取り出すと石川田りかの座っているテーブルのほうに持って来た。
「珍しいですな」
「そんなに珍しいものですか」
「これは北方騎馬団のものですよ」
「北方騎馬団」
「中国の黒社会の発生は北方の清が漢民族を支配して反清組織として発生したものです。だから南方のほうにその根城を置いている組織が多いのですが、清とロシアのあいだにあって秘密結社を組織している犯罪集団があります。これはまだ日本の一部の人間にしか知られていません。伝統的に機動力にすぐれているマフィア組織です」
「そんな組織があるのですか」
「日本にはまだ上陸していないと思っていました」
「今度の心中事件には北方騎馬団に関係している人物が関わっているのでしょうか」
「わたしにはわかりません。しかし、草なぎ山くんがそういった人物に関わっていて殺された可能性もありますね」
「草なぎ山くんは真面目な中国人留学生ではないのですかい」
「マフィアはいろいろな場所に根を伸ばしていますからな。黒社会の人間はひとめ見ればわかりますよ。しかしそれにつらなっている人間はふつうの中国人といっしょに生活をしているのです。どこでどういう接点があるかわからない。それに中国人は本当に重要なことは用心して言わない。仲間の組織のあいだだけで持ち得ている秘密も多い。草なぎ山くんのことを僕は一部しか知らないようだ」
「そうですか。ブリジット・リンという名前でなにか知らないものはありませんか」
刑事石川田は目の前の人物の顔を見つめた。
「ブリジット・リン」
白滓有伸は首を傾げた。
「その北方騎馬団の首領の名前だという話もありますよ。ただし、女の名前だが名前が女なだけで、首領は男だという噂もあります」
「ブリジット・リンの姿を見たことのある人間はいないのです。この写真の女がブリジット・リンだという可能性はないんですか」
「北方騎馬団は知られていない部分が多いのです。しかし、北方騎馬団の連中ならブリジット・リンの姿を知っているでしょう。それにこの中国女の正体も知っているはずです」
警視庁に戻った石川田りかは小川田まことが刑事ロボットを作っている地下室に行った。刑事ロボットはすでに完成していた。
「なにか、おもしろいことはわかった、りかちゃん」
「わかった部分もわからない部分もあるわ。北方騎馬団というものを習ってきたわ。しかし、この写真の美女がなにものかということになるといっこうにわからない。これが本当はなんにも関係がなくて映画女優かなにかで近くに紙がなくてメモ用紙がわりにそれを使ったなんてことになったら目もあてられないわよ」
「じゃあ、その写真の女がなにものかということを特定するのが第一歩ですね。石川田先輩」
「そうだわよ」
「あれを使ってみる」
「あれって」
「犯罪履歴のある外国人の顔写真を調べる機械があったじゃないですか」
「勝手に使っちゃうか」
「使っちゃえ」
ふたりは休憩に出て操作員のいない警視庁の資料室に行って機械を操作した。しかしその資料は得られなかった。
 石川田りか刑事は自宅に戻り、まず歌番組のテレビのスイッチを入れた。そして冷蔵庫の中に冷凍ピラフの袋を切ったものが半分ほど残っているのを思い出した。田んぼで蛙の鳴いているのを聞きながら電子レンジで冷凍ピラフを暖めて食っていると電話がやかましく鳴った。窓の外には洗濯物が風を受けてひらひらとひらめいている。石川田りかは半分ほどピラフを口にほうりこんだまま電話に出ると例の女子大生から電話がかかってきた。
「刑事さん、わかったことがあるんです」
「なんですか」
石川田りかはおもおもしく言った。口の中に暖めたばかりのピラフがまだ入っていて飲み下していなかったという理由もあるかも知れない。
「あの写真の女の人が誰だかわかったんです。たぶんその人じゃないかと思うんですけど」
「どういう人」
「刑事さん、会えますか」
「今、行くわよ。待っててくれる」
石川田りかは田んぼの横に停めてある軽自動車を走らせた。女子大生の家のそばにある二十四時間営業のファミリーレストランで待ち合わせることにする。しかしお姉さんと呼んでいた女性が死んだといえ、自分とあまり関係のないことで随分とこの女子大生は労力を払っていると石川田りかは思った。ファミリーレストランに入ると客がいないがらんとした店内でその女子大生の後ろ姿が見える。女子大生の目の前にはコーヒーカップがただひとつ置かれている。
「待ちましたか」
石川田りか警部が声をかけた。他人が見たらきっと精神カウンセラーが患者にあっていると思うかも知れない。
「刑事さん、あの写真の主が誰だかわかったんですよ」
女子大生の片手には薄汚い雑誌が握られている。
「有名な人ですよ。その写真の人は女優なんです。中国の映画によく出ている人だそうですよ。ほら、ここにそのことが載っている中国の雑誌があります」
