はっぴぃえんど、細野松本対談。

 

      第1部 アイビー崩れのヒッピーと
      レイバン高校生の邂逅

      1.二人の最初の出逢い(細野ヴァージョ
      ン)
      2.二人の最初の出逢い(松本ヴァージョ
      ン) 
      3.ディスコでバイトしたバーンズの頃
      4.細野&松本にもあったサーフ&スノー
      (!?)時代
      5.あの頃僕らはモテなかった
      6.ソウルバーでビートの勉強

      第2部 エイプリル・フールのサイ
      ケな世界 

      第3部 はっぴい秘話

      第4部 そしてコラボレーションは
      続く

                                                                                 

      1. 二人の最初の出逢い(細野ヴァージョン)——レイバンをかけた松本はすごい高飛車だった

      ──細野さんは、野上さんの写真はご覧になってますか? 風待茶房の「野上眞宏の風街写真館 1968−1973」とか、『レコード・コレクターズ』の「はっぴいな日々」とか。

      細野 さっき読んできたばっかり。
      ──どんな気持ちがしました? はっぴいえんど前後の、昔の写真を見て。
      細野 うん。あの頃の僕たちにはイノセンスを感じるね(笑)。いや、本当に。顔つきが違うでしょう。
      ──お二人の出会いの話は、けっこういろんなところでなさっていると思うのですが、風待茶房でも、改めてその辺りからお願いしたいんですけれど……。
      細野 僕、今、ラジオ(『DAISY WORLD -HYPER BALLADE-』/J-WAVEで毎週月曜日20時からON AIR)をやってて。この間から、アマチュア時代からはっぴいえんどへ至るまでの話を——バーンズとか出てくる——ずっとしてるんですけど。聴いてないよね?
      松本 聴いてない(笑)。
      細野 よかった(笑)。松本との出会いの話をしたんですよ、自分の番組で。そうしたら、娘から「あんなこと言っていいの」って、叱られちゃった(笑)。
      ──どういうお話をしたんですか(笑)。
      細野 松本の第一印象を素直に語ったわけ。原宿の駅前にコンコルドって喫茶店があったんですよ。そこに呼び出されたんです。ね?(と松本さんを見る)
      ──松本さんが細野さんを呼び出したんですか?
      細野 そう。松本はピン・ストライプのスーツを着てやって来たの。しかも、レイバンのサングラスをかけて。
      ──かなり恐いですね(笑)。
      松本 まるでヤーさんだね(笑)。
      細野 僕が先に来てたんだ。松本は後から来たのに、すごい高飛車でね(笑)。
      松本 そうだっけ?
      細野 うん。こういう感じだったよ(と、ふんぞり返るアクションをする)。
      松本 それは初対面なんで緊張してただけだよ。ピン・ストライプも自分ではロンドン風のつもりだったんじゃない。
      ──細野さんはその頃はどういう格好を?
      細野 僕はもうね、ロング・ヘアでヒゲモジャ。単なるヒッピー。
      ──やっぱりベルボトムのジーンズですか?
      細野 いや、ベルボトム以前です。まだハンパな時代。コットン・パンツを履いたまんまヒッピーになる連中って多かったの、僕みたいに。
      ──アイビーからヒッピーへ(笑)。
      細野 そうそう。アイビー崩れのヒッピー。
      ──細野さんは立教大学ですよね?
      細野 そう、立教。
      ——立教は、『メンズ・クラブ』的に言えば、東京のアイビー・リーグ(笑)の一つ
だから。松本さんのいた慶應大学もそうだけど。

      松本 細野さん、スリムな、黒のパンツを履いてたよ。ピタッとした。
      細野 ああ、ブラック・デニムの、細いジーンズだ。ところで、あの時、なんで僕を呼び出したの? どこで僕の噂を聞いたの? それが未だに謎なんだけど。
      松本 それはたぶん、柳田アニ(注1)から聞いて。
      ──柳田アニというのは、柳田ヒロさんのお兄さんのことですか?
      細野 そう。今は実業家なんですけど。柳田アニは誰から?
      松本 小山高志(注2)。
      細野 あー。小山か。
      ──細野さんと松本さんとのファースト・コンタクトはいつの話ですか? 60年代の後半ですよね。
      細野 68年だったと思う。
      ──細野さんはおいくつでしたか?
      松本 細野さんは二十歳(はたち)、僕は18。
      細野 若い……。
      松本 僕は高校を卒業したばっかりだった。大学に入るんで、ようやく夜のバイトができるんで……。
      細野 そうだ、バイトの誘いだったんだな。
      松本 ディスコに出て稼ぎませんか、って。
      ──ディスコのハコバン(注3)ってことですか?
      松本 うん。当時はライヴ・バンドを入れたディスコがポツポツとあってさ。カドヤくんって、今も東芝(EMI)の制作にいるの?
      細野 ああ、カドヤくんね。どうなんだろう。
      松本 カドヤくんって、のちに東芝でディレクターになる男が、当時、風林火山(注
4)っていう慶應のクラブの同窓で。彼に「僕がマネージャーやるから、ディスコのハコバンで儲けよう」って誘われたんだよね。そしたら、ベースを弾いてたヤツが「僕は公認会計士になる」って辞めちゃった。バーンズはそれまでインストルメンタル・バンドだったのが、これから方向転換をして、小山をヴォーカルにして歌をやろう、って時期で。今後の活動にしても、バイトにしてもベーシストがいないと困るからどうしようって話してたら、小山が「すごい巧い人がいる」って細野さんの名前を挙げたんだよ。でもさ、コンコルドって細野さんの指定じゃなかったの? 僕、それ

    まで行ったことなかったよ。

      注1:ビートルズのコピー中心のバンド、ドクターズのリーダーの柳田優。細野さんはこのバンドでベースを弾いていた。
      注2:サイケデリック・ロック・バンド、バーンズのメンバー。松本さんはこのバンドでドラムスを叩いていた。
      注3:継続的にハコ(ディスコなど)と契約するバンド。
      注4:慶應大学のイヴェント・クラブ。コンサートの企画を仕切るなど、セミプロ級ばりの芸能プロダクション的活動していた。

      2. 二人の最初の出逢い(松本ヴァージョン)——細野さんは会うなり「髪が短かすぎる」と説教した

      ──松本さんのほうの記憶は、どういう感じなんですか?
      松本 コンコルドで会った時の、細野さんの第1声は覚えてる?
      細野 自分のことは全然覚えてない(笑)。
      松本 (笑)当時は僕、高校卒業したばっかだから、まだ髪が耳に届くぐらいだったんだ。
      細野 ああ、ハンパな長さだ。
      松本 すごく偉そうに「君、髪が短かすぎるよ」(笑)。細野さんはね、肩ぐらいまであったから。
      細野 そうだったっけ。
      ——羅生門だ、藪の中(笑)。本当はどっちが偉そうだったんでしょう。
      松本 「この人、ヤなおじさんだな」と思った(笑)。
      細野 でも、まだ二十歳だよ、二十歳。
      松本 二十歳なんだけど、もう風格がね、おじいさんみたいな感じだった。
      ──ヒゲモジャだったし(笑)。
      松本 生えてた生えてた。
      細野 逆オーディションはね、当時のバンド同士の果たし状みたいなものだったんだと思う、きっと。
      松本 でもね、僕の記憶だと、細野さんがベースを弾いてみせることになって、原宿から渋谷のヤマハまで、歩いて行ったんだ。そして、楽器売り場のベースを弾いて、(ビートルズの)「デイ・トリッパー」のイントロをやるの。ところが、どうしても途中でつっかえるんだ(笑)。3回ぐらいやって、3回ともつっかえて(笑)。僕は心の中で「この人、大丈夫かなあ……」って不安になった。
      細野 そうかな?(笑)。だいたいそんな売り場でなんか弾かせるなよ。
      松本 自分で引っ張ってったんだよ。
      細野 ああ、そうだっけ。
      松本 「ベースがあるところへ行こう」みたいな感じで。だから、その伊藤の家に行ったっていうのは、ずっと後のことだと思う。
      細野 いや、僕の記憶じゃ、無理矢理オーディションを受けさせられて、「この野郎!」と思ったっていう。
      松本 そんなことは全然ないと思う(笑)。

