「少なくとも私は君が好きだよ」という気持ちだけで良かったのかもしれない

友達や自分について考える時「少なくとも私は君が好きだよ」という気持ちを大事にしている。

それだけで、人とのコミュニケーションがグッと楽になったと思う。

少なくとも、なんて友達に言うのは、正しくこちらの意図が伝わらずに、失礼にあたる可能性があると思うので、直接誰かに言ったことはないけど、この考えは大事にしている。

この感覚をもう少し詳しく言うと、(他の人がどう思っているかは分からないけど、倫理的にどうとか、マナー的にどうとかは分からないけど)「少なくとも私は君が好きだよ」という感じだと思う。

私は恐らく真面目なタイプの人間で、だからなのか、人からの評価や規律を気にしてしまう。

気にしてしまうこと自体が悪いとは思っていない。私は、どんな時も人は、他者との交流の中に存在すると考えているため、その人という存在と、その人が他者に与える印象やその人への他者からの評価は切り離せないものだと思う。でもだからこそ、「少なくとも私は君が好きだよ」という気持ちを大事にする必要があると思う。

私は、自分に一貫性を持たせるべきだという考えに囚われていた時期があった。だから、自分で考えた結果、それはダメだと思った意見には、否定意見を返さなければいけないと思っていた。

でも今は別に、"肯定してもいい"のではないかと今は思う。

よく空気を読んで人に合わせ過ぎてしまって、自分の意見が言えなくて苦しむ人の話を聞く。私はそう言う苦労もあったと思うが、反対に、人の意見を(自分の信念のせいで)受け入れられなくて苦しんでいたことも多かったのではないかと気がついた。

君のことは好きなのに、その考えはその考えで面白いと思うのに、それを肯定してしまうことは、自分の意見を、ひいては自分を、自分の生き方を、否定することに繋がるのではないか。

それはつまり、自分が"間違っている"ことを肯定することになるのではないか。そんな考えが、私のほとんど無意識を駆け巡っていた。

"好き"の理由を考えなくてもいいのかもしれない。もちろん、好きの理由をとことん考えて、深掘りしていくことで、より自分のことを知れるかもしれないし、売れる商品を発案するとこもできるかもしれない。だからもちろん、考えてもいいのかもしれない。でも、無理に理由付けしなくてもいいんじゃないだろうか。

結局のところ私は、"人が好き"だったのだと思う。それなのに、自分を他者と自分自身に否定されることが怖くて、コミュニケーションに苦しんでいた。

その特効薬になったのが「少なくとも、私は君が好きだよ」という考え方だったのだと思う。

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