石川田りか警部は失望した。いくら重要な人物でも中国にいるならなんの役にも立たない。しかしそんな有名な女優だったのか。しかし刑事石川田は彼女のことを知らなかった。
「実は同じ名前の人が日本にいるんです。橘大の石田川ゆり子さんの遊び友達から聞いたんですけど、いかがわしいバーで働いているそうです。もちろんその女優そのものではないですよ。源氏名って言うんですか。同じ名前を名乗っている中国人の女性がいるそうです、顔もそっくりだそうです」
「いかがわしい」
刑事石川田りかは低く息を吐いた。
「女の人が客になっているバーだそうです。レズビアンバーだそうです」
そんなものがあるのか。石川田りかは耳を疑った。遊び友達というのがそのレズビアンバーに行ってその名前を覚えていてたまたま雑誌を見たら同じ名前の女がいて、女子大生がブリジット・リンという名前のことを話していたので、そのことを女子大生に教えたそうだ。その女子大生はそこへは石田川ゆり子と遊びに行ったことがあるそうだ。その店があるのは代々木だそうである。まずその女性がまだいるか特定しなければならない。近所にあるキャバレーへ客を装って店長と世間話をすると水商売のライバルだと思っているのか、うしろめたいことをやっているという警戒心からか、うさんくさい目で刑事石川田を見た。たしかに中国人でブリジット・リンという芸名の女がいると言った。顔も本家にかなり似ているという。そのビルの三階に寝泊まりしていて店にも出ているという話だ。しかし、正統捜査一課の連中がこんな明白なねたに食いついてこないことが刑事石川田には不思議だった。
 しかし裏捜査一課は色めきたった。ブロマイドとして配られている女のそっくりさんにお目にかかれるかも知れないからだ。刑事石川田りかは捜査の人員を要求した。そのレズビアン・バーに踏み込むつもりだ。もちろん石川田はブリジット・リンというその名前は出さなかった。すると上司は言下にそれを却下した。この忙しい状況でそんなものに人員をさけるか。そう言われればたしかに警視庁の内部の正統派捜査一課は多忙を極めている。それになぜだか知らないがときたま政治家が正統派捜査一課にやって来たりする。しかし急がなければならない。キャバレーに聞き込みに行ったことがブリジット・リンなる人物に気づかれないともかぎらない。またはそのキャバレーの中で働いている女を逃がす可能性もある。
 トイレに入って警視庁の建物の階段を下りようとすると階段の下のほうから小川田警部補が背広を着たプロレスラーのような男をつれて上がってくる。
「石川田りかちゃん、この男をつれて行こうよ、この殴り込み、わたしも参加するつもりよ」
そのレズビアンバーが中国の黒社会の連中が仕切っていることはあきらかだった。あの連中のやることである。パチンコ玉をつめた鉄パイプ爆弾くらいは爆発させるおそれはある。トカレフあたりも持っているだろう。不死身の鋼鉄刑事を仲間にすることはおおいに意義がある。まず最初の突撃はこのロボット刑事にさせなければならない。石川田りかと小川田まことは店の他の出入り口をおさえておかなければならない。そしてどんな攻撃にもひるむことなく、活動を停止することもないこのロボット刑事が店の中に突入するのだ。そしてその女を捕まえてなにかの理由をつけて警察にしょっぴかなければならない。
 「どういう理由でその女を署まで連行して来たらいいかな」
石川田りか警部はコーヒーショップのカウンター席に座りながら隣の小川田まこと警部補に話しかけた。その向こう側には背広を着たロボット刑事が座っている。すると小川田まこと警部補はズホンのポケットからビニールに入った白い粉をとりだした。
「ふへふへ、これですよ」
「これって、お前、証拠をねつ造するの」
「こんなことは****あたりではよくやられていることですよ。ようするに署まで引っ張ってくればいいんでしょう。きっかけはなんでもいいんですよ。ちょっと手品みたいなことをやってその女の洋服のポケットの中からその白い粉のふくろを取り出せばいいんですよ」
「ふがー」
向こう側に座っているロボット刑事が排気を出した。
「きみたち、またおもちゃを作っているのね」
ふたりは気づかなかったがカウンターの向こうのほうの席でモモンガのように小さく固まって冷やし中華をすすっていた女がふたりのほうに寄って来た。
「おもちゃじゃないわよ」
小川田まことがその女をちらりと見ながら聞こえないぐらいの小さな声で言った。するとその女も聞こえないぐらいの小さな声で「いつか、やめさせてやるからな」と言った。ふたりの声は聞こえないような小さな声だったがやはりふたりには聞こえていた。それほど仲が悪いというわけでもない石川田りか警部補がその女に声をかけた。
「ここで昼飯ですか」
「ああ、噂によるときみたちが変なことに首を突っ込んでいるらしいわね、でもおもちゃ作りで満足しているのよ」
