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ソナエトロン ep.24 わかるって、わからない。


はい、えー、ソナエトロンのエピソードが、24ですね。

うんと、また、ドライブキャス、じゃねぇや、キャスじゃなくて、ドライブ収録なんですけれども。今日は、クリスマスイブ、12月24日の、今、1時回った、1時半ぐらいかな。

非常に東京は、天気も良く、まあ暖かい、陽気ですね。まあ、何て言うのかな、東京も一時こう気温がグーっと下がったりもしましたけれども、概ね、やっぱり、今年は暖かいのかな。暖かい感じで、なんか推移している感じがしますね。

うんとね、ちょっと。あれ、ベルトがきつくて、今ちょっと緩めました。

うんと、こないだ、あの、まあ、予定したお勉強回の収録ではなく、ちょっと別の、自分的に、まあ、噛み砕きは、なかなか難しい話なんですけれども、それで、『偶然と必然』っていう本がありまして、それを、一応、今読み切って、メモも全部起こして、ちょっとメモ膨大なんですけれども、だから全体で、まぁ10回まではいかない、7-8回は、まあそれで録るネタを仕込んだと言うね。


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まあ、連続ではできません。固い話ばっかりになっちゃうんで、まあ、今日みたいな、こういう回を挟みながら、出来る時にやっていこうと。

まあ、概ねどういう話かって言うと、うんと、偶然と必然ということを、あらゆる角度から、考えてみましょうというね。

あら?、今ね、救急車がね、中学校に、なんか事故があったんでしょうかね、気になりますけども。

えーと、それで、なんだ、偶然と必然ね。で、それを、あらゆる科学的なことから、歴史から、教育から、哲学から、統計学から、そういった、あらゆることで、ちょっと読み解いていきましょうっていうような話になりますね。まあ、なかなか面白いテーマではあると思います。

うんとね、こないだね、ちょっとね、言い忘れちゃったと言うか、サイコロの目の話、したんですけれども、サイコロの目の出方っていうのは、偶然の中でも、最高レベルの偶然性を指し示している現象らしいんですね。

確かにそうなんですけれども、ただ、その不思議さっていうのは、完全に、そのランダムな現象なんですけれども、それを、何万回って、その目をこう振って行くと、やっぱりその、何て言うんですか、目の出方っていうのが、1/6に、その収束していくっていうのは、その何て言うのかな、偶然性の中の繰り返しによる、大数法則的な法則が出現するって言う事を、ちょっと言い忘れてしまったんで、まあここで補足しておきますけれども、補足もへったくれもないんですけれども、どのみち、分かったような・分かんないような話なんで。

【4分50秒】

えーまあ、うんとね、ただね、僕、あの、非常にここんところ、まぁ、色んな先端の科学の講義であるとか、まあそうことを触れる機会があって、それをこう繰り返したりとか、ずっと昔から、僕、読書は好きでね。読書の量としては、まあちょっと、なんて言うの、人に説明できないくらい、たくさんの本を読んできました。まあ、大人になってからも含めて、子供の時も含めてね。

だから、本棚っていうのは、とても入りきらず、捨てた本が、読んでは捨て・読んでは捨てっていう状態もあった時はあって、溜まっちゃうんでね。

で、親から大量に貰った本があり、だから、よく、あのまぁ、本棚とかね、公開しましょうみたいな、そういう、とてもとてもね、人に見せられるような、今までも、本棚、読んだものと読んでないもの含めて、乱雑に、あの、置いてある、本だけは置いてありますけれども。で、あと、押入れに、ダンボールに詰めて、突っ込んであるようなね。まあ、読んだのもあるし、読まないのもあるしってことになりますけれども。

えー、まあ、そういった、読書を通じてとか、そういうことをね、考えて、読んで、ただ、理解する・しないに関わらず、できる・できないっていうのは、自分の資質的な問題もあって、必ずしも、全部理解できるわけではないんですけれども、あの、なんかしら、考えるわけですね。まあ、どんな人でも、そうだと思うんですけれど。

【6分53秒】

で、ねえ、俺、考えることの正体についてですね、あの、現状のところなんですけれども、うんと、これは、まあ、哲学的に、僕と同じようなことをおっしゃられてる方、多分、沢山いらっしゃられるとは思うんですけども、結局、あの、考えるっていうことは、「分からないっていうことの発見である」っていう風にね、結論付けてるわけですね。

