【ネタばれあり】本気の『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』感想文

賛否両論という言葉がある。ただ「賛否両論の作品」というものはありえない。作品と人とが向き合ったとして、そこにはその人の賛があってその人の否があるだけだ。

今回このオーズのVシネマ、一時間とちょっとの作品に私が向き合って思ったことは「真面目に感想を書いた方がいいな」ということだった。

まず、この複雑な作品の脚本を担当された毛利亘宏先生に最大限の敬意を表したいと思う。近年だけでも『戦記』『ビヨジェネ』ときて、この『復コア』と、もはや第二の「東映の用心棒」とでも言うような仕事ぶり。

そして大集結したオリジナルキャスト陣。『オーズ』という作品がファンだけでなく作り手からも愛されていることを再確認する機会となった。
もちろん、田﨑監督はじめ携わったスタッフの方々も、愛を持ってこの企画を実現へ導いたことが伝わってきた。

新規キャストである日野ちゃま、当時から『オーズ』の視聴者だったとのことで、作品への理解度は申し分のないものだろう。難しい役どころであったが、火野映司とのコントラストがくっきり出た素晴らしいキャラクターだったと思う。


ネタバレに入る


2月28日に完成披露試写があったことで、私自身ネタバレを食らった上での初鑑賞だった。

物語開始時点で火野映司は戦死していた

このような導入とは予想出来なかった。てっきり物語の中でアンクは復活し、映司が死ぬ、という結末を辿るのかと思っていた。

アンクの復活には明確に映司の死が関わっていた。
正確には、映司の欲望、ということになるのだろうか。

ここまで書いて、アンクのために映司が死んでしまったかのようになっているが、違う。
あくまで作中ではアンクの復活が第一義にはおかれていない

映司が死んだのは古代オーズの激しい攻撃から少女を庇って手を伸ばしたためだった。

古代オーズの攻撃を背中で受け、倒れた映司が伸ばした手の中にはアンクのコアメダルがあった。
その映司の手の中でアンクは復活させられた。手を「繋いだ」のである。


今回のこの『復コア』においては「手を伸ばすこと、手を繋ぐこと」がテーマとして再びスポットが当てられており、この戦争とコロナの混沌の時代にまたしても送り出された『オーズ』として大変意義があると私は思った。

TTFCで配信された『ネット版 仮面ライダーオーズ 復活のコアメダル・序章』での描写を踏まえると、映司は「アンクを復活させる方法」を既に知っており、それを今際の際まで切り札として持っていたということになる。

作中の時系列で考えれば、鴻上ファウンデーション製の人造グリード・ゴーダの誕生を経て、火野映司ほどの強大な欲望であれば、ひび割れたメダルすら直しアンクを呼び戻すことが出来るという確証が生まれていたのだろう。
それも、死の直前に願う強烈な欲望となればなおさら、である。

以上が私のアンク復活への解釈となる。

「いつかの明日」という呪い


作品の内容ではなく外、作品の前段階の企画としての『オーズ10周年』に対しての話。

『オーズ』本編最終回では「アンクを元に戻す方法を探してみる」と言って映司が旅を再開する終わり方であった。
しかし程なくして冬映画『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(以下『MEGAMAX』)が公開された。この映画でアンクが一時的に“帰って”きた
アンクがいないと始まらないというのもあるが、設定的にもコアメダルがないとオーズに変身できない等の理由があった。

ポイントとしては、『MEGAMAX』の時間軸は明確に本編終了後ということ。そして、この段階ではどこまで本気だったのか、ユニバース的構想に基づくクロスオーバー映画であったことが挙げられる。
(この後に『スーパーヒーロー大戦』でもオーズは客演・変身している。しかしこちらはアンクなし・コアメダルあり。テキトーと言ってしまえばそれまでの差異があった)

ともかく、明確に地続きとされた『MEGAMAX』
そこで言及されたのが「いつかの明日」─「アンクが復活する未来の示唆」であった。復活のギミックに時間経過という離れ業を用いつつも、40年後の未来まで描いてしまおうという意欲作。そしてそれはファンにも概ね好意的に受け取られていたものだと思う。
「未来でアンクは復活できるんだ…」と。

二度目のアンク帰還は『仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』(以下『平ジェネ』)
ここではアンクの仮初めの復活が描かれた。

『平ジェネ』も例によって冬映画であるが、なんとこれもユニバース的クロスオーバー映画であり、しかも「財団X」絡みと、かなり『MEGAMAX』を踏まえた作りとなっていた。
しかし、主題はお祭り映画であるためか、アンクが完全復活することは“遠慮”されたのであった。

ここまでやっておいて、である。

今回の『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』が製作されるにあたっては
「キャストが集結してオーズの10周年を祝う」
「いつかの明日という宿題がある」
「やるからには完結作とする」

このような3つのオーダーがあったはずで、それは必然のものだった。そう思いたい。

『桐島、部活やめるってよ』ではないけれども、映司の死、映司の不在によって周りの登場人物達に動きが生じてくる。
同窓会的作品において登場人物達を余さず描くためにも、この手法は正しかったように思う。

オーズが居なくても、映司が守ろうとしたこの世界を繋いでいこうとする想い。ここへきてついにコアメダルでの変身に賭けるバースもそうである。

渡辺秀「“待つ側の心境”を田﨑監督が重点的に描いている」
https://www.youtube.com/watch?v=KbpI73PmPbU


『オーズ』は名言が沢山ある。

「イケますって!ちょっとのお金と明日のパンツさえあれば!」

「手が届くのに、手を伸ばさなかったら死ぬほど後悔する。それがいやだから手を伸ばすんだ」

「あちこち行ったけど、楽して助かる命が無いのはどこも一緒だな!」

「俺が欲しかった力。どこまでもとどく俺の腕。それって……こうすれば手に入ったんだ」

火野映司の台詞だけでもホントに名言ばかり。これは本当に小林靖子先生が凄すぎる。

その中で、ラスボスである真木博士の美学も光っていた。
「人は、その人生を真っ当するまで何者でもありません。終わって初めて人として完成する」という思想。
真木博士の最期の言葉は「私が完成してしまう」だった。
世界を終末へ導くという目的を達する前に完成してしまった。

しかし、映司は違った。映司の行動は周囲の人間にも影響を与え、映司の意思は彼ら彼女らが受け継いでいった。それは私たち視聴者もそうでありたい。
『仮面ライダーオーズ』は作品として完結を迎えたが、私たちはまだ旅の途中にいる。



ここまで読んでいただきありがとうございました。パンフレットをまだ購入出来ていないので、読んだら何か追記するかもしれません。

せばオーズ

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