      3.ディスコでバイトしたバーンズの頃

      ──その頃、細野さんがやってたバンドは、ドクターズってことになるんですか?
      細野 いや、それはもういろいろあって、どれも最低バンドですね(笑)。「デイ・トリッパー」を弾いたのは、たぶんそのドクターズでビートルズのコピーを手伝わされてたからでしょう。
      ──ドクターズでは何を担当してたんですか?
      細野 ベースです。ヴォーカルが持ってたベースを借りて。
      松本 でも、その頃から「ベースの天才」と言われてたんだよ。音楽仲間で噂になってた。
      細野 もう記憶が錯綜してるんだけど、そのドクターズをやりながら、「スーパー・セッション時代」(注5)に突入して。
      松本 並行して、3つか4つ、バンドをやってたんだよね。
      細野 それで、林立夫(ドラムス)と鈴木茂(ギター)とも組んで。その辺りからベーシストとしての自覚がだんだん出てきた。
      ──なんていうバンドだったんですか?
      細野 スージー・クリームチーズっていうのとドライアイス・センセーション、同じメンバー(細野、林、鈴木)なんだけど。
      ──スージー・クリームチーズはマザーズ・オブ・インヴェンション関係のネタ(注6)ですね。細野さんがバンドの名前をつけるのが好きだとは聞いてましたが(笑)。
      それらプラス、松本さんがドラムスをやってたバーンズでもベースを弾いていた、 と。
      細野 そう。でも、僕にとってバーンズはバイト感覚なんだよ。
      松本 バイト・バンドだったし。
      ──バーンズは「燃える」っていう意味ですか?
      松本 うん。でも、ちょっとスペルをちょっと変えて。
      ──それはビートルズよろしく1字変えるみたいな。
      松本 うん。
      ──バーンズはどのへんのディスコで演奏してたんですか?
      松本 青山のコッチという店。夜の9時ぐらいから朝の4時ぐらいまでやってたのか
      な。たぶん法律的には違反してたと思う。
      細野 当時はそんな店、他にない時代じゃない?
      松本 赤坂に1軒あった。
      ──伝説のディスコ! 赤坂のムゲンとは、時代的に重なるんですか。
      松本 いや、ムゲンの後だね。赤坂のディスコにも出たけど、名前忘れちゃった。
      細野 うん。ディスコって言っても、大人が来るようなね。
      松本 今でいうクラブだね。
      ──大人の遊び人が集う?
      細野 ミュージシャンが来たり、芸能人も来たりして。
      松本 森進一が踊ってた(笑)。
      細野 白目出してね(笑)。なんか印象深いんだよ、森進一の白目が。
      ──当時のディスコの営業(笑)は、何ステージぐらいやるんですか?
      松本 4ステージから5ステージぐらい?
      細野 そんなやってたっけ。
      松本 やってたと思う。夜が明けるまでだから
      ──どの辺の曲をやってましたか?
      細野 曲は覚えてるよ、僕は。覚えてる?
      松本 うーん、「ドック・オブ・ザ・ベイ」は覚えてる。
      細野 はい、やってたね。「トライ・ア・リトル・テンダネス」もやってたね。
      松本 あんな難しい曲、よくできたね。
      細野 よくできたね(笑)。「ホールド・オン・アイム・カミング」もやってたね。
      ──(バニラ・ファッジの)「キープ・ミー・ハンギング・オン」は?
      細野 あれも難しいよ。今だったらやる気起きないよ、あんなの。
      松本 レッド・ツェッペリンも絶対途中でつまった(笑)。
      細野 それはエイプリル・フールになってからだよ。バーンズで一番やってたのは ね、ゼムの「グローリア」、それから「ブラック・イズ・ブラック」。小山が得意だったでしょう。あとはストーンズの「アンダー・マイ・サム」でしょう。僕が(カヴァーしようって)持ってきたのが「ブルー・バード」でしょう、バッファロー(・スプリングフィールド)の。モビー・グレープはまだやってないな。
      松本 できなかった(笑)。
      細野 できなかったな。ああいう感じはできなかった(笑)。
      ──バーンズは細野さんがベースで、松本さんがドラムで、小山さんという方がヴォーカルで、あとは……。
      松本 伊藤っていうのがギター。計4人。でね、結局、ディスコでバイトしてる間ね、ずっとみんなブーブー文句言ってたんだ。「なんで僕たちはこんなバカみたいなことやんなくちゃいけないんだ」って(笑)。
      ──えっ。じゃあ、お金にならなかったんですか?
      松本 儲からなかった。一晩やってギャラもらうじゃない。たぶん1人頭5,000円ぐらい。
      細野 月に5,000円じゃなかった?
      松本 月に5,000円かな。だったら1回2,000円か2,500円だね、頭で
      割ると。それで僕ら(細野、松本、伊藤)は車を持ってたんだ。だから、そのまま家に帰れたけど、小山っていうやつは車がなくて、しかも実家が浅草なのね。深夜だからタクシーじゃない。そうするといつも赤字だったみたい。
      細野 でも、気軽だったよね。別に生活苦とかはかかえてないから。

      注5:細野さんがベーシストとしてモテモテだった時代を差す。当時、ドクターズ、
      バーンズ、スージー・クリームチーズ、ドライアイス・センセーション、バーンズ、アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンド、ランプ・ポスト(大瀧詠一、中田佳彦と)と、ほぼ同時期に6バンドかけもちしていたことになる。
      注6:スージー・クリームチーズは、フランク・ザッパが66年に結成した前衛ロック・バンド、マザーズ・オブ・インヴェンションのデビュー・アルバム『フリーク・ アウト!』(67)の裏ジャケットに書いてあったフレーズ。

                                            

      4.細野&松本にもあったサーフ&スノー(!?)時代

      松本 この頃から夜中に起きてて、昼ごろ寝るっていう生活のパターンができちゃったんだよなあ。
      細野 あの頃から今に至るわけだな。んー。
      ──もう大学はあんまり行ってなかったという感じですか?
      松本 慶應はストライキしてたな。
      ──大学紛争で講義はなかった、と。
      細野 やってなかった(笑)。
      松本 いや、バーンズのときはまだやってた。ストライキするのはエイプリル・フールの頃だ。
      細野 そうだね。立教の学生運動は一番遅れてやってきたから。
      ——バーンズの活動は、結局、どれぐらい続いたんですか?
      細野 どれぐらいやってたかな。1年ぐらい?
      松本 僕が大学1年の間だったと思う。あの頃は面白かった。軽井沢のダンス・パーティ、覚えてる?
      細野 そう、毎週土曜日。その話もしたよ、僕のラジオで。
      松本 細野さんはずっと海の家を借りててさ、逗子だったかな、週末だけ軽井沢へ行ってた。
      細野 逗子と軽井沢を往復。忙しい(笑)。
      ──サーフ&スノー(by ユーミン)みたいですね(笑)。
      松本 僕はずっと軽井沢にいっぱなしで。最初は合宿所みたいなとこに泊まってて、そこを追い出されてからは、友だちの家を転々としてた。
      細野 遊び人だったね、あのころの松本はね。
      松本 やめようよ、そういう話は(笑)。
      ──相当モテたということですか(笑)。
      細野 いや、裏を探るとそうでもなかったんだけど(笑)。
      ──今でもお二人は酒をお飲みになりませんが、その頃も……。
      細野 その頃は酒もマリファナもなかったね。
      ──単純に人前で音楽をやるのが楽しい、という感じだったんですか?
      松本 自分たちで演奏すると楽しいんだよね。
      細野 そう。遊んでるだけだったね、音楽で。軽井沢の三笠ハウスって、もう今はないんだよね。
      松本 今は記念館みたいになってる。
      細野 古い、いいホテルだった。僕らがやったときは。そこのダイニングがけっこう広くて、そこを借り切って週末だけパーティをやってたんだ。このときバーンズの対バンで出てたのが、ブッダズ・ナルシストっていう高校生バンド。そこに高橋幸宏がいたの。ここで初めて知り合ったんだな、確か幸宏たちとは。
      松本 ブッタズ・ナルシストには幸宏と後にバズになる東郷昌和。もう1人、後にCCBのプロダクションの社長になったやつがいた。
      細野 あ、今ソニー・インターナショナルの……。
      松本 いや、それは別のヤツ。でも、けっこう業界に散らばって残っている。
      細野 そんな感じで1年が過ぎた。1年だけだったんだよね、あれは。
      松本 細野さんは今と違って、極めて真面目。
      細野 今でも真面目だよ(笑)。今よりイノセンスではあったけれど。
      松本 すごくストイックな人だった。問題はね、そのストイックさをね、人に押しつけるの(笑)。遊びたい盛りの18歳の少年に、年中説教するわけだから。「松本! そんないい加減な生き方をしてると、ロクな大人になれないぞ」って(笑)。
      細野 そんなこと言ったかなあ。自分の言ったことは覚えてない。その頃いた女の子たちの名前も忘れちゃった。誰がいたっけ?
      松本 うーん(笑)。
      細野 松本の最初の奥さんは僕の同級生だからね。びっくりしたなあ結婚したときは(笑)。
      ──青春ですねえ。
      細野 当時の取り巻きの女の子たちの1人に、この間会ったんだよ。名前は忘れちゃったけど(笑)。鈴木京香の事務所の女社長。
      松本 へえ、そうなんだ。
      細野 名前忘れちゃいけないな。思い出した、洋子だ。松本洋子。

