廃用って言葉知っていますか?

母が大腿骨骨折から入院。そこで認知症ではないかと言われ、私一人では到底介護ができなく言葉どおり泣く泣く施設にお世話になった。初めは施設ってどうなの?と母も疑っていたのだけど(家に強烈に帰りたがっていた)、暖かいスタッフさんたちと食事(これ大事なんですよね)に囲まれて次第に心を開いていったようだ。私も、スタップさんの入れ替わりがあったけれど、毎週末に訪れると暖かい言葉をかけていただいたなかで母の部屋でのんびり過ごす時間がこの上なく、ああ、ここならホッとできると思っていた。当時はまだソロリソロリとだったけれど歩けたので、休日には美術館に連れていったり、札幌ドームや厚別競技場へサッカーの観戦、年末年始は外泊して連れ出したりしていた。

でも、コロナ禍。この前の年ぐらいから、母は車椅子生活になっていたけれど、車椅子で函館の高校の同窓会にも出席できたし(丘珠空港や函館空港のGSの皆様やCAの皆様には大変お世話になったけれど)、サッカー観戦も連れていくことができ(母は私よりも選手のこと知っていた。河合選手とか内村選手のグッズ?紙のお面みたいなものを買って(貰って?)きていたし)、年末のコンサートにも連れ出し、外泊もできて、適度な刺激を与えてあげれたと思っていたけれど、コロナ禍。

母と会えなくなって、その間どのように母が過ごしていたかわからないけれど、確実に寝たきりになってしまっていた。コロナ禍だから寝かせておいた方が良いよね、となっていたのかと疑心暗鬼になっていた矢先に、酸素飽和度が低下した、救急車を呼んだ、という連絡。搬送先が決まり、病名は間質性肺炎だったけれど、廃用です、という電話で説明していただいた医者の言葉が堪える一言だった。救急病院なので処置はするけど、転院先は市外の病院になる、調整していると、廃用ですので、と。そして救急病院での居場所が期限切れになった頃、市外へ転院した。その病院も長くは居れず、札幌市内へ転院となった。廃用と言葉とともに。

施設や救急病院、市外の病院のスタッフさん、そして転院した今の病院のスタッフさんにはとてもよくしてもらった、もらっていると思う。でも、廃用となってしまったのは、コロナ禍のため、やっぱり医療が圧迫されていたことで起きたのではないかなと思う。勝負ごとを語るとき「たられば」を語りがちであること、言っても仕方がないんだわかっている。それでも、この状況で、もしコロナ禍がなかったら、と考えてしまう自分がいる。コロナ禍で直接的なダメージを被った方も多くいるのは知っている。でも、コロナ禍がなかったら、穏やかに旅行や美術館やスポーツ観戦ができたのではないか、と、直接的ダメージを受けていない人だっている、でも悲しい状況になったんだと言いたい自分がいる。

コロナ禍で、知った言葉、廃用。なんて悲しい言葉なんだろう。そう思ったらnoteに記したくなった。知ってよかったと思う。知ることができたからこそ、この言葉とともに過ごせると思った。母が施設に入ってから母のことを思い出すと容易く涙が出るのは何故なんだろう、どうしてなんだろうとずっと考えていた。申し訳ないと思っているのか、梅干しを見ると唾が出る、といった現象なのか、とか、もし自分が俳優になったら母のことを思い出せばすぐ泣けるぞ、とか。もう冗談半分に乗り越えようとしていたけれど。その悲しみを、廃用をという言葉を心に刻んで生きていけば良いんだと、忘れることも、乗り越えることもしなくて、良いんだと至った。この悲しみとともに生きていえば良いんだ、これも私の一部だと思えばいい、と。

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