あの、要するにね、あの、考えなきゃ、分かんないっていうことが分かんないんですよね。分からないっていうことを分かるためには、考えなくちゃならないっていうことですね。

あの、まあ、あと、宇宙の彼方に到達できないっていうのと同じ意味で、何かを完全に分かるっていうことは到底不可能っていう風に、僕は考えるんですね。

あの、だから、だってね、じゃあ例えば、だってって言うと、そういう言い方よくないですけど、じゃあ、ここにね、一つの石ころがありますと。この石ころについて、完全に分かるっていうことを言う人がいたとして、その石ころのことを完全に分かることができたら、それは、僕は、宇宙全体のことを完全に理解するっていうことと、同じことだと思うんですよね。

なぜかと言うと、その石ころっていうのは、ただ、その材質的な問題・マテリアルの問題ですね。で、じゃあ、ここに何故この石ころがたどり着いているのかとか、前がどうだったとか、これがたどってきた歴史がどうだったとか。

で、そうすると、これは宇宙の開闢(かいびゃく)まで遡らなきゃなんないですよね。完全に分かるっていう意味になると。その性質がどうであるとか、うーん、だから、たった一個の石ころのことでさえ、完全に何かを分かるって言うことは、絶対...とは言ってはいけないですが、不可能であるというふうに、僕は考えています。

【9分23秒】

なので、だから、一生懸命・一生懸命、みんな考えるんですね。研究者の方も、そうです。で、段階的に、何かが発見され、その法則性が証明されっていうことはありますね。当然、その、そうじゃなければ、ここまでの、人類の発展ということも、まあ、発展したかどうだかっていうのは、えーと、後世の人が、俯瞰的に見てみないと分かんないことですけれども、一応の発展を見せているっていう事の、うーん、原因は、その、不断の研究とか、みんな、その、人類が、一生懸命・一生懸命、考えてきたわけですね。

まあ、その人類のボトムにあった、例えば、過去の、進化のその過程の前の段階の生き物たちの姿とかね。それを包み込む環境であるとか、まあ、そういうことが、全部、全体でボトムアップを計ったっていう考え方もできますけれども、それで、なんだかんだ言って、ここまで、まぁ、こうやって、車運転するみたいなとこまでは、来たわけですよね。

で、あの、これがですね、ちょっと、これは本の説明の時にまたしますけれども。うんと、ちょっとね、今ね、その本が書かれた、これまた後で繰り返しになっちゃうかもしれないんですけれども、あの、この本が、僕が今読んだ本が、書かれたのが1980年代なんで、少なくとも、30年40年、40年ぐらい前、随分前ですね。

で、その当時に、考えられた、その先生の意見では、今はちょっとした、科学の時代のエポックみたいな風になってしまっていて、えーと、あの、アポロ11号が、月面着陸したわけですけれども、それぐらいの、あれを、まるでその月面着陸が合図になったかのように、大体、研究も、あのなんて言うんですか、大発見ってみたいのが、全部大体ストップしたと。

で、それまでの、蓄積した、大発見の、お釣りみたいなもので、その後の社会の、そういう科学的な発展が、工業的なね、発展みたいのが、お釣りでできてきたと。何も新しいものを発見してないと。

でも、その本の、その序文の、予言性っって言うか、序文だったかどうだか、ちょっとまだ読んだばっかりで、あの整理ついてませんけれども、あの、ただ、これから、20世紀の終わりから、21世紀、今、21世紀だよね? その20世紀の後半から、21世紀の初頭にかけて、バイオテクノロジーとか、そういったものの、新しい科学が、大発見を遂げるだろうということを、その本でおっしゃられてて、それは、あの、なかなか予見性があるって言うか、当たっておりますよね。

【13分13秒】

で、まぁ、そんなようなことがあって、ちょっと話を元に戻しますけれども、だから、うんと、そうやって一生懸命・一生懸命考えて、段階的に、その新しい法則が発見されたりとか、新しい、その科学の仕組みが発見されたりとか、それが実験によって、再現性がね、確認されていくっていうことで、いろいろ発展してきたわけですけれども、そういったことが、何かが分かったということになりますけれども、それはあくまで、その一部分を切り取ったものの中が分かったということで、全体として何かが分かった、ということにはなりませんよね。

