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鑑賞者の意図:規範的ではない美的価値

※内容について
 勘違い諸々詰め込み、隠し味に妄想をひとつまみ

事の経緯


先日友人に誘われ、
ほいほいとオンラインのワークショップに足を踏み入れた自分だが、
情報の多さにおったまげてしまった。
(誘ってくれた友人にはもちろん感謝している)

学部を卒業してから何年が経っただろうか。
久々に見た用語を理解することにまず時間がかかり、
発表を聞いても「凄いこと考えてるな~」と子供のような感想しか出ない。
質問の際も「素人質問ですが……」(本当に素人)等言えるはずもない。
ただ久々に触れてきた話であり関心があった分野であった為、散文になるが
ここに備忘録として残しておこうと思った次第である。

作者の意図・鑑賞者の意図

見出しに作者・鑑賞者を出したのはいいのだが、
ここでは作者の意図に関しては放っておこうと思う。
その理由としては、
作者の意図の考え方についてはある種の結論がついているからだ。

作者の意図、と言っても自分では二つの立場がある。
それは「非商業的な立場」「商業的立場」だ。
※言葉が強いことは重々承知しているが、そこは勘弁してほしい。
 あくまで立場を分けるならというだけだ。

この二つの中で「商業的立場」においての作者の意図だが
ある種制度主義が正しいと自分は考えている。
明確な売れ筋があり、それをなぞることによって適切な対応がなされる。
商業である以上、明確なラインがある。それは売上や認知度といった具体的なもので見ることができるいわば「明晰判明」なことだ。
ここに関して反論もあるだろうし自分自身も納得していないところもあるが、一旦の結論として置いておく。

それに対して「非商業的な立場」においての作者の意図についてだが、
これは良くも悪くも多種多様な捉え方ができるだろう。
ここでそれを書くには時間も頭を足りていない。
※自分は元々美学専攻ではない。
 倫理学専攻であり、根拠や美学の辿ってきた道筋については
 大まかなことしか知らないこともここに書いておこうと思う。

話を戻すが、作者の意図は場合分けがなされている。
その為、ここで話すつもりはないし、考慮に入れていない。
ここで話すのは立場がわけられていない……と自分では考えている
「鑑賞者の意図」について話そうと思っている。

鑑賞者の意図

鑑賞者の意図についてだが、ここでは
「何故鑑賞者はそれを鑑賞したのか」といった意味として
捉えてもらいたい。

そもそもの話、私たちは何故作品を鑑賞するのか。
その作品を鑑賞することにより、何を得ることができるのだろう。
恐らく多くの説明ができる。
美しいから、綺麗だから、自分が好きだから……
一つ一つを間違いというつもりはないし、恐らく正しい回答だ。
しかし、+の感情だけではないものも存在するだろう。
それらを突き詰めていくとただ一言に収束する。
「そこに美的価値があると思われた」からだ。

規範的美的価値≒「良い」

最初に断っておくが自分は美的価値とはなんなのか、
という説明をするつもりはない。
何故なら美的価値とはという疑問を遡っていくならば
それはある一定の水準で打ち止めとなってしまうからだ。
色々と説明することはできるだろう。
色のタッチが素晴らしい、情景描写が綺麗だ、
キャラクターが生き生きとしている……
こういったある一部分を切り取った説明は出来るだろう。
しかしその質問を延々と繰り返していくと最終的には
「その作品には美的価値があると感じられたから」
といった答えに繋がっていくだろう。
これは仕組みとしては直感であり、間違っていたら申し訳ないのだが
定言命法に似ていると自分は感じている。
「~~なら良い」ではなく「良い」
ならばこれについての説明は打ち止めだ。
何故ならばそれ以上の答え等ないのだから。