「後藤田さんも変なおもちゃを抱え込んでいるらしいじゃないの。ブリジット・リン事件とかいう」
「あなたたちが首を突っ込めるような事件ではないわ。高級事件だわよ」
「じゃあ、わたしたちが取り組んでいるのが低級事件みたいじゃないですか」
「ぶっ殺してやる」
小川田まこと警部補が聞こえるか聞こえないかわからないような低い声でつぶやいた。
「ふん、この税金どろぼうたちが、せいぜい年金がもらえるようになるまでむだに年を食っていくんだわな」
コーヒーバーの入り口のところで黒いシルエットが手を上げると後藤田と呼ばれる女は振り返った。戸口のところに立っている男は逆光で顔形がよくわからないがなんとなく日本人という感じではない。警視庁正統捜査一課後藤田まき警視正はその男を見ると急に愛想がよくなり、出て行った。
「あいつ、出て行ったわよ」
「やはり、ブリジット・リン事件というのは重要機密なんだわ。あいつらの鼻をあかしたときのことを考えるとわくわくするわ」
「あいつ、わたしの可愛いロボット刑事のことをおもちゃとか呼びやがって。こうなったら警視庁に居座るだけ居座ってやるわよ」
「そうよ、わたしはここでの経験をもとにしてベストセラーを書いてやるわよ。あなたは」
「わたしも本を書く、それも警視庁の暴露ものよ。今、上にいる連中が顔を青くするようなものよ」
それからふたりは勤務中だというのにビールを注文した。よく冷えたビールのジョッキをふたりで飲み干した。
「それはそうと、週刊誌に苦情を申し込んでやると息巻いていた石田川ゆり子の両親はどうしたのかしら。石川田先輩にうな重までごちそうして事件の再調査まで依頼してきたじゃないですか」
「それがね。どうしたと言うのだろう。急にトーンダウンだわよ。自分の娘を過信していたのかも知れないと言ってね。東京での娘の生活をぜんぜん知らなかった。あんなに毎日夜遊びにふけっていたことは上京して娘の噂話を友達から聞いてはじめて知った。小さな頃は姉のほうがいい子だったんだけど、妹があんなに有名になってちやほやされているからひねくれてしまったのかも知れない。お金も東京での生活に困らないようにと湯水のように与えたのもよくなかったのかも知れない。もっとも中国の留学生と心中をしたとはいまだに信じられないけれども娘の生活も浮ついていたことは認めなければならない。事故で死んだのなら仕方ないが、もし他殺ならやはり犯人を見つけて欲しいと力なく言っていたわよ」
「なにか、本当の親じゃないみたいだな。なんでそんなに冷静になってしまったんでしょう」
「知らないわ。もちろん自分の娘がレズビアンだったのを知っているかと聞く気にはならなかったから聞かなかったけど」
「とにかく、明日、このロボット刑事と踏み込んでその女をしょっぴけばすべては明らかになるわけよね。ここじゃ、場所が悪い。警視庁の連中が絶対にやって来ない穴場を知っているんだわよ。そこに行きません」

第十回
  その十
 石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は覆面パトカーに乗り込んで朝の六時にそのレズビアンバーに向かった。ふたりは前の席に座り、ロボット刑事は後部座席に座った。ロボット刑事はシートの中央に座ったが二人分の場所をとり、その重さで深くシートは沈んだ。
 そこに来る途中何度もからすがゴミ箱を漁っているのに出くわしたがそのうちの何羽かはハンドルを握っている刑事石川田りかと目が合い、からすはじっと石川田りかの顔を見た。石川田りかはなぜか本来は人間に使われる言葉、目は心の窓であるということわざを思い出した。
 代々木にあるそのレズビアンバーは警察が突入するのには都合がよかった。警察と言っても三人しかいないが。左手は空き地になっていてぶた草が生え放題に生えている。右手は細い路地を一本はさんでキャバレーになっている。表は道路に面していて見通しがよく、後ろは三メートルぐらいの崖になっていて石垣が組まれていてその崖の上には小さな神社がある。しかし神殿だけがあって人は住んでいない。まだそのレズビアンバーはひっそりと静まり人も起きていないようだった。左手のほうに出入り口はなく、道路に面した正面に客用の出入り口、右手のキャバレーに面したほうに勝手口がある。
 計画としては正面からは小川田まこと警部補と刑事ロボットが踏み込んで行く。勝手口からは石川田りかが突入するという段取りだった。それ以外に中の人間が外部に脱出することは出来ない。二階でさえ窓はなかった。その女が中にいることは確認してある。
 覆面パトカーをそのレズビアンバーの前に音もなく停めると石川田りかはキャバレーの前に四輪駆動のオフロード車が停まっているのを認めた。中には誰もいない。石川田りかは警察無線を切った。警視庁に今回の作戦を知らせることはできない。秘密裏の計画だった。裏捜査一課のまたの名は無法者刑事である。そうでもなければこの法治国家の日本で麻薬所持のでっちあげで署に容疑者を引っ張ってくるなどという発想は浮かばないだろう。
