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3月10日 東京が燃えた日
早乙女勝元さんが90歳で亡くなられた(昨年5月)ことを知り、読んでみた #岩波ジュニア新書 (5)。
『東京が燃えた日』(戦争と中学生)
#早乙女勝元
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1945年3月10日の東京大空襲、この日だけでも無辜の10万人の東京の市民が殺された。
この周到に計画された空襲を指揮した米軍のルメー司令官が、戦後どのようになるのか、恥ずかしながら今回この本で初めて知って怒りの驚愕。
米軍に対しての怒り以上に日本政府と昭和天皇に対して、、↓
戦後、カーチス・E・ルメーは、ヨーロッパ駐留米空軍司令官、米軍戦略空軍指揮官を経て、一九六一(昭和三六)年、米空軍参謀総長に就任した。まもなくベトナム戦争がアメリカの全面的介入によって火を吹きはじめると、ルメーはB2にかわって〝黒い殺人機"と呼ばれるB52戦略爆撃機で、北ベトナムヘジェノサイド(皆殺し無差別爆撃の火の雨をあびせかけ、「ベトナムを石器時代に引きもどしてやる」といった。
一九六五 (昭和四〇)年、空軍参謀総長からおりたルメーは、民間会社ネットワーク・エレクトロニクス社の重役になり、その後の大統領選挙に、ウォレス候補の要請を受けて、副大統領候補として出馬したこともある。
そのカーチス・E・ルメーが、まだ米空軍参謀総長のころ、極東方面を視察中、日本に立ちよったのは、一九六四 (昭和三九)年一二月六日のこと。翌七日朝、埼玉県の航空自衛隊入間基地に向ったルメーは、そこで天皇と日本政府からの贈り物「勲一等旭日大綬章」を受取ったことを、最後に書きしるしておかねばならない。 授章の理由は、ルメー大将が「日本の自衛隊建設に非常な功労があったから」というのが、衆議院予算委員会での、佐藤栄作首相の答弁だった。
日本政府の人権感覚(自国民に対してさえも)とプライドの欠如に唖然とするしかない。
そして早乙女さんは日本軍の非道も忘れない。
もっとも、一般市民を対象とした無差別爆撃をせめるならば、それはルメーとアメリカばかりでなくて、日中戦争勃発の一九三七 (昭和一二)年、日本軍は中国の首都南京を占領、市民大虐殺のあと、蒋介石政府を追いかけて、揚子江上流の都市重慶に対し、翌年二月から非戦闘員をふくめた無差別爆撃を二〇〇回以上もおこなった事実を、見落してはならないだろう。
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