      5.あの頃僕らはモテなかった

      ──野上さんが撮ったヴァレンタイン・ブルーの写真を見ると、楽屋の隅に女の人が何人かいらっしゃって、この方たちはいったい誰なんだろうって、つい考えてしまうんですが(笑)。当時のガール・フレンドだったのかなあ、なんて。
      細野 じゃあ、そうなんじゃない。そんなにモテるバンドじゃなかったから
      (笑)。女っ気、ほとんどなかったバンドだよね。
      松本 うん。そう言えばさ、あの頃、細野さんとナンパしに行こう! って街へ繰り出したことがあったよね(笑)。
      細野 松本からナンパの話はいっぱい聞いてた。「いかに自分はモテるか」というね。「チョロイもんだぜ」って。派手な世界の話をいっぱい聞かされてたんだよ、
      僕は。なにしろレイバンのサングラスかけてたしね(笑)。
      松本 ピン・ストライプのスーツ着てたし(笑)。
      細野 松本と行けば、いいことがあるんだろうと思ってね、ワクワクして、期待してね。
      松本 えっ。期待してたの、あんとき(笑)。それでね、二人で車に乗ってるじゃない。たいてい細野さんの車に乗って、細野さんが運転して、僕が助手席に座って走ってると、男からナンパされるんだよね(笑)。
      ──あ、お二人とも長髪だから(笑)。
      松本 髪の毛、2人とも背中ぐらいまで伸びてるからさ、女だと間違えて(笑)。
      細野 そんな情けない話がいっぱいあるわ(笑)。それで六本木へ行って、どういうことになったかというと、松本の指導でアマンドに入ろうということになって。アマンドに入ればいいことがあるのかと思ったら、なんにも起こらなくて、二人でハンバーグ食って……。
      松本 帰ってきたんだよね(笑)。
      細野 なんか真面目な話を二人でして帰ってきちゃった。なんだったんだよ、あれ?
      松本 なんだったでしょうね。お互い誘う相手を間違えた(笑)。
      ──当時のアマンドはおしゃれな場所だったんですか? きれいな女の子が来るような。
      松本 ううん、今と同じ。当時はそんな時間に開いてる店が、そんななかったんだよ。

      6.ソウル・バーでビートの勉強

      松本 他で開いているっていったら、僕が覚えてるのではジョージだよ。六本木の防衛庁の隣り。
      細野 ソウル・バーのジョージ。あそこはよく行ったね。
      松本 ジューク・ボックスの前の席に座って、細野さんがいろんな曲かけては、「こういうベースがいいんだ」とか「お前もこういうドラムをたたけ」って。
      細野 あの頃、インプレッションズが流行ってて。
      松本 アトランティック系のソウル。
      細野 アトランティックも流行ってた。アレサ・フランクリンとかね。もちろんモータウンも全盛期だけど。
      松本 僕らはモータウンよりもアトランティック系。
      細野 アレサ・フランクリンが多かったね。
      松本 それで僕は勉強になった。
      ──当時いくらぐらいでした、1曲? ジョージのジューク・ボックスは。この間久
      しぶりに行ったら1曲100円でした。
      細野 3曲100円ぐらいだったような気がするな。ママが本当にアレサ・フランクリンみたいなんだ、日本人なのに。後にフィリピン・バンドがいっぱいたむろするようになってからは、なんとなく行かなくなっちゃったけど。
      ──きっと当時とジューク・ボックスの選曲も含め、あまり変わってないのでは。
      細野 あ、本当? へえ。まだあのママは健在だっていうこと?
      ──バリバリです。
      松本 でも、かなりお歳でしょう。
      ──でも、相変わらずジューク・ボックスにあわせて歌ってますよ、体を揺らしながら。
      細野 それはすごいね。川勝君、インタビューして、伝記出したほうがいいよ
      (笑)。
      ──考えときます。昔は、気に入らない客には高めにお金を取った、って武勇伝も
      聞きましたけど(笑)。今は丸くなってる感じで。
      細野 あ、そうなんだ。僕たち、よく許されてたね。
      ──好かれてたんじゃないですか?
      松本 僕たち、コーヒーでずっと3時間ぐらい盛り上がってたんだよね。たまにオムライスなんか食べたっけ?
      細野 あと焼飯とか。美味しかった。
      ──ジョージっていうと、湯村輝彦さん(イラストレーターにして、甘茶ソウル愛好家)とか、四谷シモンさん(人形作家)とか、そういう方々も通っていたという話を読んだことがあるのですが、そこらへんと交流はありませんでしたか?
      細野 全然交流はなかったね。時期が違ってるのかもしれないし。独自に行ってただけだから。
      松本 僕はジョージのママのことを詞に書いたことがあるよ。南佳孝のアルバム『ラスト・ピクチャー・ショー』に入ってるんだけど、その中に「アレサによく似たママ」ってフレーズが出てくる。そういうメールももらった。みんなよく聴いているね。
      細野 でも、まだあるっていうのがすごいね。
      松本 「きっとまだあるから行ってみたら」って返事を書いておいた(笑)。
      細野 60年代からあるものって残ってないもん、他に。あとよくあと行ったのは六本木のハンバーガー・インだけど、変わっちゃったしね。
      ──80年代末にレーザー・ジューク・ボックスになりましたもんね。
      松本 テレビのドキュメンタリーで取材したことがあったんだ。ハンバーガー・インへ行って「この店も変わってないね」って言って話してた。その次の週に前を車で通ったら、改装中で工事やってたんだ(笑)。
      細野 変わる直前に行ったんだ。
      松本 呼ばれたみたい。
      細野 当時、朝までやってるところは、あそこしかなかったから、エイプリル・フールの時代まではよく行ってたけど。あの頃、六本木のヤクザからよくからかわれたよ。
      ──「髪が長い、お前女か」って。
      細野 うん。珍しかったんだ。
      松本 慶應のキャンパス歩いてて、「あいつもホントに慶應か」って嫌味言われた。
      ──じゃあ、周りは短髪、まだアイビーっぽい感じが全盛だったんですね。慶應と
か立教では

      細野 と言うか、世の中の少数派だったんだよ。

 

                                                                                  

 
      お二人目 細野晴臣さん
      新春放談 一回りした、今、イノセンスな季節をふりかえる
      写真:安珠  司会・構成:川勝正幸

      第1部 アイビー崩れのヒッピーと
      レイバン高校生の邂逅

      第2部 エイプリル・フールのサイ
      ケな世界

      1. 細野は5万円に目が眩み、就職を止め
      て、エイプリル・フールへ
      2.松本、カツラをかぶってエイプリル・
      フールのアー写を撮る
      3.エイプリル・フール、島倉千代子の前
      座をやる
      4.エイプリル・フール、アラーキーに撮
      られる
      5.渋谷とエイプリル・フール
      6.エイプリル・フール、デビュー・アル
      バム発売記念兼解散コンサート 

      第3部 はっぴい秘話

      第4部 そしてコラボレーションは
      続く

                                                                                 

      1.細野は5万円に目が眩み、就職を止めて、エイプリル・フールへ

      ──さて。ここらへんでお二人の「歴史」をザックリ整理しますと、67年、慶應高校時代に松本さんたちが結成したバーンズに、68年春、立教大生の細野さんがベースで参加。その後、約1年間、バーンズは青山のコッチというディスコや軽井沢の三笠ハウスで演奏した、と。で、それからエイプリル・フール結成になるわけですよ ね。
      松本 代々木八幡に住んでた人誰だっけ?
      細野 代々木八幡……。
      松本 あ、西参道か。野上さんの友達でさ、アサダ……ってのがいたと思うんだけど。。その人の家に細野さんと二人で遊びに行って、帰りの車の中で「松本、プロにならないか」って(笑)。
      細野 誘ったわけか。
      松本 バーンズを解散して。
      細野 その前に僕は柳田ヒロに誘われてたんだ。霞町にあったマリーズ・プレイスっていう絨毯クラブで。あそこにみんなたむろしてたから。
      ──絨毯クラブって、今厄年の僕でも話でしか聞いたことないですけど、靴脱いで上がる……。
      細野 そうそう(笑)。
      ──今の若い人には分かりにくいでしょうね。
      松本 なんであれが流行ったんだろうね、絨毯スナック、絨毯ディスコもあった。靴脱ぐとこが日本っぽいね。
      細野 マリーズ・プレイスには黒人も遊びに来てて、踊りを教えてくれてた。
      ──ベトナム戦争がまだ終わってないから、まだ米兵がよくいたわけですよね。
      細野 うん。ブガルーっていう踊りが大流行りで、それを習った覚えがある。そこにフローラルの連中もいた。
      ——その頃のフローラルは、グループ・サウンズと言っていいんですよね。
      細野 そうだね。
      ——柳田ヒロさんがキーボードで、小坂忠さんがヴォーカルだった。
      細野 でね、ヒロが給料袋を手に持ってブラブラさせて、「やんない?」って言うわ
      け。中に5万円入ってた。
      ──当時の5万円って、すごい額ですよね。
      細野 すごいよ。これはフラフラッと行っちゃうよね。
      松本 今の60万円ぐらい?
      細野 そんなにはいかない(笑)。
      ──60年代末の話ですよね。
      細野 69年ですね。
      細野 まあ、10万程度かな。
      松本 倍じゃないと思うよ。3〜4倍。
      細野 とにかく、僕は就職しそびれてる人間だからね。本当にドロップ・アウトして
      たから。
      ──細野さんは中退なさったんですか?
      細野 いや、うやむやのうちに卒業したの。
      ──でも、就職活動はせず……。
      細野 しなかったね、一切。
      松本 もう、そのときから音楽で食おうと思ってたの?
      細野 いや、やろうとは思ってなかったよ、別に。あんまり考えてなかった。
      松本 ブラブラしてたの?
      細野 なんかやるにしても音楽関係だったら、レコード会社に入んなきゃいけないか
      なあとか思ってた。
      松本 ディレクターになろうとか?それは初耳だ。
      細野 うん。友だちの、中田喜直(「雪の降る街を」の作曲者)の甥で、中田佳彦という立教の仲間がいて。彼と大瀧詠一と僕はランプ・ポストっていうバンドをやってたの。練習バンド。
      松本 演奏はしなかったの? 僕、写真見せられたことあるよ。
      細野 いや、やってない。
      松本 ステージ写真みたいのを見たような記憶が……。
      細野 ビレッジ・ゲートのオーディションは受けたんだけど、落っこちちゃった(笑)。その大瀧くんにいじめられてる(笑)。
      細野 その中田佳彦くんがキング・レコードに入社しちゃったからあせったのよ。先越されたと思って。
      松本 そのときはあせってなかったよに見えたよ。
      細野 後であせったんだよ。ジワジワーと。
      松本 内心でしょう(笑)。
      細野 だから、「就職活動しなきゃ」と思って、就職の窓口行ったらもう閉まってたの。
      松本 立教の?
      細野 うん、大学の。疎かったんだよ、その辺で、そのままエイプリル・フールに入ってダラダラッと今日に至る、と。5万円の給料袋の誘いで入ったんです、音楽の道 へ。
      松本 それで僕を誘って。
      細野 そうそう。ドラマーがいないから。