 ふたつのグループはそれぞれの戸口の前に陣取った。刑事石川田りかの腕時計の秒針はかちかちと時を刻んでいく。「ちょうど時間だ」石川田りかは前もって作っておいた合い鍵で勝手口のドアを開けると静かに中に入り外からも内からも出られないようにする器具を取り付けた。暗がりの中で玄関のほうを見ると小川田まこと警部補も同じことをやっている。ふたりは手で合図をした。中にいる人間は深い眠りに入っているらしい。めざす容疑者は三階に寝ているという情報は確かだ。
 三人は階段を上がって行った。そして三階に上がるとドアをあけた。畳敷きの部屋の中に場違いな豪華なベッドが置かれ、早朝の窓から差し込む光の中に軽い寝息が聞こえる。三人はそれの目を覚まさないようにそのそばに近づいた。
 つぶった瞼の上に強い線のまゆがある。かたちのよい鼻の線がある。筆で書いたような優美な線の唇があった。カーテンを通して入ってくる朝の光の中でまるでミルクの固まりのように見える。それは石田川ゆり子のマンションの隠し金庫の中から発見された写真とも女子大生が持って来た写真ともよく似ている。映っている角度は違うが同じようなものだった。
「なに、見とれているのよ」
その女の寝顔をじっと見ている小川田まこと警部補を石川田りか警部が叱責する。
小川田まこと警部補はあわててポケットの中から白い粉の入ったビニール袋を取り出すと枕もとにある電話台の引き出しの中に入れた。
「よし、準備は万端だわよ。起こすわよ。手錠の用意はいいわね」
「もちろん」
「文句は麻薬所持容疑で逮捕するだわよ」
石川田りかは警察手帳を取り出した。石川田りかが耳元でささやくと容疑者は目を開けた。
まだ自分の置かれている状況を理解できない女は目を開くとじっと石川田りかの顔をにらんだ。美しい瞳だ。声は出さない。
「麻薬所持容疑で逮捕する」
すかさず小川田まことが電話台の引き出しをあけてビニールの袋を取り出す。
「これが証拠だ」
「ブォー」
ロボット刑事が排気音を出した。石川田りかは手錠を取り出す。
 すると怪鳥音が聞こえて入り口のところにつなぎの体操着を着た人影があった。
「チョエー」
またその男は怪鳥音を発するとロボット刑事に向かって飛んで来た。直線距離で三メートルもあるだろうか。
 なにか、中国語を発した。ロボット刑事はびくともしなかったがこの異常な事態に石川田りか警部と小川田まこと警部補はうろたえた。その男のほうに目を奪われていると裏手の窓を開けて女は飛び降りようとした。そして飛び降りた。しかし随分と高いはずである。裏手から逃げられないと計算したのは誤算だった。飛び降りたと思ったのは実は違っていて裏手の崖の上にある人手のない神社からはしごのようなものを渡して女はそれを伝わって向こう側に渡りきっていた。そこには車が用意されている。
「しまった」
石川田りか警部は裏手の窓から向こうにいる女が車に乗り込むのを見て舌打ちをした。もうはしごははずされている。
「その男をつかまえるんだわよ」
小川田まこと警部補はロボット刑事に命令した。しかしロボット刑事は鈍重な動きでいいようにあしらわれている。刑事石川田りかは拳銃をとりだした。すると男は何かわからない中国語をはっすると階段をかけおりて行った。ふたりもそのあとを追って階段を下りて行くとその男はキャバレーの前に停めてあった四輪駆動車に乗り込んで走り去った。
 そのあとにロボット刑事も一階に下りて来た。
「わたしたちも逃げるのよ。なんの許可もなくこの捕り物をやっているとわかったら大変だわ」

 「手榴弾を持たせて爆発させてもびくともしないんだけど、・・・」
警視庁の地下室の中でロボット刑事の腕のあたりをぺたぺたと叩きながら小川田まこと警部補が言うとロボット刑事は排気音を出して「ウゴー」と返事をした。
「あんなに動作が遅いんじゃ、捕り物の役に立たないわよ」
石川田りか警部は地下室の椅子に腰掛けて不良のようにたばこを吸うと小川田まこと警部補は猛烈に抗議をすると思いきやいやにゆとりのある態度を示した。
「腕力が強いだけならロボット刑事とは呼ばないわよ」
「じゃあ、どんな取り柄があるというのよ。教えてくれる」
小川田まことは部屋の隅にあるモニターを机のそばに置いた。そしてロボット刑事の作り物の頭部をはずした。それは全くなんの機能もない頭部でたんなる装飾の意味しかない。それから首のつながっていた肩の部分をいじっているとふたが開いてなにかの端子が出てきた。彼女はそこにコードをつないでモニターの電源をいれる。
 するとあの女の寝姿が出て来た。
