真理の獲得とは神への祈りのようなものではないか
真理の獲得は神への祈りのようなものではないか。というのも、賢人は彼らが賢人であることを知らないゆえに、愚者は彼らの知識の欠乏ゆえに彼らが真理に至ったのか判ずることが出来ないのではないか。しかしここで彼らが彼ら自身に対してあるものを真理であるとした場合という反例を考えてみる。しかしこれを支えているものはやはり信用であり、彼の客体もまた彼が真理に至ったかを判ずる基準は信用である。信用は真理の真理性(絶対性)に反し、やはりこれも怪しい。真理の真理性に対し(真に、と言ってもいいかもしれない)誠実であるのなら、真理の獲得の表明とは絶対性を持つ真理の判者への伺い、すなわち神への祈りに相当するのではないか。
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