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365日インド哲学⑦ 主観と客観/一元論と二元論

ヨガという山はひとつです
しかし
その山を登るルートは沢山あります

なので
その登り方は人それぞれです

直感的に尊敬するヨガ行者に出会い
その方の思いを知り
その思いを伝えたいという道を歩む人もいれば

ヨガの本質とは何?と
系統立てて論理的に学んでいく人もいます

そうやって
どのルートでなくては
ヨガではないと
限定することなく
自由に山を登ることを許可しているからこそ

ヨガ・インド哲学の解釈も
多様に存在し

そこから
無数の流派を生み

6/21を国際ヨガデーと
国連が制定するまでに
世界中へ
ヨガは広がったのでしょう

しかし

ヨガのクラスを受けて

『今あなたはどう感じている?』と
問いかける先生もいれば

『俯瞰して自分を観察していきましょう』と
問いかける先生もいます

主観と客観

わたしはこう感じる
ダイレクトな主観

私はこう感じると言っていると
実況中継する客観

この差はいったいどこにあるのでしょうか

それは
ヨガの根底に流れている
インド哲学に秘密があります

ヴェーダンタ哲学と
サーンキヤ哲学です

この二つの哲学の宇宙論
万物創世が
ヴェーダンタ哲学は一元論であり
サーンキヤ哲学は二元論だからです

なんじゃそりゃと
ここで諦めずに
どうぞ最後までお付き合い下さると嬉しいです

一元論
その昔
神秘的な力に満ちた根本原理なるもの梵・ブラフマンに
マントラを唱え
その力が働くように祭儀を行って人々は暮らしていました。
ブラフマンこそが、万物を支配できる大宇宙。
しかし自己とは何か、命とは何だと問いかけていくと、
自己の内側にある
我こそが小宇宙、アートマンであり
その自己(小宇宙)を超えたおおいなる存在(大宇宙)を感じ
大宇宙=小宇宙
そもそも同じ一元だと!

そう
真実の自己でありながら、
宇宙の最高原理ブラフマンなんだと気づき
それが
梵外一如こそがヴェーダンタ哲学であり
“汝はそれなり”
“それは汝なり”
このひとつであるということが
ハタヨガの根底に流れています。

二元論
世界の究極原理を
真我(プルシャ)と自性(プラクリティ)の二つとしています
万物はこの
プラクリティがプルシャに
世界を見せたいと
三つのグナ(サットヴァ・ラジャス・タマス)から
ブッティという精神的な大元になるものを
出現させそこから自我であるアハンカーラが生まれ
そこから感覚器官や運動器官が生まれていきます
これが二元論
サンキーヤ哲学です。

このプルシャとプラクリティの二つは
決して融合することはありません。

本来このプラクリティとプルシャは別であるのに、
今目の前で起きていることを
プラクリティとプルシャが一体となり
あたかも同じであると錯覚してしまうことから、
煩悩が生まれ苦しみも生まれます。

本来のプルシャは
ただ眺めている観照者であり
既に解脱していることを悟れば
もともとの二元に戻り
静かな世界になる。
その静かな世界に戻る方法がヨガだと
定義しているのが
瞑想へ向かうヨガの
ラージャヨガであり
その聖典がヨーガスートラです。

現代は
このハタヨガとラージャヨガのミックスを伝えていると
言っても過言ではありません

なので

そもそもひとつである
私と大いなる存在はひとつである
この私の感覚というヨガ



そもそもの
見る物
見られる物
二元に戻るヨガ

では

主観と客観という

伝え方となるのでしょう

これはどちらが正しいでも
古いでも
上下もなく

ただ単に

二つの哲学が流れているからこその
伝え方があっても
全くおかしくありません

だからこそ
ヨガという山を登るルートは
色々ある訳であり

そのルートが異なれば
伝え方も微妙に変わってくのです

※二元論は西洋の二元論とは異なります
今回は不二一元論の解説は外しています
ハタヨガはラージャヨガの準備段階と言われていますが
だからといって
私はどっちがどうということはないと思っています




ヨガを通じて心と体をすこやかに!自分自身の経験があなたの力になれたらと思っています。どうぞサポートいただければうれしいです!よろしくお願いします。