「おっ、あの女じゃないですか。するとこいつが見たものはすべてこいつには記録されていているんですね。少しは役に立つじゃないの」
「それだけではないわさ。ほんのちらりと見ただけでもその映像は記録されていて過去に何回それを見たかも調べることが出来るんです」
それから小川田まこと警部補はまた機械を操作した。するとモニターにはあの捕り物の場面が出てきて捕り物の邪魔をしたカンフー野郎の顔が映し出された。
「おっ、あいつだわ。下に二回と表示が出ているわ」
「過去にもう一度見たことがあるということだわ」
「いつ、見たのよ」
「戻してみようか」
その映像の中には正統捜査一課の後藤田まき警視正の姿も映っている。
「後藤田まき」
「そうだ。後藤田まきも一緒に映っている」
「いつ映したのよ」
「今度の捕り物で打ち合わせにコーヒーカウンターで座ったわよね。そのとき後藤田がカウンターのはじのところで冷やし中華を食べていたわ。そのあと中国人らしいのが後藤田を呼びに来た。ふたりは落ち合って出て行った」
「ということは後藤田がわたしたちの捕り物の邪魔をしたということなの」
「暴露本を書く必要がなくなったわ。後藤田のところに恐喝に行くのよ」
重要な参考人を逃す手助けをしたということは後藤田もうしろめたい部分があるに違いない。
ふたりは捜査一課の後藤田のところへ行くことにした。もちろんあのカンフー野郎と正統捜査一課後藤田まきが一緒に写っている写真を持ってである。
 しかし後藤田の部屋まで行く必要もなかった。あのものものしい「ブリジット・リン事件捜査本部」の前を通ると疲れ切った顔をしてとうの後藤田まきが出てきたのだ。
「後藤田警視正、話したいことがあるんですが」
「後藤田警視正、ずいぶん今までわたしたちのことをこけにしてくれたわよね。一緒に来てよ、訊きたいことがあるんだから」
「ふん」
後藤田まき警視正は無視をして口も聞かなかった。
「こんなものがあるのよ」
小川田まこと警部補は例の写真を取り出した。
「話だけは聞きましょう」
後藤田まきはどっかの役人のような口をきいた。
三人は空いている会議室に入ると入り口のドアを閉めた。
「後藤田さんよ。ずいぶんふざけたまねをしてくれるわよね。お前さんがカンフー野郎と結びついているのは明白だわよ。カンフー野郎はいかがわしい奴だわよ。それがお前さんみたいな正統捜査一課と結びついていることがわかったらどうなる。お前さんの輝かしい経歴に泥がつくだけじゃないだわよ。お前さんには子供も親もいるんだろう」
小川田まこと警部補はよたった。
しかし後藤田まきはまだ二十歳を少し出たばかりで結婚もしていなければ子供もいない。
「後藤田さんにそんな言葉を使うもんじゃないわよ。わが課のホープなんだからな。わたしたちは捜査一課の話だけをしているんじゃないんですよ。警視庁の威信と云うか」
「それだけですか」
「えっ」
「それだけですかと言っているのよ。きみたちが捕り物ごっこをやったらしい話は耳に入っているわよ。しかし、許可を受けたのかな。許可だけじゃない。法律にしたがってことを運んだのかな」
「・・・・・」
「それに代々木のほうにあるバーの内部が壊されて住人が失踪しているという報告を受けている。それにとなりのキャバレーの支配人があの女がブリジットと呼ばれていると言っていたろう。それは間違い。あの女の本名はビクトリアだわよ。わたしの話すことはそれだけよ」
後藤田まきは黙って部屋を出て行った。

第十一回
 その十一
 「エポの歌はいいなあ」
小川田まことは重役用の椅子に寝そべりながら目の前にはられたあの女の寝姿を大きく伸ばしたポスターを眺めながら言った。重役用の椅子だけは立派だがあとの机やロッカーは廃棄処分にするようなものばかりである。裏捜査一課が会議室の一つを勝手に占拠している。そこが裏捜査一課のたまり場のようになっていた。
「結局進展はなしか」
「この女はどこに雲隠れをしたのかしら」
中国の映画スターのそっくりさんの写真を見ながら刑事石川田は舌打ちをしながらつぶやいた。
「出前です」
ドアをノックする音がしたので石川田りか警部がドアをあけるとカリフラワーみたいな変なヘアースタイルをした新垣田りさ警部補が立っている。
「お姉さんたち、相変わらず仕事不熱心やないか」
「うるさい。出前が来たと言うならカツ丼でも持って来なさいよ、さもないとどたまかち割るわよ」
「お姉さん、そんなに怒らないで下さいよ。いい情報ですよ。いい情報」
「なんだわよ。言ってみなさいよ」
「ブリジット・リン。わかりましたわよ」
「本当なの」
「本当でがんな。お姉さんたち、ブリジット・リン、ブリジット・リン、言うやさかいブリジット・リンが見つからないのやないですか」
「うるさいよ。お前」
石川田りか警部は捜査一課に赴任してから三ヶ月しか経っていない新垣田りさ警部補に言われてむっとした。