      2.松本、カツラをかぶってエイプリル・フールのアー写を撮る

      松本 僕はね、エイプリル・フールのときは、オーディションさせられてるの(笑)。
      ──細野さんに仕返しされたんですかね(笑)。
      松本 (笑)オーディションにはトラウマがあってさ。エイプリル・フールの前に、フィンガーズがプロになるときに——フィンガーズというのは風林火山に所属していたグループ・サウンズなんだけど——そのときもオーディションさせられて、それは落ちてる。幸宏のお兄さんの高橋伸幸がいたんだ。
      ──ユーミンがおっかけしてたバンドでしたっけ、フィンガーズって?
      松本 そうそう。ベースがシー・ユー・チェン、その2人しか覚えてないや。
      細野 (ギターの)成毛滋を忘れると怒られるよ。
      松本 その後、全然会ってないから。でも、伸幸は「いいんじゃないか」って僕のことを言ってたらしい。でも、成毛滋が「こんなのは使えない」って(笑)。
      細野 成毛(滋)に落とされたってこと(笑)。それは記憶をかき消したんだな。
      松本 復讐しようかな(笑)。しないけど。だからオーディション怖くてさ(笑)。
      細野 オドオドしてたよな。
      松本 「また落ちるだろうな」と思いながら受けたのを覚えてる。
      細野 それで、その頃はまだ髪の毛が短かったの(笑)。最初にアーティスト写真を撮んなきゃいけないんで、松本はカツラかぶったんだよ(笑)。
      松本 自分が言ったんじゃない、「松本、カツラかぶれ」って(笑)。もう自分のことは全部忘れるんだから。僕、しょうがないからデパート行って、「これください」ってカツラを買ったんだ。1回かぶって写真撮ったんだけど、なんか気持ち悪くて、 その後2度とかぶる気がしなかった(笑)。
      細野 オカッパみたいなやつ(笑)。
      ──それは女性用のカツラなんですか。
      松本 そうそう。だって男性用なんて売ってないし。
      ──高かったんじゃないですか、カツラ。
      松本 1万いくらでしょうね。
      細野 だって他のメンバーはすごかったんだもん。バランスが合わなかった。しかもこんなベッチンの裾幅40センチぐらいのベルボトム、履かなくちゃいけないんだよ。ステージ衣装として(笑)。
      松本 そう、ヒロがすごかったからね。
      細野 その衣装に短髪っていうのがどうしても似合わないんだよ(笑)。

      3.エイプリル・フール、島倉千代子の前座をやる

      松本 でもさ、その格好で出たのが島倉千代子ショーの前座(笑)。
      ──前座だったんですか?
      松本 長野県行ってさ、温泉場みたいなところ。事務所から仕事で前座に出ろ! って(笑)。
      細野 あれはもう、すごい印象に残ってる。すごかったわ。
      松本 行ったら、ただの講堂なんだよ、学校の。紅白の垂れ幕が周囲に張りめぐらされてて、ゴザ敷いてあって、おじいさんとかおばあさんが、おにぎり食べてて。そこにブワーッと幕が上がると、異様な風体の若者が(笑)。
      細野 すごい音だったもんね。
      ──PAとかない時代ですよね?
      細野 ないけど、アンプはけっこう大音量のアンプを使ってたからね。音、でかかった。
      松本 腰抜かしたと思うね。
      細野 腰抜かしたね。
      ──オリジナルを演奏したんですか?
      細野 いや、当時はライヴで演奏するときは全部カヴァーだったんだよね。メインはドアーズだっけ?
      松本 うん。「ウェン・ザ・ミュージックズ・オーヴァー」とか。あと、「ブレイク・オン・スルー」と「ジ・エンド」。
      細野 あとはツェッペリンもやってたね。それからアイアン・バタフライとか。スリー・ドック・ナイトやプロコム・ハルムもよくやってたよ。
      松本 プロコム・ハルム、やってたっけ? あんまり巧くいかったよね。
      細野 うん。
      松本 キーボードが一人足りなかったから。
      細野 メインの根城は新宿のパニックだったんだけど、六本木のスピードにもよく出ていた。そこへユーミンが来てたらしくて。
      ──スピードはのちにアルファ・レコードを作る川添象郎さんの経営ですね。ところで、エイプリル・フールの事務所はどういうところだったんですか?
      細野 もともと、エイプリル・フールの母体となったフローラルが、ミュージカラ −・レコードというレコード会社に所属してたの。ピクチャー・ディスクの特許を持っていたから世界的に商売してたんだけど。でも、かなりマイナーだった。特許のおかげでお金はあったみたいだけど。
      松本 横尾忠則さんのアルバムを出してたよね。
      ──一柳慧の音楽のやつ?
      松本 そうそう。横尾さんの絵がパーッと出てる。
      ──それもピクチャー・レコードでしたよね。
      細野 うん。けっこう現代音楽とつながってたり、変な会社だったね。周りには宇野亜喜良さん(イラストレーター)とかいたし。だから、フローラルの衣装なんかは宇野さんがデザインしてた。それから作曲家として村井邦彦がいた。
      松本 あ、思い出した。細野さんと入れ違いに辞めたフローラルのベースって杉山(喜一)っていう、僕の同級生なんだ。
      細野 あ、同級生だったの、彼。
      松本 うん、中学のときの。彼ともデイヴ・クラーク・ファイブのコピー・バンドを作ったことがあったんだ。だから、変な運命だよね。
      細野 なんかあるね。
      松本 広いようで世間は狭いんだね。

                                            

      4.エイプリル・フール、アラーキーに撮られる

      ──エイプリル・フールのデビュー・アルバム(1969年9月発売)のジャケット写真が荒木経惟さんというのは、どういうきっかけだったんですか?
      細野 あ、エイプリル・フールに女性マネージャーがいたんだよ。名前忘れちゃったけど(笑)。彼女が荒木さんのモデルをやってたの。まあ、要するにすごいプライヴェートな関係でさ、仲良かったの。
      松本 僕ね、引っ越し手伝いに行ったことある。その彼女の。
      細野 マサヨさん、だっけ?
      松本 確か、イクヨさん。
      細野 荒木さんは電通にまだいて。
      ──まだそんなに有名じゃない頃ですか。
      松本 まだ電通で、これから辞めようって頃。今でも鮮烈に覚えてるんだけど、すごいパワーがあって。「有名になるのは簡単だ」って言ってた。
      ──その頃からご自分で「僕は天才だ!」って言ってました?
      松本 うん、言ってた、言ってた。

      5.渋谷とエイプリール・フール

      細野 エイプリル・フールって、東京キッド・ブラザースにも出たよね。
      松本 キッドブラザースって、渋谷のマックスロード(喫茶店)の奥をずっと入っていったあたりの左側にあって、そこにはけっこう通ってたんだよ。ちょっとしたたまり場みたいになって。(小坂)忠がそこに呼ばれて、チョコチョコッと出てたんだよね。
      細野 エイプリル・フールに舞台音楽の依頼があって、キッドのプロジェクトに参 加してバッキングもやったでしょう。
      ──ロック・ミュージカル『ヘアー』の日本版の前ですか?
      松本 そう。ちょうど東さんだっけ? あの人が天井桟敷から分派して、東京キッド・ブラザーズを旗揚げして、一番パワーがあったんだよ。逆に寺山(修司)さんがちょっと頭打ちになった頃で。あの辺りも全然変わっちゃったもんね。今歩くと 別の場所みたい。
      ──渋谷のジァンジァンに出たのは……。
      松本 あれははっぴいえんどになってから。ステージで演奏もしたけど、あそこの地下にスタジオがあって、そこに通ったんだよ。吉野金次さんの……。
      細野 スタジオあったからね。
      松本 空調悪くて、吉野さんはそのせいで肺をこわしちゃったんだよね。
      細野 そうだね。あそこで山本リンダの名作が生まれたんだよ。「ウララ〜ウララ〜」ってヤツ(笑)。
      松本 本当?
      細野 そうだよ。
      松本 でも、まあ、アグネス(・チャン)とかも。
      細野 まあ、いろいろいっぱい生まれたよね、あのスタジオで。
      松本 ジュリーもね。
      ──公園通りの山手教会の地下のスタジオですか。今もあるんでしょうか?
      松本 スタジオは分かないけど。ジァンジァン自体はやってるよね。
      細野 でも、閉鎖するんでしょう?
      松本 そうかな。あれも今のクラブの元祖みたいなところだよね。

