少し前、「会話」というタイトルで僕はこう思ってますよみたいな文章を書くと、思ったより肯定的な意見をもらえました。ありがとうございます!
なので、今回はそれをぶち壊すような話を書こうと思います。

と言っても、当然誰かを批判したりするわけではなく、自分が会話そのものをどう思ってきたかとツラツラ書いただけのものだ。
前回の話を「かく在りたい」という人に語る希望の話だとするならば、今回は「こうだった」というただの諦めの自分語りである。
あ、読む前に、画面の左上とか左下とかを押してみてください。スワイプとかも良いですね。人生が捗ります。



会話をするときは、何かしらの話が必ず出てくる。それは自身に興味があるものか相手が興味があるものの、あるいは双方が興味があるもののいずれかになる。
理想を言うと、互いに興味がある話をできるのが一番いいだろう。だけど、そんな話題は多くないし、ましてやそんな人と出会えることは幸運と呼ぶほかにないと思う。
だから、現実は片方にしか興味がない話の方が多いだろう。誰かが意地悪をしているとかではなく、同じことに興味を持つ話は中々ない。だから共通の知人のうさわ話が盛り上がってやめられないわけで…。

話を戻そう。
話をする時、3種類にざっくり分類できて、双方に興味がある話が一番良いが、中々そんな話や人はいないため、片方に興味がある話になる。
そしてその話題に何が選ばれるかは、明らかに人間の力関係に影響される。人気者や自身が敬意を表す人の話を聞くのは、社会をやってればそうなる。

だから僕は、昔は自分の興味ある話しがあまりできなかった。もっと正確に言うと、自分の興味がある話をしてもあまり聞いてもらえず、会話ができなかった。弱かったのだ。
これは、当時の友人達が悪いと言いたい訳ではなくて、根本的な原因はうまく伝えられるだけの言語能力の欠如と日頃の人間関係の構築の下手さが原因だった。なんてことはない。単に力が及ばなかったのだ。
(だから、当時の友人は嫌いではなくて苦手のカテゴリに入ってくる。)


では、そんな状況が続いてどう思ったか。単純な話で、僕は自分の話に価値がないと思った。
当時はそれを改善するための努力をせず、諦めた。僕は自分の話の価値を信じなくなった。話を聞いてもらえない状況に適応した。人間はよくできている。

その結果、僕の話に「他人」が興味がないのなら、それは「皆」が興味がないのだし、それなら「僕」も興味がないし、別に語らなくていいやと思った。
こうやって人は捻くれて拗れていく。いやいや違う、適応して生き延びていく。


一方で、僕はそれでも会話は諦めきれなかった。
だから、聞き役として振る舞い始めた。たまに話し手として振る舞えることもあるし、何より聞き手をやることで自分の価値を感じられた。僕が聞き方を少し変えれば話し手の話す内容が少し変わったりするところを見て、会話をしている気になっていた。愚かなものである。それが一番失礼なことだとも気付かずにだ。

更に、その後遺症みたいなものが、長々とこんな自分語りを書ける人間になったところとかは、本当に人間の愚かさを味わえるエピソードで笑える。
でもそれは当然の結果なんだ。適応はその時に適応しているのだから、その時から離れれば適応すべきものは変わり、後は悪癖だけが残る。そしてまた適応を目指し、悪癖を増やしていく。これが人生!はい自虐終わり。

まぁ、要するにだ。
不運な環境に置かれたことと言語化能力の不足により、自分のしたい話を望みながらできなかった結果、自分の話や価値観に価値を感じられなくなった。
そしてそれにある意味で耐えられてしまった。だから黙っていられるようになったし、話も聞けるようになった。とても大切な能力で、これに人生を救われるほどの恩恵は受けたけれども、別に僕が欲しかった能力ではないんだよね。手放さないけどさ。他にもあったんだ。

ウダウダ書いてきたけど、こんな考えが発端となって、結果的に生き残ることができ、聞き上手と言われる人間になれたらしいという話である。
蓋を開けてみれば、単に未練タラタラだという話なのだけれども、そこもいつもは隠してやってるから許して欲しい。


前書いたやつにも触れておくと、会話をするために、自分の話は聞いてもらう価値がないとした上で、その中でどう会話に参加するか?という問いに対する解が、この間の「会話」の話に繋がってくる。あれが正解だとは思ってないけど、一定のものにはたどり着けたと思う。中身なんて無くていいんだ。相互的であればいいんだ。そこから始めればいい。


ここまで長々と、自分の中での「話」と言うものに対する考え方を書いてきた。
ここまで読んでくれた方は、1つ疑問に当たると思ってる。
何故お前は、自身に対しては価値を信じてないのに、他人に向けて価値を信じるような言葉を語るのかと。

これは理由がある。
決して、他人を侮辱したり、軽蔑したり、嘲笑っているから言ってるんじゃない。僕は人間には価値があると信じているから、その価値を語っている。

僕の語る言葉に価値はなくとも、それを受けとった相手の心の機微には価値がある。僕の言葉が思ったとおりに伝わらずとも、そこで生じた会話そのやり取りは尊重したい。それこそが僕がやった話だから。
だから僕は今日も人の話を聞いて、人と会話をやりたくてやっている。

まぁ、格好付けて言えばこうなるが、要は、価値を認められない自分を、人間として価値を認めたかったという、何とも情けない理由だ。

日頃人に語るようでもないことを書いたし、ぼくがかんがえたさいきょうの〇〇、状態なので、矛盾もきっとある。書きながら、これただの僻みじゃねえかと削った部分もある。
あるいは、話を聞いてもらえなかったかわいそうな僕の話だとも言える。実際そのとおりだろう

それでも、たとえ鬱屈した感情を抱えていたとしても、僕は誰かを会話ができることに喜びを感じるし、そのために良き聞き手たることができれば、それは良かったと言いたい。
積み上げて肯定することはできなかったけど、削る中で残ったものを否定することはできなかった。
そんな話でした。最後には希望が残ったんだ。

読んでくれてありがとうございました。そして、もし叶うのであれば、またお話ししましょう。その時を楽しみにしています。

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