「お姉さんたち、機嫌なおしてくださいよ。わてお姉さんたちを尊敬しているのやさかい」
「とにかく、ブリジット・リンって何者なんだわよ」
「ブリジット・リン、わかりましたで」
「誰なんだ」
「石田川ゆり子と心中した草なぎ山剛」
「ええっ、なんだって」
石川田りか警部と小川田まこと警部補は同時に驚きの声を上げた。
「草なぎ山剛は男でしょう」
「わてかてブリジット・リンが本名なのかどうかわかりませんで。とにかく草なぎ山剛はブリジット・リンという名前を持っていた。それがあのホステスの本家本元の映画女優の名前だと思っていたら大間違い。草なぎ山剛はくわせものでっせ。あいつ、学生の身分で商社を持っていたんでっせ。それもあやしい会社でがんな。収支がめちゃくちゃでね。中国に日本から特殊な金属を輸入していたんですよ。その金属のこともなんやむずかしい理屈でよくわからないんですけどね。その金の決済をやるときの名義がブリジット・リンになっていたんですがな」
「なんだ。草なぎ山剛がブリジット・リンだったのね」
石川田りか警部は一応納得した表情をしてみたがそのくせ全然ことの真相を理解していたわけではなかった。なんのことやらさっぱりとわからない。
「そうじゃないわね。草なぎ山剛が架空名義を作るために作った名前でつまり実体は存在しないと云うことなのよね」
「ちぇっ、つまんないわ。この絶世の美女がブリジット・リンだと思っていたわよ。まあ、それはそれで正しいんだけど。それが事件の核心だと思っていたのに、少しずれているかも知れないの。少しは夢を持たせてくれたらいいのに」
「お姉さんたち、かえってその方が重要じゃないの。そうなると心中事件というのも、もう一度ちゃんと調べてみる価値はあるんじゃないの。これは心中事件やないで」
するとまたドアが開いて後藤田まきの一の子分の紺野田あさみ警部が顔を出した。
「あなたたち、ここを不当占拠しているんでしょう。今日の午後までに出て行くのよ。今日からお客さまの控え室になるわ」
「何よ」
「何よとは何よ」
「ほら、かっかとしている」
石川田りか警部がドアの向こうを見ると制服を着た人間が立っている。しかし警察の制服ではない。
「なんだ。いらしていたんですか。捜査一課の方で休んでいてください。すぐ控えの部屋も出来ますから」
その制服は海上自衛隊のものだった。紺野田あさみ警部は自衛官をつれて向こうに行った。
 それから警視庁捜査一課の中に自衛隊の人間が出入りすることが目につくようになった。ときどきは政治家もやってくる。それらの人間は「ブリジット・リン特別捜査本部」の中に吸い込まれていく。
 しかし裏捜査一課の連中はその中に入ることが出来ないのでその理由はわからない。
「おい、聞いた。今晩、大捕物があるという噂だわよ」
「どこで」
「場所はわからない。ブリジット・リン事件に関係していると云う噂だわよ」
「なんだって」
石田川ゆり子の事件が全く解決していないのにブリジット・リン事件が大きな展開を迎えるなどとは許せない。石川田りか警部はさっそく後藤田まき警視正のところに談判に行った。今晩おこなわれる大捕物に参加させろとだ。後藤田まきはしばらく腕を組んで考えていたが見学ならいいだろうと云うことで今晩の大捕物に参加することを許可した。裏捜査一課なりに足を棒にして裏をとっていたことを知っていたからだ。少しは同じ職場としての思いやりを見せたのか、それとも裏捜査一課のことなど眼中にないというゆとりを見せたのか石川田りかにはわからなかった。
 石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は覆面パトカーに乗り込むと後藤田まき警視正の乗る覆面パトカーのあとをつけた。環線道路のところどころで警察が網を張っているのがわかった。ライトを消した仲間うちではそれとわかる車が物陰に停車している。最後まで行き先は伝えられなかった。後藤田まき警視正の乗った覆面パトカーは東京を過ぎ、神奈川に入った。石川田りか警部はこの車が三崎のほうに向かっているということはわかった。案の上、車は横須賀のさきにある小さな漁村に入って行ったがところどころに警察の車が停まっていてその上、自衛隊の軍事車両まで停まっている。松林をおれて後藤田まきの車は海岸に向かって下りて行った。ここは漁村といっても遠い昔に海軍の施設があって海岸線は深くえぐられている。
 警察車両のあいだをすり抜けて後藤田まき警視正の覆面パトカーは停まった。
 石川田りか警部の車も停まった。
「きみたちは見ているだけでよい」
「なんで」
「もう失敗のしようがない。大きな計画ほど融通が利かないということよ」
「おい、あそこ」