非規範的美的価値とは何なのか

じゃあもう話は終わりじゃないか、となるかもしれない。
しかしそうではない。
今まで話してきたものは何故鑑賞者が作品を鑑賞するのか、
これを突き詰めた結論の話だ。

遠回りをしてしまったが自分が考えたいのは
そもそもなぜ鑑賞者はその作品を見ようと思うのか、という動機である。

私はそこに非規範的美的価値の手がかりがあるのではないかと考える。


さて、これを考察にするにあたって一つ気を付けたい点がある。
非規範的美的価値といったはいいものの、自分としてはこの言葉が
今からの説明に適切かどうかは十分な検討をしているわけではない。

そもそも「良い」というものはなんだろうか。
その概念は+(プラス)に位置するものなのか、
-(マイナス)に位置するものなのか、
そこにも議論の余地はあるだろう。
ただここでは一旦、こう仮定しようと思う。
「規範的美的価値」とは+に位置するものである。

では、非規範的美的価値とは?
それはーにすら位置しない美的価値であると考えてもらいたい。


我々は時に作品を眺めるに際し、色々な予想をする。
例えばタイトル、前評判、作者の前歴……
もしかしかしたら、私たちは、既にこの段階で
作品を眺めるかどうかすら決めるときもあるだろう。

では、ここで仮定の話になってしまうが、
この時自分の今まで培ってきた規範的な価値観に対して
ダメージが入ってしまうだろう、という作品に対して予想を
してしまったら私たちはその作品を果たして
眺めようという気持ちになるのだろうか。

答えは「なる」だ。

自らを害する作品であることが分かっていたとしても、
人々は何かしらの期待を込めてその作品を眺めるときがある。
一つの得にもなるかも分からない作品を私たちは
何かしらの期待を持って眺めようと決める時があるのは確かだ。

では私たちは規範的美的価値の表象が見えてこない段階で、
その作品を見ようと決心するのは何故だろう。
私はここに非規範的美的価値の手がかりがあると考えているのだ。

非規範的美的価値≒経験の入手

私たちが作品を見ようと思う動機。
それは「経験の入手」であると私は考えている。

日常的に手に入れることのできない経験。
+にしろ-にしろ、私たちが生活をしている中では、
得ることが難しい経験だ。
その経験が私たちにどういった影響を与えるかは定かではない。
悪影響を及ぼす場合もきっとあるだろう。
ただ一つ確かなのはその経験は
その作品を通じてでしか得ることができないということだ。

私たちはその経験を得るために、
様々な作品を視聴する。
その結果、規範的美的価値に沿わないものもあるだろう。
「良い」ではなく、「悪い」
ありていに言えば「胸糞が悪い」
そういった感想が残るものもあるだろう。
ただそれでいて、心に残る作品もまたある。
では、果たしてこの規範的美的価値に沿わない作品は
美的価値がないものなのだろうか。
私は決してそんなことはないと私は考える。
何故なら私たちは確かにその作品でしか
得られなかったものがあるのだから。

だからこそ、私はこの時、得た経験に対し、
非規範的美的価値という言葉を用いたい。
+でも-でもない、もう一つの美的価値を定義付けたいのだ。

経験も一つの美的価値である。
それに良し悪しもなく、作品を見た際に評価基準として
もう一つの場を提供したい。
何故なら、この世全てに存在する作品は、
どこかに存在する意味というものがあるのだから。

最後に

書き始めたころはただの備忘録としてこの記事を書いていた。
変に自分の主張を入れれば情報は捻じ曲がる。
ただ万が一、
人目についた時(ついてほしい気持ちも少しはあるのだ)の為に
この記事は散文であると但し書きを書かせてもらっていた。

さて、書き終えた後読み返してみると確かに散文だ。
こんなものは頭の悪い作文のようなものであり、
恐らく数日も経てば耐えられなくなり消してしまうかもしれない。

ただ、上記に書いてしまった以上、
この下手な散文にも意味があるものと信じておきたい。

最後にこのような会に読んでくれた村山さんに感謝を。
また今度良ければ君の研究していることについてお話を聞かせて下さい。

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