わからないものはわからない

かつて僕は自分の人生を余生だと思っていた時期がある。やりたいことを成し遂げて、その後に自分の人生で長期的にやりたいことがなくなってしまったからだ。幸か不幸か、その前提はなくなってしまい、また人生をやることになってしまった。

その結果、強くてニューゲームができれば問題は少なかったのだろうが、現実には費やしたリソースとそれまでの人生への向き合い方は引き継いでしまったので、それを軟着陸させるのに手間取ってしまっているというところである。
かっこつけていいました。正直に言うとどうしたらいいかわかりません。白旗とかなら一生懸命振るので本当に誰かなんとかしてくれませんかね。審判がいないのでこのゲーム中断できないんですよ、困った。


今自分の中にあるものであれこれ考えてみたら、きちんと責任を果たせる人間でありたいみたいなことしか出てこなかった。こうやって頭を巡らせた時に、何もないじゃなくてこんな曖昧な責任感が出てくるあたり、自分らしくて笑ってしまった。何か新しいものや今後続けていけるものではなくて、今まで持ってきたものをまだ持ち続けたいと考えている。

こんなことをぐるぐるしながら考えた結果、一つのことに気付いた。今の手持ちの情報で考えても無駄なのではないのだろうかと。何か問題を解くときに、答えとなる情報を持っていれば間違えようがない。解けないのは僕の頭の出来や運のせいではなく、単に必要な情報を持っていないだけではないかと。
そして、これも例え話だけど、遊ぼうとしたと時にお金がなければその時は遊ぶ時ではないという説がある。それと同じで、考えようとしたときに必要な情報がないのならば、それは考える時ではないのだ。その推論はまだ語る時ではないというやつかもしれない。

ここまで肯定的に何やら語っておきながら、問題を棚上げして責任逃れしていることはわかっている。それでも、今の自分でできないのであれば、できる可能性があるところに託すしかない。

じゃあ何が必要かという話なんだけれども、当然と言えばそうなのだが、インプットに尽きるだろう。今の自分が持っていない何かを拾いに行かないといけない。ただ、それをやるためにはインプットを先にやるのではなくて、アウトプットから先にやらないといけないのかなと思っている。
これが足りないものが何かはっきりしている問題ならインプットからでいいと思うのだけれども、さっぱり訳がわからない問題はそうではないと思う。
何を入れればいいかがわからないから、それを探すために足りない自分の状態で引っ張れるものをひねり出して、その都度足りないものをねじ込むという方がいいのではないか。
この欠落のように感じるものは、そこに何が入るかわからないから存在するものだとするのならば、入れるべきものは何かと考えるしかない。それを探すには、結局言語にして何かを語り続けることが僕にとって一番いい方法だと思う。

たとえうまくいかなくても、旗を振り続ける内は大丈夫だ。なんて言ったって審判はいないから旗を止められることはない。終わらないのならば、続けたっていいだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?