土佐編1 東西の宗教観
旅館の中で、瞑想をする。
丹田の中に宇宙を感じる。
五感からなる身体感覚に集中し、それらが空であることを感じる。
そうしていくうちに、ただ虚空に呼吸だけが唯一存在していることに気が付く。
身体が大きくなったり小さくなったりしていく。
精神は、体の内にある自己を包括している。
内にある精神は、瞑想のインストラクターのように心の在り方を指示してくれる。
かつて、私は思考と一つであった。
しかし、その思考を取り去ったら、私は身体と感覚であった。
そして、思考も感覚も取り去ったら・・・。
とても久しぶりに質の良い瞑想ができた。
道中で、フランスから来た元教員のジャンに出会う。のばした髪を後ろで結び付け、おしゃれな中年紳士という様子が伝わってくる。
オランダのデイヴィッド・ウルフさんとも出会い、三人英語で道中を歩く。
ジャンもまた東南アジアを旅しているバックパッカーでしきりにインドの特にバラナシをお勧めしていた。
休憩中、彼は私の持っているロザリオを見ると驚き、
「あなた、キリスト教徒なのか。なぜ、お寺や神社に参っているのか。」と驚く。
「混合宗教?私から見たら実に奇妙だ。」
「カトリックの長女」と言われたフランスでは、現代は実はライシテ(政教分離)によって、公の場での宗教は、十字架やクリスマスツリーなども厳格に禁じられており、ほとんどライシテという宗教のようなものだという。
カトリック教徒であることを公にするよりも、同性愛をカミングアウトするほうがまだハードルが低いらしい。
四国遍路道中で会った別のフランス人大学生は、子どもの時に洗礼は一応受けたきりで、ほとんど教会に行くことはないとのこと。
日本でも若者の教会やお寺離れはあるが、ご当地のヨーロッパではさらに深刻だ。
ジャンのHPでのラストネームは「ジム・ヴィシュヌ」。
ヴィシュヌとは、ヒンドゥー教の主神だ。
ジムは特定の宗教は持たず、というか、そういうものから自由になって、世界の様々な霊性に触れて、気に入ったものを選んでいるらしい。
インドでは、子どもに神様の名前を付ける。
イスラム圏では子供に預言者の名前を付けるそうな。
西洋では、宗教戦争があった。
ただ一つの神があって、ほかの神を信じているものを悪魔とみなし滅ぼす。
そして、一つの神にはただ一つの組織があり、その組織を通して人は神とつながり救いを得る。
組織が分裂したら、互いに悪魔とののしりあいそれに政治もかかわりあって終わりなき戦争になる。
日本神道では、「唯一の神」は表舞台には出てこず、天地創生から姿を隠し続けている。
真言宗では宇宙万物を大日如来とみなすが、大日如来はありとあらゆる仏や神を包括する。
仏教と神道は、明治期の廃仏毀釈まで共存していた。
徳川幕府の寺受け制度はキリシタン排除のために作られた管理制度であったが、お寺は教育の場でもあり、今でいうコンビニ以上に身近な存在であった。
ちなみに、私にとってはキリストを信じることは、日本の神々や仏らを排除することを意味していなかった。
かといって、いいとこどりの混合宗教、シンクレティズムとして、キリストを相対化して、空海やその他の道を同列に扱うわけでもない。
こういう「いいところどり」をして自分を神と同等に扱った人間の作った教団はほとんどが原理主義となり、消滅していく。
「キリストこそが、キリスト教という組織や教義のなかで一番偉いことにされているから、それに従う」というわけでもない。
前にも書いたが、第二バチカン公会議において、カトリックは諸宗教にも救いがあることを宣言しており、積極的に対話を図っている。
日本でも、近年諸宗教間対話は活発になっており、教会で禅の指導を受けたり、諸宗教の会堂に訪れて対話を図っている。
こうしたオープンで互いに尊重しあう対話のものとで、はじめて私たちは自分の信仰の素晴らしさを深めていくことができる。
この旅のひとつの目標や期待は、日本における霊性の復活と、対話にあった。
おそらく、「魂の時代」が夜明けを迎え、過去に出てきた諸宗教が一つの流れに合流してきている風潮を感じる。
いわば、「超宗教」の時代に入ってきているのだ。
アインシュタインは、「宇宙的宗教」を直感し、教義も聖職者も擬人化された神も必要ないとした。
自分自身を無限の知恵の海岸の砂浜の一粒でしかないことを知り、その意味で自らを熱心な修道士と言った。
私は、「宇宙教」とか「普遍教」ともいえるものをこの旅で見出したかった。
いよいよ、トンネルを抜けたら高知県だ。
土佐と言えば、もちろんあの坂本龍馬が生まれ育った土地。
竜馬は、当時死罪とまで言われた脱藩を犯し、日本を洗濯するため京都まで出向いた。
私のしていることも、ほとんど脱藩みたいなものだ。
新しい時代を作っていかねばと思う。
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