      6.エイプリル・フール、デビュー・アルバム発売記念兼解散コンサート

      松本 ようやく話がエイプリル・フールまでいったな(笑)。
      細野 うん。エイプリル・フールも1年だよね、持ったの。2年ぐらい?
      松本 3カ月ぐらい(笑)。
      ──そんなに短いんですか。
      細野 そうだっけ?
      松本 (1969年)4月1日に結成して。
      ——それでエイプリル・フールなんですか(笑)。
      松本 命名は細野さんだけど(笑)。たぶん4月にアルバムを録音して、レコードが発売されるのは9月で。だけど、もう7月ぐらいから細野さんと柳田ヒロの間が犬猿の仲になって。「松本、あいつ(ヒロ)の顔は見たくない」とか(笑)、言ってた。だから、あとは消化期間。9月に「発売記念ライヴ」があったけど、それが「解散コンサート」になって(笑)。それでコロムビアでディレクターしてた高久(光雄)さん(現・キティの社長)が……。
      細野 白髪になっちゃって。
      ──一瞬にしてですか。まだお若いですよね、高久さん、その頃は。
      松本 総白髪になったんだよ。

 
      お二人目 細野晴臣さん
      新春放談 一回りした、今、イノセンスな季節をふりかえる
      写真:安珠  司会・構成:川勝正幸

      第1部 アイビー崩れのヒッピーと
      レイバン高校生の邂逅

      第2部 エイプリル・フールのサイ
      ケな世界 

      第3部 はっぴい秘話

      1.疲れの反動から生まれたはっぴいえん
      ど
      2.細野さんは発見の名人だった
      3.はっぴいえんどの大きな心残り
      4.中津川フォーク・ジャンボリーとはっ
      ぴいえんどと佐野史郎
      5.細野さんの密かな愉しみ
      6.ロスで起こった奇跡、または、松本が
      スティックを捨てるきっかけ

      第4部 そしてコラボレーションは
      続く

                                                                                 

      1.疲れの反動から生まれたはっぴいえんど

      ——1969年9月にエイプリル・フールが解散して、ようやくヴァレンタイン・ブルー(1969年9月結成)、そして、はっぴいえんど(1970年2−3月改名)になるわけですね。
      細野 うん、そうだね。エイプリル・フールやって、その反動でできちゃったもんだね、はっぴいえんどは。もう疲れちゃって。
      松本 ハード・ロックに疲れてたね(笑)。
      細野 ハコバンにも疲れてた。演奏能力はかなり鍛えられてたけどね。一気にヴァレンタイン・ブルーで転落したね、演奏能力が。
      松本 誰のせい……?(笑) (鈴木)茂も巧かったから(笑)。まあ、いいや。(笑)
      細野 最初は小坂忠がヴォーカルをやる予定だったんだよな。そこの別れ目が大きかったね。ところが、『ヘアー』のオーディションに忠が受けて、合格しちゃったんだ。実は僕が一緒に行って、ギターの伴奏をしたんだけど。
      松本 あれはけっこうショック受けたよね、細野さん。
      細野 うん。
      松本 すごい落ち込んでた。「忠に裏切られた」って。でもさ、だったら一緒にオーディションについて行って、ギターの伴奏してあげることないのにって、僕は内心思ってた(笑)。その時はなんにも言わなかったけど。「ああ、そう」って聞いただけだった。
      細野 僕ってやることに一貫性がないんだよね。
      松本 でもね、そこがいいところだよね、きっと。計算なんか全然してないという
      (笑)。けっこう行き当たりばったりな生き方をしてる。そういうところが僕は好きだったんだけど。
      細野 だから僕と松本の2人だけだったんだよ、エイプリル・フールから残ったのが。でもなんかやる気だけはあった。しょっちゅうレコードは聴いていたでしょう。松本んちとか僕んちで。
      松本 あの頃はね、昼頃、目が覚めると逢って、それこそ寝るまで一緒にいたね。毎日、毎日、話すことがなくなるまで話をしてた。もう洗脳されっぱなしですよ。「あれはダメ」「これはダメ」「ナンパしにいくのダメ」「お酒飲むのダメ」(笑)。
      細野 そんなことないだろう(笑)。
      松本 「こういうドラムをたたけ」(笑)。
      細野 そこまでは……コントロールしてる覚えないけど。
      松本 僕はまだね、少しは羽目はずしてたんだけど、(鈴木)茂は一番若かったから、もう全然羽目はずせなくて(笑)。
      ──茂さんは松本さんよりさらに若いですよね。
      松本 うん、僕より2つ若いから。茂とか不満に思ってたらしい。「はっぴいえんど 時代は灰色の青春だった」って。「僕の青春を返せ!」って(笑)。

      2. 細野さんは発見の名人だった

      ──はなからエイプリル・フールの反動で、はっぴいえんどは日本語の詞で、という風に決まってたんですか?
      松本 最初はバッファロー(・スプリングフィールド)みたいな感じって、細野さんが言ってたんだよね。
      細野 もう、(オーディエンスが)踊んなくていいと思ってたんだよ。
      松本 バッファーやモビー・グレープみたいな、カリフォルニアの新しい、先進的なバンドを目差す。
      細野 本当に時代の変わり目だったんだよ、そういう意味では。今思ってもやっぱりそうなの。バッファローとかモビー・グレープはあの時代のキーになってるから、未だに。
      松本 でも、本当にすごいなあと思う。そういう面白いものを、細野さんはなんか見つけてくるんだよね。ザ・バンドを見つけてきたのも、アルバムがまだ出てない、シングル盤だけのときで、A面が「ザ・ウェイト」で、B面が「アイ・シャル・ビー・リリースト」。細野さんは「B面がいいんだ」って言ってさ、それを聴かされて。で、本当にいいわけ。そういうのをどこから探してくるんだろうね(笑)。当時はそんなに外人の友達とかいないし、とにかく情報源はすごく限られてる時代じゃないその天才だよね、探し物の(笑)。
      細野 職、まちがえたかな(笑)。
      ──今だったらバイヤーですね(笑)。その頃、輸入盤屋といっても、そんなにない
      ですよね。ヤマハとか、新宿レコードぐらいですか?
      細野 うん。あとは新宿の裏道に中古屋さんがあって、そこにヘンテコリンな輸入盤が入ってたり。
      ──FENとかは?
      細野 FENはけっこう貴重な情報源。バッファロー・スプリングフィールドを知ったのはFENです。アルバムを特集してて、なんの気なしに聴いてただけだけど。バッファローも地味だったから、僕も1回聴いてもよく分からなかった。でも、妙に耳に残ってて、FENで聴いたあと。
      松本 今のオタクみたいに、こまめにメモしたりとか、そういうのじゃないし。海外の雑誌を最初から最後までシラミつぶしに読んだりしてるわけではない。
      細野 そういうことはしなかったよなあ。
      松本 そういう努力らしいことを全然しないのに、ある日突然、見つけてくるんだ。
      ──「松本、これを聴け!」と(笑)。
      松本 そう。「これがいいんだ」って。あと、当時って、ロック・ファンはロックしか聴かないとか、頭ガチガチじゃない。それが、ある日、細野さんが「くれないホテル」っていう西田佐知子の歌謡曲のドーナッツ盤を持ってきて「松本、この曲がいいんだ」って言った(笑)。「なにがいいの?」って聞いたら、「作・編曲の筒美京平というのは、才能があるんだ」って(笑)。あれいくつぐらい? はっぴいえんどの
      前だよね。
      細野 前だね。21ぐらいだろうな。
      松本 僕もそれ(「くれないホテル」)を聴いたら、わりといいんで、筒美京平という名前が脳にインプットされた。で、その人と後になって仕事をするようになるんだから運命って面白いよね。