小川田まこと警部補が指でつっくのでそのほうを見るとパトカーの中に白滓有伸が手錠につながれて押し込まれている。そしてもう一台のパトカーの中にはあの写真のそっくりさん、妖艶な中国美女がやはり押し込まれている。隣の席には婦人捜査官が座っている。手のあたりには布がかけられていてわからないがその手には手錠がかけられているのだろう。
「おい、後藤田警視正、あれ、あれ、あのパトカーに押し込まれている女」
小川田まこと警部補がパトカーのそばに立って後藤田まき警視正に話しかけても無言のままでちらりとその逮捕された連中を見てほほえんだだけだった。それから後藤田まき警視正は堤防のそばに行き、誰かと話している。
 石川田りか警部は驚いた。それはあのカンフー野郎ではないか。
 変な部分はそれだけではない。三人が堤防のそばに行って下を見るとドラム缶が堤防の壁に沿ってずらりと浮かんでいる。
 石川田りかの眼下の暗い海の上でドラム缶が一列に並んで波間に上下に揺れている。小川田まこと警部補もロボット刑事もそのドラム缶をのぞきこんだ。どうやら水中でそれらのドラム缶はつながれているらしい。ドラム缶の動きは連携している。微妙に周期をずらして上下動している。
「あなたたちの頭じゃ、これがなんのドラム缶だか、わからないだろうな。こんなガラクタしか作れないじゃ」
「なにを言うのよ」
「・・・・」
うしろには紺野田あさみ警部がにやにやしながら立っていた。ロボット刑事は自分のことを言われているということがわからずにぽかんと警部の顔を見ている。
「これはソナーだわよ。水中の未確認物体を特定する。自衛隊で演習に使っているときの十倍の機材を投入しているのよ」
後藤田まき警視正が答えるかわりに紺野田あさみ警部が答えた。
「なんのために」
石川田りか警部が紺野田の顔を見ると後方のパトカーで警察無線のマイクを握っている後藤田まき警視正の方に目配せをした。
 「予定ポイントの三十メートル手前に入りました」
後藤田まき警視正はマイクのトークボタンを押した。後藤田の横には自衛隊の幹部が立っている。そのパトカーのうしろの木の下にテントが張られていてその下にレーダーのような機材が置かれていて自衛隊の人間がたむろしている。その自衛隊が何かの命令を下した。
 石川田りか警部が海上のほうを見ていると夜の海の中に水柱が立った。
「これを使って見て」
紺野田あさみ警部が双眼鏡を渡した。双眼鏡だと思ったのは実は漆黒の闇夜でも使える暗視装置で夜の海がみえる。
 石川田りか警部が水柱の上がった海面のあたりを見ているとてらてらと輝いているが、海中に浮かぶプランクトンでもくらげでもなく、機械油が海上に浮かんでいるのかも知れない。さらに海中で爆発したらしい残骸が海上に浮かんでいる。石川田りか警部は暗視装置の倍率を上げた。岸に控えていた処理船が近寄って行く。その残骸の一部に文字が書かれている。彼女にはそれが何と書いてあるか読むことが出来た。
「B・・・、それからなんだ。BのつぎにはR」
石川田りか警部は海上に浮かんでいるその文字を読んで言った。
「おっ、おっ」
石川田りか警部は思わず声をあげた。
そこには英語でブリジット・リンと書かれていたのである。

  第十二回
その十二
「ブリジット・リン事件特別捜査本部」の張り紙は取り払われてそこは正統派捜査一課の祝宴が張られていた。もちろんこの事件の全面的な解決を祝ってである。
 その席には自衛隊の幹部も座っていた。ある政治家も顔を出していた。祝杯が行き交った。
 「石田川ゆり子の父親が来ています」
紺野田あさみ警部が後藤田まき警視正に耳打ちをした。
「今、行くわ」
後藤田まきがその場を離れて面談室に行くと石田川ゆり子の父親の石田川庄三が静かに座っている。
「ゆり子の事件が完全に解決してその事件の全貌が明らかになったという話を聞きました。話の説明もしてもらいました。だいたいの話は聞いたんですが、今いちはっきりしないところがあります。気持ちの整理をつけるためにもここにお伺いしたしだいです。ゆり子がどうして殺されなければならなかったかもう一度よく話してください」
石田川庄三はじっと後藤田まき警視正の目を見つめた。
「そうですね。まず、中国人留学生、草なぎ山剛の正体をつまびらかにしなければなりません。彼は経済学を勉強をしに来た留学生ということになっていますが、実は中国政府の役人です。しかし、おおっぴらに出来るような身分ではありませんでした」
「どうしてです」