今、例えば、バイオテクノロジーとか、そういった生命操作で、新しい生命を誕生させるっていうことも、技術的には可能でしょう、多分。まあ、その遺伝子工学とか、まあ、書き換えとかを、その、農業だけではなく、生きた生物に対してね、人間に対しても、やろうと思えば、もう可能なんだとは思うんですよね。

ただ、そうなったからといって、それが出来たら何かが分かったということにはなりませんよね。分かんないまんま、技術だけでできてしまうということがあるわけですね。

なので、僕は、だから、分かったっていうのは、何が分かるかっていうと、分かんねぇことが分かるわかると。

で、まあ、そういうふうに、ちょっと、レトリックって言うか、言葉遊びみたいな感じに取られてしまうかもしれないんですけど、ここんとこ、何か、うーんと色んなこと考えてきた一つの結論としてね、そういうことがあるわけですね。

【15分18秒】

なんだかんだ言ってね、だから、ちょっとなんかこう、まあ、僕も、そういう傾向はゼロではないとは思いますけれども、まあちょっと、知ったふうな口きいてしまうというね。分かったようなこと言うんじゃねえよってことって、昔からよく言われてきましたけれども、あの、まあだから、そういった反省点も含めて、なんとなくまあ、やっぱり、その、人ってだから、最終的に、どんどん・どんどん考えたとして、分かんないっていうことが、本当に納得できた時に、その状態、それで、自分が、生まれたてのような、全てを受け入れられるような状態に、僕は到達するんじゃないかと思うんですね。そうやって、こう、いっぱい、こう考えて、あの、分からないっていうことが、本当に心から納得できるような状況ですね。

僕は、そのことを、宗教的に、仏教的に言えば、それがひとつの解脱(げだつ)であり、で、そこで、現実世界から決別っていうことになると、リネン...、えーと、あれはなんだ?、リインカネーションはなんつうんだっけ、あ、輪廻からの、解脱からというのは、その決意ではないかっていうのを、まぁ、ある程度、何て言うのかな、自分の中で、構造的に描いていることですね。

そうじゃねえかねって。そうなったっていうんじゃないんですよ。あの、多分、そういう形になっているんじゃないかなっていうのを、想像しているわけですね。

【17分29秒】

まあ、宗教学って言うか、うんと、僕が読んだ、仏教系の本になると、えーと、鈴木大拙(すずきだいせつ)先生のような、禅の思想ですね。

それと、あと、あれは、倶舎論(くしゃろん)っていう、あれは、上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)と言われるやつかな。それの本とか読み漁ったりとかですね。まあちょっとヘンテコな、僕、手当たり次第な勉強の方法なんで。

で、あと、イスラム神秘主義もね。あれ何、スーフィ、スーフィズムっていうのかな。それの本とか。あと、井筒俊彦(いづつとしひこ)、井筒俊彦先生の、あれは何だっけな? えー、そういうまあ、仏教系の観念論。どうやって、物事を見てきましょうっていうような話ですね。

で、井筒先生っていうのは、もう、慶應大学の教授だったかな。まあ、とんでもない大天才、語学的な大天才でもあって、ふるう言語っていうのが、恐るべし、その習熟度で振るわれていてね、なぜそれが、その先生が、おっしゃるに、なぜそうでなくちゃっていうのは、例えば、日本語で考えられた、えーと何て言うんですかね、あの、哲学なりなんなり、宗教っていうのは、やはりその、日本語の習得が必要であると。

じゃあ例えば、イスラーム、コーランを読むには、やはりその、何て言うんですか、あれはイスラム語っていうのは何て言うでしょう、アラビア語か、の習得が必要であり、で、まあロシアの文献が必要であれば、やっぱロシア語、その翻訳しきれない部分っていうのが、必ずあるわけですね、当然。

【20分03秒】

それは、言語っていうのは、その地域に密接に、地域と歴史に密接に結びついていますんで、やっぱりそこの歴史を知ったりとか、そこの現地にいたりとかね、生活してみてっていうことが、必要っていうのは、ここんとこ、その、見に行った・聞きに・聴講した、科学系のセミナーでも、要するに、フィールドワーク、民俗学的なフィールドワークっていうのは、その、現地に、例えば、じゃあ、先住民族が暮らすようなところに、一緒に行って、その人たちと一緒に生活しながら、いろんなその民族的な研究を行うフィールドワークですね。