      3. はっぴいえんどの大きな心残り

      松本 はっぴいえんどでさ、ひとつ、大きな心残りがあるんだ。バッファロー・スプリングフィールドみたいな曲を、細野さんがこしらえたの。それに僕が詞をつけたのかな、もしくは、僕がつくった詞に……たぶん詞があの頃って先だったから。とにかく、すごくいい曲ができたんだ。「めざめ」(注7)っていう。それを新宿御苑スタジオで、たぶんデビュー・アルバム(『はっぴいえんど』70年発売)のレコーディングのためのデモ・テープ録りだったんだよね。それを録ったら、小倉栄司(後の音楽評論家、小倉エージ)がね、「この曲は地味で良くない」って言った。それで細野さんがすごいショックを受けちゃって、その後、ファースト・アルバムで2〜3歩引いたんだよね。
      細野 ああ、自信がなくなってしまったんだよね。
      松本 「風をあつめて」(セカンド・アルバム『風街ろまん』71年発売に収録)を作るまで、けっこう引きっぱなしになって、バンド内のバランスで大瀧詠一色が濃くなったんだよね。あのエージの一言がなければ、もっと全然違うバンドになってたと思うんだ、はっぴいえんどは。
      細野 いや、あれが良かったんだよ、あれで。あそこで自信がなくなったのが今に響いてる。
      松本 ぼくは横で聴いてて、余計なこと言うなと思ってた。
      細野 僕にはそれが良かったんだよ。あのときのデモ、残ってるのかなあ。
      ──ないんですかね。すごく聴きたい。
      細野 あの頃ね、覚えてるのはモビー・グレープの「ヘイ・グランマ」かなんかやったのかな? コピーをやったの、小倉エージのために。バッファローのコピーもやったんだよ、確か。コピーはすごい巧かったんだよね。小倉エージがそれで騒いでたのは覚えてる。
      松本 コピーはね、巧かったよ(笑)。
      細野 巧かったね。「それ(巧いコピー)を聴いて安心した」とか言ってるんだよ、小倉エージ。
      ──小倉さんはURCの社員だったんですか?
      細野 そうそう。ディレクターだった。
      松本 社員というか、契約社員風だったような気がする。
      細野 コピーに比べるとオリジナルがね、その頃はまだ貧困だった。習作の時代だっ
      たんだよ。
      ──テープが残ってたらなあ。
      細野 うん。残ってるかなあ。
      ──持ってるとすれば、小倉さんなんですかね?
      細野 う−ん、どうかな。その辺ちょっと追及してみようかな。
      ──はっぴいえんどの、なんとか何十周年記念とか、アニバーサリーで、そういうデモ・テープやコピーのセッションをリリースして欲しいですね。
      松本 新録して発表すれば? 細野さんの次のアルバムに入れれば(笑)。あれ(「めざめ」)は名曲だと思うよ。
      細野 覚えてないんだよ、全然(笑)。

      注7:「めざめ」の詩のほうは、松本隆著『風のくわるてつと』(新潮文庫)に収録
      されている。

      4.中津川フォーク・ジャンボリーとはっぴいえんどと佐野史郎

      ──はっぴいえんどもそんなに長く続いたわけじゃないですよね、よく考えれば。
      松本 うん、3年。記録的には4年かな。解散前の1年は、名前だけだから。
      ──中津川フォーク・ジャンボリーに出たのは、わりと早めなんですよね。
      松本 2回目、3回目。
      ──"ゆでめん"(ファースト・アルバムの通称)の後でしたっけ? 『風街ろまん』前と言いますか。
      松本 それは2回目。あれはうまくいったんだよね。3回目はメイン・ステージの出番直前に暴動が起きて。
      ──佐野史郎さんが観てたのは2回目なんでしょうか。
      松本 よく分かんないんだよ。
      ──カフェのお客さまの三人目が佐野さんなので。
      松本 細野さんの次が佐野史郎さん。その時に聞いてみよう。
      細野 そうなの。あの人もバンドやってるって。
      松本 細野さんと会ったことあるって、メールに書いてあったよ。
      細野 そう。メールも1回もらったことある。返事書いてないから、よろしくとお伝えください(笑)。

      5.細野さんの密かな愉しみ

      松本 今回、もう1つだけ、はっぴいえんどの想い出で僕が話しておきたいことがあって。はっぴいえんどをやってるときに、新幹線の車中で、僕は「はっぴいえんどでこれからこういうことをやりたい」とか、「あんな詞を書きたい」とか考えていた。そしたら、横で細野さんがなんか英語を一生懸命ノートにびっしり書いてたから、「細野さん、なに書いてるんですか?」って聞いたの。そしたら、「次のバンドの名前考えてる」って(笑)。それ以来、もうこの人について行くのはやめようと思ったんだ(笑)。
      細野 信じらんないね、そのときの僕(笑)。今、そんなこととてもできない。
      松本 けっこう細野さんって個人主義だよね。自分のことしか考えてない(笑)。
      細野 本気だったのかなあ。
      松本 本気、本気。細野さんがバンドの名前を考えるのが趣味だってことは知って
      たけど、やっぱりそれ全部作る気なのかなって、不安になるじゃない(笑)。あの頃って、やっぱりちょっと気が狂ってたよね、みんな。『風街ろまん』を作ったと
きとか。

      細野 意識的になにかを思索してたわけじゃないんだよ。そのときの周りの空気がグワーッと盛り上がってたから。

      松本 あとで聞いた話だけど、当時、吉田拓郎が同じ楽屋いるはっぴいえんどが怖くて、「お前たちには話しかけられなかった」って。4人集まったときのオーラがすごかったらしい。自分でも『風街ろまん』を完成させてからは、「これ以上書くことないや」って気持ちがすごく強かったし。
      細野 ホント。そういう意味ではなんの策略もなかったよね、僕たち。そういうのをイノセンスって言うんだよ。

      6.ロスで起こった奇跡、または、松本がスティックを捨てるきっかけ

      ──"風街"で燃え尽きた感があって、サード・アルバム『HAPPY END』(73年発売)はロスアンジェルスにレコーディングへ行こう! っていう話になったんですか。
      細野 あれは、よく考えてみたら誘われたんだよね。「行かないか」って。大瀧くんのソロ(『大瀧詠一』72年発売)が1枚出てたんだよ、確か。その後、三浦(光紀)さん(ベルウッド時代のプロデューサー)の工作で、大瀧くんのソロ目的だったものを、はっぴいえんどのロス録音に切り替えたんじゃなかったかな。
      松本 まあ、オマケで行ったようなもんだね。僕はたぶん反対したと思う。
      細野 かなり僕以上に冷めてたんだよね、そのときは。
      松本 とにかく精神がピュアだったんだね。『風街ろまん』で燃え尽きたんだ、1 回。それで書きたいことがなくなっちゃった。今すぐあれ以上のものを書けって言われてもできない。詩を見ると今より、本当にピュアな時代の詩だから。
      ──それで3枚目は細野さんもセルフで「風来坊」とか、詩をお書きになる。
      松本 いや、「全員自分で詩を書いてくれ」って、僕が頼んだんだ。細野さんは自分でつくったし。茂はまあできそうもないから、「茂の分は書く」って言った。大 瀧さんも自分で書くはずだったんだけど、ソロを作った直後で思いつかないから、「やっぱり作ってくれ」ってね、アメリカに着いてから言われた。だから、本当に3枚目はいい加減。でも、「3枚目は松本色が少ないから、一番いい」って言う人もいるみたい(笑)。そういう変わった意見もあるよ。「松本隆のつげ義春的な世界が鼻について、はっぴいえんどは好きになれなかったけど」って。
      細野 そういう人もいるんだね。
      松本 「細野晴臣もやっと松本隆の呪縛から逃れた」(笑)なんて。
      細野 僕は、3枚目はレコードの中身よりも、環境のほうが大きな意味を持っていたと思う。だってヴァン・ダイク・パークスとローウェル・ジョージ(リトル・フィートのリーダー兼リード・ギタリスト)に、偶然出会っちゃったんだから。突然スタジオへ来たんだから。
      ──「さよならアメリカさよならニッポン」のヴァン・ダイク・パークスやリトル・フィートとのコラボレーションは、東京からオファーしたものじゃなかったんですか!?
      松本 全然。もう、ロスでコーディネイトを頼んだ人の友人関係だよね。
      細野 「日本からヘンなのが来た」っていう噂を聞きつけて、ヴァン・ダイク・パークスたちがやって来たんだよ。
      松本 ローウェル・ジョージはギターを持ってきちゃったんだよね。
      細野 茂のソロを見てね、「すんごい!」とか驚いてたね(笑)。「さよならアメリカ〜」のギター・フレーズんとこ。
      ──その頃はもうヴァン・ダイク・パークスは当然お聴きになって……。
      細野 いやり興味を持てなかった。
      ──『ディスカバー・アメリカ』は出てない頃だったんですか?
      松本 出てる。
      ——確かに。72年リリースですからね。
      細野 出てたんだけど、聴いてなかった。
      松本 日本に帰ってからだよね。こいつはすごい! って。
      細野 『ディスカバー・アメリカ』の紹介のされ方が、当時の日本の音楽雑誌だとレゲエって書いてあったの。
      ──カリプソじゃなく、レゲエだと。
      細野 そんな情報しかなかった。
      松本 でも、「さよならアメリカさよならニッポン」ってすごかったね。
      細野 すごかったよ。やっぱりあれをつくりに行ったようなもんだね。
      松本 急に音から作り出したのね。単純な繰り返しで詞を考えてくれって言われて、現場で、卓の前で2〜3分考えて、閃いたのが「さよならアメリカさよならニッポン」だった。
      細野 あのころの心情、僕も「さよならアメリカさよならニッポン」だったんだよね。打ち合わせしてないで、そういう詞ができてきたんだよね。
      松本 詩っていっても繰り返しだけだけど。コピーライターみたいなものだよ。自分のあのときの気持ちを言葉にした。
      細野 僕もそう思ってた。
      松本 後の生き方を決定したような気がする。アメリカ至上主義があそこで終わってる。今にして思うとね、正しかった。
      細野 それから、あのとき初めてね、音楽の立体的なつくり方というのを知った。それまでの『風街ろまん』も、絵巻物みたいなものだって思った。二次元の世界だよね。ヴァン・ダイク・パークスによって、初めて立体透視図のような音楽の存在
を見た。その影響力はすごかったね。メンバーみんなに、大きなものを与えたね。