「軍事用の資材を輸入するのが目的です。そして架空の商社を日本で立ち上げて極めて少量しか取り扱われない特殊な金属を輸入することが彼の仕事でした。それはある軍事兵器の開発にどうしても必要で、その試作品が秘密裏に制作されていました。その試作品というのが小型の潜水艇です。それは画期的なもので詳しい理屈は専門的なことで、よくわからないのですがイオンエネルギーと云うものを使って相手のレーダーにはほとんどつかまらないものだそうです。そのため草なぎ山剛は大量の資金を持ち、いつでも大金を右から左へと自由に動かすことが出来たのです。彼は決して貧乏な中国人留学生ではなかったのです。そしてその潜水艇はほぼ完成していました。しかし草なぎ山剛は金が自由になっていたのでキャバレーやバーで遊ぶようになりました。そこで知り合ったのがお嬢さんです。ただの金持ちだったらお嬢さんは草なぎ山剛に興味を持たなかったかもしれません。しかし、自分のスパイじみた仕事の一部を見せたりして興味を引いたのでしょう。それでゆり子さんは草なぎ山剛とつき合うようになったのです。お嬢さんの住まわれていたマンションをご存知ですか。あの秘密の金庫に自分の秘密の書類を、かえって安全だと思い、置いたのかもしれません」
「白滓有伸とレズビアンバーで働いていた中国女性、ビクトリア・リンとはなんなのですか」
「ふたりは蛇頭のメンバーです。白滓有伸は驚くことに蛇頭のメンバーだったのです。彼の言った北方騎馬団などというのはまったくの作り話です。なにしろ彼自身がマフィアの一員なんですからね。蛇頭はその潜水艇の話を聞きました。そしてそれを欲しがっている国があり、手に入れられることが出来ればいくらでも金を払うことを知っていました。まずその潜水艇の秘密をさぐらなければなりません。白滓有伸は草なぎ山剛の指導教官でしたが、その秘密資料はどうしても手に入れることが出来ませんでした。その資料さえ手にいれればその潜水艇を奪取するのは用意です。その船の暗号や秘密ルートも知ることができるのです。そして草なぎ山剛が日本の女子大生と恋愛関係にあり、その秘密資料を彼女の金庫の中に隠していることも知りました」
ここで後藤田警視正はのどにからんだたんを切った。
「お嬢さんの性癖を利用しようとしたのです。レズビアンだということを」
石田川庄三は複雑な表情をした。
「ゆり子さんはビクトリア・リンに夢中になってしまったのです。そう、中国の映画女優ブリジット・リンのそっくりさんです。だからお嬢さんの隠し金庫の中にはブリジット・リンの写真が入っていたのです。それを見てお嬢さんはビクトリア・リンがいつも身近にいるような気持になっていたのでしょう。それから草なぎ山は自分の資料をお嬢さんの隠し金庫の中に入れておいたということはいいましたね。その方がかえって安心だと思ったのでしょう。そしてそういう関係になってからお嬢さんのマンションの金庫から秘密資料を奪いました。そして草なぎ山剛との心中にみせかけて殺してしまったのです。しかしあの建物が変わり者の建築家が建てたということを知らず、金庫が二重になっていてブリジット・リンの写真を保管していたことを知らなかったのです。そしてまたブリジット・リンには二重の意味があったのです。ブリジット・リンがなんのことなのか、疑問にもたれたでしょう。当然です。草なぎ山はちゃめっけを出してある意味を持たせて秘密預金の名義の名をつけました。どんなことかと言うと、それが草なぎ山剛の秘密預金の名義という意味しかないという理解だけだったら片手落ちです。もちろん、ビクトリア・リンに似ている映画女優だけだとしてもです。ずっと以前から警視庁でも防衛庁でもブリジット・リンのことは知っていました。ブリジット・リンというプロジェクト名が中国にあって軍事兵器の開発をしていたということは。それが潜水艇だということは最近になってわかりました。そしてその潜水艇の横にはブリジット・リンと英語で書かれていたのです。高性能潜水艦ブリジット・リン号です。そしてブリジット・リン号は蛇頭の手に落ちる一歩手前だったのです」

 石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は警視庁のビルの屋上に上がっていた。屋上から横須賀のほうを三人は眺めた。
「それにしても、なんなのよ。石田川ゆり子の事件は全面的に解決したからもういいだなんて、ふざけているわ」
「・・・・」
「あの女は中国に送還されるって話しじゃないの。もったいない。わたしはあの女こそブリジット・リンだと思っていたのよ。あのカンフー野郎が連れていったんですって」
「まあ、いいわ。写真だけでなく、実物も見られたんだからね」
「自衛隊の奴らもいなくなったことだし、裏捜査一課のたまり場も元に戻るわよ」
空には青空がどこまでも広がっていた。彼らは事件の真相をほとんど知らなかった。しかし、全面的に解決である。いや、草なぎ山剛の架空名義を突き止めたのは裏捜査一課である。しかし、それも赴任してから三ヶ月しか経っていない新垣田りさ警部補の功績であった。そのとき排気音がした、ロボット刑事があくびをしたのである。****************終わり***********************

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