それを、何十年、30年40年っていうスパンで、やられている研究者の方が、実際にいるわけですね。そういう方たちの、なんて言うのかな、もう、ほんと、熱意を、あの、えーと、まあ、僕なんか、その聴講しに行くときは、なるべく一番前の席を取るんですね。前の人が、どうしても目に入って、邪魔になったりすることもあって、そういう、聞き漏らしのないように、一番前の席で、その先生たちの話を聞いたりとかしていると。

で、僕なんか、やっぱり、一生懸命メモを取ったりとか、うんと、その先生の顔を一生懸命ね、見て、一言も聞き漏らさないようにっていうつもりで聞いていると、結構ね、その先生方も、うんと、ちょっと僕に向かって、直接目を見て、話してくださるとかいうことも感じられるぐらいの距離で、そういう、その、本当のその今現場で、第一線で、研究されている方の、その熱意ですね。

だから、分かった・分かんないっていうことは仕方ないんです。誰もが誰も、じゃあ、例えば、物理学の高等数学を用いなきゃいけないようなやつの、その方程式をね、バーっと見て分かれって言ったって、それは基礎的な知識がなければ分かりませんよね。

だから、分かる・分かったっていうことは後回しにして、まず、その、現場に満ちている熱意ですね。それを、聴講されてる人たちの、やはり同じような熱意かな。それを、ライブとして、その場で共有できる・するっていうことが、まず第一義的に、良いことじゃないかなと思うんですね。

【23分23秒】

だから、機会があれば、本当、これ、僕、ソナエトロンでは、繰り返し言ってますけれども、やっぱりその、僕みたいな、こういう話だけではなくて、実際に、自分で行くことできますからね。

それは、東京は東京の、その、そういったものがあるし、地方は地方のものが必ずあるはずなんでね。そういうセミナー、セミナーってなんか、そういうヤらしいものではなくて、そのまあ、講演、講義ですね。公開講義ってことになりますかね。

で、だから、そういったもの、あの、やっぱりその、じゃあ例えば映画を観に行くとか、絵画を見に行くとかね。じゃあ、ライブを聞きに行くとか、演奏を目の当たりにするとか、そういったことと、同じ興奮っていうのかな、ライブ感っていうのが、感じられるものなんですね。あの、僕は、そういうもの感じるわけですね。

だから、それは、だから、その、味わった人じゃなければ味わえないし、まあだから、ちょっと、自分の興味の持てないことには、もう一切耳を貸さないみたいな態度よりは、ある程度、そういう、アンテナのふり幅は広くしておいて、で、いろんなものに触れてくっていうことがね。僕は、そっちの方が、自分の、その振り幅、振り幅と言うか、えーと、人への対応力ですね、物事への対応力っていうのは、結局、それが高めてくれるんじゃないのかなって、思うんですよね。

【25分30秒】

なんでもかんでも知らん顔っていうよりは、これはね、まあちょっと、あの、個人名、個人名出すのは良くないかな。ポッドキャスト関係の方でね、やっぱり、尊敬できる、お話しされる方が、だから、分かってる・分かってないじゃなくて、そういう、その話題が出てきた時に、ふっと自分の中に、あの、その話をフックにして、自分の中から、こう、ずるずるっとね、ひき出てくるものがあることが大事なんだみたいな、大事って言うか、僕はそうしていますっていうことをおっしゃられてた方がいて、僕、その時に、やっぱり、非常に共感したと言うか、あーなるほどなぁ、と思ったんですね。

だから、その方は、別に、何かの先生という方ではなくて、一般の方ですけれども、やはり、自分で、色んな、勉強されたのかどうかっていうのは、僕は直接お話ししたわけではないから、分かりませんけれども、まあ、何らかの方法で、自分の見識を、そうやって深められた経験のある方であることは間違いないと思うんですね。

だから、それが、僕も、だから、そうありたいなーっていう風に思ったわけですね。

まあ、ちょっと、グダグダ話してきましたけれども、まだね、今日はいっぱい録れるんで、この後も録っていこうと思っています。

お付き合い、ありがとうございました。

【27分42秒】

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