      ──スタジオもすごかったんですか。それとも、やっぱりヴァン・ダイク・パークスの才能自体が……。
      細野 ヴァン・ダイク・パークスがすごかったね。その後に、ちょうどリトル・フィートの『ディキシー・チキン』のレコーディング現場を見に行ったんだよね。行ったよね?
      松本 「テイク16」とか言って(笑)。
      細野 ちょうど「トゥー・トレインズ(TWO TRAINS)」っていう名作をやってたん だ。その現場にいたんだよな。今聞いてもすげえ曲なんだけど。
      松本 テイク15、16、17ぐらいを聴いた。
      細野 ちょうどできあがりで、「これでOK!」っていうときにいたんだよ。メン バーたちが興奮して、ハイになってて、我々のことなんか全然目に入らないわけ。
      松本 17回録っても、全然疲れてなくて。ものすごくハードで長いレコーディン
グなんだよ。

      細野 あれにはやられたわ。
      松本 それでさ、フィジカル面じゃ日本人は全然ダメだと思ってさ。今の日本のサッカーみたいなもんなんだよ。
      細野 いかに違うかね。
      松本 全然疲労度が違うんだよ。あれがドラム辞めるきっかけだね(笑)。
      ──そうですか(笑)。
      松本 「もうやってらんない」とか思って。
      細野 すごい強烈な印象だったね、あれは。

                                                                                  

 
      お二人目 細野晴臣さん
      新春放談 一回りした、今、イノセンスな季節をふりかえる
      写真:安珠  司会・構成:川勝正幸

      第1部 アイビー崩れのヒッピーと
      レイバン高校生の邂逅

      第2部 エイプリル・フールのサイ
      ケな世界 

      第3部 はっぴい秘話 

      第4部 そしてコラボレーションは
      続く

      1. イモ欽トリオに始まる、細野&松本コ
      ンビの歌謡界参入
      2.細野、「風をあつめて」で低音の魅力
      に開眼
      3.思い入れが深かった裕木奈江仕事
      4.悪夢のようなスターボ
      5.巨大ならせん階段を一回りした今

                                                                                 

      1.イモ欽トリオに始まる、細野&松本コンビの歌謡界参入

      ──1973年9月21日のはっぴいえんど解散後、細野さんと松本さんはしばらくご一緒に仕事をしなくなるわけですが。「作曲:細野&作詞:松本」のコンビで歌謡曲を作るようになったのは、なにがきっかけになるんですかね?
      松本 しばらく会わない時期があって、でも、まあ、年に1回ぐらいは会ってたけど。
      ──松本さんははっぴいえんど解散後は、岡林信康さん(『金色のライオン』)や南 佳孝さん(『摩天楼のヒロイン』)などのプロデュースをなさいますよね。
      松本 プロデュースを何枚かやって、その後作詞家になった。
      ──細野さんはソロ活動と平行して、キャラメル・ママ→ティン・パン・アレーという演奏集団を率いる。
      細野 そうですね。
      松本 作詞・作曲コンビのきっかけはなんだろう。細野さんがYMO始める前に会ったんだ。「最近なにやってる?」って聞いたら、「インベーダー・ゲームみたいな音楽をつくってる」とか言って、その後、YMOがバーンと売れて。その頃から、作曲家をだんだん自分で指定できるぐらいになってたから、「細野さんとまたやりたいな」と思って、「なにかいいのないかな」ってずっと考えてた。そしたら、イモ欽トリオがきた(笑)、「これは面白いかもしれない」と思って。「これだったら細野さんが乗って作ってくれるんじゃないかな」と。当時の欽ちゃん(萩本欽一)ってすごいパワーのときだよね。
      細野 一番ピークの頃。
      松本 あれは本当に面白かったよね。
      細野 中原理恵(欽ちゃんのテレビ番組でコメディエンヌを演じた)も面白かったしね。
      松本 それで細野さんに頼んで、(ホテル・)オークラかなんか隣合わせに2部屋とって、1つに細野さんが入って1つに僕が入って、で本当は詞・曲そこで作るはずだったんだけど、詞だけできたんだよ(笑)。
      細野 ホテルに缶詰になって曲ができたことないもん(笑)。
      松本 これがミリオン・セラーになった。当時のミリオンて今の300万枚ぐらいの価値があるから。大ヒットだった。
      ──松田聖子のときは、もうディレクターの方からお2人でって指名があったんですか?。
      松本 うん、若松さんていうおもしろい人がいて。時々ポイントをついたことを言うんだ。普段は『釣りバカ日誌』の課長みたいな感じなんだけど(笑)。なにが良かったかなあ、細野さんとやった聖子では。「天国のキッス」、あれは良かったね。あと最近評判いいのが、「ピンクのモーツァルト」。
      ──やっぱり、はっぴいえんど以来の伝統で、詩先ですか?
      松本 基本的にはそう。
      細野 詩が先行っていうのは、松本との仕事のパターンになったね。
      松本 一度さ、細野さんから「いつも詩が先にあると、似たような曲しか作れないから、今度は曲先でやりたい」って言われたんで、「いいよ、別に」って言ったんだ。そしたら、スタジオから電話かかってきて、「やっぱり詩が先にできてないと……」って(笑)。「今すぐ持ってこい」だって。すぐ書けるわけないのに。で、行ったらさ、スタジオにとじこもって、細野さんがバスドラとベースとドンカマ入れてて、曲を作ってるふりしてるわけ(笑)。しょうがないんでスタジオの廊下のソファーで詞を作ってたら、僕らの正面のスタジオが郷ひろみでさ。郷ひろみと周防さん(バーニング・プロダクションの社長)がウロウロしてる(笑)。
      ──濃い環境ですね(笑)。
      松本 詩をつくるには最高の環境だよね(笑)。
      細野 曲はスタジオでよく作ったよね。
      松本 でも、廊下で書いたにしては名曲だよね、「ガラスの林檎」。
      ──聴いてるほうは誰も廊下で書いてるとは思ってません(笑)。

      2.細野、「風をあつめて」で低音の魅力に開眼

      松本 あれもそうだったよね、「風をあつめて」。「これはほとんど自分でやるけど、松本だけちょっと手伝ってくれ」って細野さんが言って。生ギターとドラムだけだったんだよ、最初は。生ギターとドラムって全然合わないじゃない(笑)。「ヘンなことさせられるなあ」とか思いながら叩いた覚えががある。その後は細野さんが全部自分で完成させた。この「風をあつめて」も、すごい紆余曲折があったよね。最初 の僕の詩と全然違う詩なんだ。
      細野 そうだっけ?
      松本 最初は永島慎二風の「風をあつめて」だったの。なんかに残ってるかもしれないけど、それに大瀧さんが曲をつけたら、いかにもフォークフォークしてて、評判があんまり良くなかったんで、ファースト・アルバムでは見送って。あの頃って詩が飛び散っててさ、自分でちょっとやってできないと細野さんや大瀧さんが詩を勝手に交換したりしてて。ある日、細野さんが「あれに曲をつけたんだ」と言ったから、曲を聴いたんだ。「こういう曲だったら詩を直したい」って僕が言って、あの詩になった。それで「やっとできた!」と思ってたら、レコーディング直前に「やっぱり違う曲にしよう」って、細野さんが、また作り変えていたんだ(笑)。
      細野 あ、そうだったけ? 元の曲はどんなだったんだろう。
      松本 だから、「風をあつめて」だけで3〜4ヴァージョンぐらいあるんだよね。
      ──最初、ドラムと生ギターだけで録ってから……。
      松本 そのテイクに、いろんな楽器を多重録音して、今のヴァージョン(『風街ろまん』に収録)になった。「これから録音する」って言うのに、「まだ曲ができてない」って言ってさ、細野さんが廊下に膝をこうやって(体育座りのように)抱えて座って、壁によっかかってるんだけど、その姿が可愛いんだよね(笑)。で、「こういうのどう?」って聴かせてくれるわけ。「いいじゃん、これ。すごいいいよ」って言って、それで録音したんだよ。
      細野 確か直前までできてなかったよね。
      松本 あれは最初に聴いたときに「これは名曲だな」って思った。
      細野 メロディもね、歌入れしながらつくってたような。部分部分で録ってたから(ミキサーの)吉野(金次)さんが苦労してた。
      松本 あれ(「風をあつめて」)はすごいよね。あの辺から細野さんが細野さんらしくなった。
      細野 歌えるようになったんだよ、自分の声で。それまでスティーブン・スティルスとかああいう歌い方が好きだったんだけどさ、できないからさ。
      松本 高いからね。
      細野 一番好きなのは、なにしろビーチ・ボーイズだったんだから(笑)。声が出るわけがない。
      松本 (山下)達郎から声帯だけもらってくるとか(笑)。
      細野 もし歌がうまかったら、今ごろ違う人間になってたね。だからジェームス・テーラーとか、ああいう人たちが、低い声の人たちが出てきたおかげだよ。「こういう歌い方でできるんだ」って。それがなかったら、たぶん未だに歌ってないね。
      松本 あれで細野さんのモヤモヤがふっ切れたよね、「風をあつめて」やって。
      細野 そうだね。

