【教育】体育の先生と虫のよだれ

自分は免許のための履修でちょっとやらかして、今でも授業をとっている。彼は夏とはもう呼べない気温の中、白い半袖のTシャツを着ていた。「先生になりたい理由」の答えとして、彼は目を輝かせて答えた。

「僕は部活で生徒をプロ級にして、進路に結びつけたいんです。」

「虫唾が走る」の「虫唾」とは、吐き気を催した時に逆流してくる胃液を「虫のよだれ」と表現したものらしい。この感情を最初に虫のよだれと表現した人はすごい発想の持ち主だ。

僕は虫のよだれを全力で抑えつつ笑顔で聞いた。
「そうなんですね!僕なんか運動からっきしで部活動は全然でしたね…。そういう生徒はどうされるんですか?」
すると彼は困ったような顔をしてうーんそうですね、と言って腕を組み答えた。

「それを言われるとちょっと困っちゃいますね。」

彼は本当に純粋に、運動のできる生徒をプロにして活躍させたいと考えていたのだ。
運動が苦手で劣等感を抱えている生徒は眼中にないのだ。ぼくは唖然としつつも、それを悟られないように乾いた笑いを絞り出した。

しかしこれは後でよく考えると特大ブーメランだった。自分が模擬授業で一番言われることは「難しすぎる」だ。英語が苦手で授業についていけない生徒を無視していたわけである。

これは構造的な問題だと思う。体育の先生は体育が得意で好きだから体育の先生になる。だから体育が苦手な生徒の気持ちを想像できない。しかし実際に体育で最も助けを必要としているのは苦手な生徒である。

この構造的問題のもう一つの側面に「体育はできることは良いことで、できないことは悪いことだ」となってしまう問題がある。実際、別に運動が苦手だって楽しく体を動かして健康的な習慣を身につけられれば問題ない。しかし授業では運動ができる生徒は褒められできない生徒は「何やってんだもっとがんばれ」と言われる。

英語に関しては別にできなくたって全然困らないし、できる恩恵もそこまでない。しかし英語が全くできないことで劣等感を抱かせるような教育を行っている。

話を大きくすれば、学歴もそうである。学歴が高い人が強い影響力を持っているため、ペーパーテストができることは良いことでできないことは悪いことであるという強い固定観念がある。しかしペーパーテストができないからといってそれは個人のごく一側面にすぎないし、それ自体が幸福度を決定するわけでもない。

もちろん個人レベルでこの構造的な問題の解決は全力で試みるが、学歴レベルの強力な固定観念は覆せる展望が全くない。
教育革命家でも目指そうかなー

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