      3.思い入れが深かった裕木奈江仕事

      松本 でもさ、細野さんが聖子なんかに書いてる曲を聴くと、本当にメロディ・メーカーじゃない。
      細野 人に書くときは歌わなくていいからね。はっぴいえんどだったら、自分で歌わないといけないから。そのギャップは未だにあるよ。インストが好きなのも、そのせいかもしれない。やっぱり歌の巧い人に歌ってもらえるときって、違う風に脳が働くじゃない、作曲の。
      松本 いいよね、その話。これは作詞家時代になって思ったことなんだけど、「筒美京平を越えられる人と言えば、細野晴臣しかいないだろうな」って。そういう感じが今もしてる。
      細野 とにかく松本がいなかったら、歌謡界には全然僕は縁がなかったよ。松本との接点でやってただけだから。
      松本 NHKでさ、視聴者が選ぶ……要するに視聴者の人気投票があってさ。童謡部門の1位が「風の谷のナウシカ」。
      細野 童謡なんだ、あれ。テニス・プレーヤーが試合の前に聴く音楽っていうのが、松田聖子の「天国のキッス」だって。
      ──集中するためにですか? 
      松本 すごいよね、なんか。
      細野 今は本当にやってないや、歌謡界の仕事。歌謡界自体がもう崩壊してるし。
      松本 いや、同じだって。
      細野 そうかもね。同じなんだな。形が変わっただけか。
      松本 形が変わっただけで。
      細野 バンドっぽくなっただけで。
      松本 今売れてるバンドってほとんど古い芸能プロダクション系なんだ。結局、ニュー・ミュージック系のプロダクションが、もうほとんどつぶれかけてる。崩壊状態。だから、商品のパッケージが変わってるだけ。
      ──ここに細野さんと松本さんがコンビで作った楽曲のリストがあるのですが……。
      松本 何曲ぐらいあったんだっけ? 40何曲?
      細野 覚えてねえなあ。こんな曲あったっけ(笑)。
      松本 僕も覚えてない(笑)。
      細野 これ全然知らない、「夢色グライダー」。
      松本 アルバム1枚、僕がプロデュースした。シングルは覚えてるでしょう。
      細野 シングルは覚えてる。
      細野 当時、僕が歌謡界の仕事をやった流れで行くと、八木さおりが最後だったんだよ。
      松本 そうか。
      細野 その後、ポンポンと裕木奈江とかやったけど。
      松本 そのへんで第何期か分からないけど、二人の仕事を1回しめようみたいな話に
なった。裕木奈江は、最初、細野さんがいいって言ったんだよ。

      安珠(唐突に口を挟む) そうだよ。細野さん、「好みだ」って言ってた。松ちゃんも言ってたもん(笑)。「安珠、撮ってみなよ」とか言ってたもん。
      松本 僕はどっちかと言うと細野さんの後追いだった(笑)。
      安珠 でも、彼女、事務所変わって、もう一度出直すって言ってたよ。
      松本 でも、裕木奈江のアルバム『水の精』が、また幻の名盤と言われてる。
      細野 幻の名盤ばっかりやってる(笑)。
      松本 幻の名盤メーカー(笑)。
      細野 確かに僕は好きだよ、このアルバム。「青空挽歌」とかね、最近のものでは好き。
      松本 だって、これが売れないから、僕、ショックで1年ぐらいなんにも詩を書けない時期があった。細野さんの「めざめ」がボツになったときと似ている。けっこうこれは売れると思ってたんだよね。自信あったんだけど、まったくスカだったから。
      細野 裕木奈江いじめと重なってたし。そういう時代の風潮があったんだよ。
      松本 バッシングの裏も大体分かったからね、今は。言わないけど。
      細野 教えて。
      松本 ここだけの話だよ(以下、割愛)。

      4.悪夢のようなスターボー

      松本 「しらけちまうぜ」(元は小坂忠のアルバム『ほうろう』のために作られた)ってさ、ジャニーズ系のスタンダードになってるの知ってる?

      細野 そうなの?
      松本 そうだよ。たのきんとか少年隊とかみんな歌ってるよ。
      細野 歌ってるんだ。
      ──オザケンより早かったんですか、カヴァー。
      松本 もう全然。レコーディングはしてないと思うけど、ライヴとかではけっこう古くから、ジャニーズ系はやってたよ。
      ──細野・松本コンビの特徴ってなんなんでしょうね。
      松本 当たるときはすごい売れるんだけど、ハズれるとかすりもしない。これがこのコンビの持ち味だよね。
      ──スターボーってすごいですよね。
      細野 このコケ方が。
      松本 これも壮絶だったよね。
      細野 印象に残るわ。
      松本 これ松本オタクの必須アイテムだよね(笑)。キーワード。
      細野 一番変わってたよ。プロモ・ヴィデオをテレビで流したじゃない。それを観た人たちが悪夢のようだと(笑)。「オレたちは〜」とか言ってるんだから、女の子たちが。
      松本 幸いなことに観たことない(笑)。

      5.巨大ならせん階段を一回りした今

      細野 またね、歌謡曲やりましょう(笑)、一緒に。今、戻ってきてるから、頭が。一回りして。
      松本 戻ってきてる?
      ——細野さんのセルフ・カヴァー集の話はどうなっているんですか? 森高千里さんの『今年の夏はモア・ベター』で、彼女と「東京ラッシュ」と「風来坊」をデュエットなさってましたが。
      細野 セルフ・カヴァーもやってみたいなと思ってる。
      ──まだ具体的には...。
      細野 新譜をまず作らなきゃいけないのがあるから。それは次の年かな。
      ──新作が2000年で、2001年がセルフ・カヴァー集ですか。
      細野 そうそう。松本は、今はなに?
      松本 キンキ(・キッズ)。
      細野 (山下)達郎とやってるの?
      松本 ううん、今度のは両A面で1曲(「HAPPY HAPPY GREETING」)は作曲が達郎で、1曲(「シンデレラ・クリスマス」)は若い人。達郎のはね、けっこういいような気がするな。ちょっと「さよならアメリカさよならニッポン」みたいな。
      細野 意外だね。
      松本 すごい注文でさ、「すべてのグリーティングの日に歌える歌を作ってくれ」と、ジャニー喜多川さん直々に注文があって、最初「そんなの不可能だよ」と思った。クリスマスはクリスマス、ヴァレンタインはヴァレンタインって、1個ずつはこしらえられるけど、1曲で全部に対応っていうのは不可能だと思った。でも、できちゃったんだよ。
      細野 できたんだ!
      松本 そのときは一晩ぐらい天才とか思ってた(笑)。
      細野 大瀧くんから作曲の依頼があったよ、この間。
      松本 なんの?
      細野 女の子の。テレビ・ドラマが始まるらしいんだ。それの主題曲かどうか分からないけど。アルバム作るんで1曲提供したの。「『夏なんです』みたいな曲を作ってくれ」って(笑)。
      松本 人のこと言えないけど。なんか1周……。
      細野 ああ、してるよ、確かに。
      松本 遙か巨大ならせん階段だね。
      細野 確かにそうだね。
      松本 でもなんか、はっぴいえんどって今は報われてるんだけど、当時はまったく報われなかったよね。
      ──ファンもあんまり報われてなかったと思います、若い女の子のファンがほとんどいなかったし(笑)。今ははっぴいえんどのおかげで若い人たちと話が通じますけど。
      細野 考えてみると、はっぴいえんどの根っこにあるバッファローとか、アメリカの西海岸のムーヴメントも、同じなんだよ。3年遅れてやってきたの、日本に。全く同じことやってるんだよ、僕たちは。バッファロー・スプリングフィールドのメンバーで残ってるのは、今、ニール・ヤングぐらい。あの頃と同じイノセンスを保ってやってるでしょう。だから特別な時代だったんだと思うんだよね、あの頃は。
      松本 ニール・ヤングって、茂って感じだよね。
      細野 うん。でも、顔は茂のほうがいい男だよ(笑) 

   (この対談は1998年12月14日に行われました) 

                   
                                                                                  

                                                                                  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?