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そこをなんとか、について

初めてこの「そこなん」を知ったあなたへ、われらが「そこなん」の紹介文を書いてみた。どんなチームなのか、何を目指しているのか・・・。3分くらいで読み終わりますから。みなさん、お忙しいでしょう。他にも読みたい記事があるでしょう。こんなクソ記事、出逢っちまったのが運の尽きだ。でもね、そこをなんとか、3分でいい。いや、次のひと段落でもいいので、読み進めていただけたら。そこをなんとか、お願いします。

文責:小松 理虔

そこをなんとか、というチーム? というかプロジェクト? が始まってから、どのくらいだろう、半年くらいだろうか。いつから、どのように始まったのかを忘れてしまったほど、このチームはゆるく、ふわっと運営されている。そもそも定期的に集まっているわけでもないし、なにか差し迫った案件があるわけでもない(いや、それはそれでやばいのかもしれないが)。まあ、時折、何かを思い出したように集まり、人に会い、話を聞いて、なんかがもぞもぞっと動いている。まあ、そんな感じである。

正直、この「そこなん」が、具体的に何を目指し、何を企て、世の中にどのようなインパクトを残そうとしているプロジェクトなのか、じつはぼくにもよくわかっていない。わかっていることは、なにかやらかしたとき、人になにかお願いするときには、「そこをなんとか」って頭下げるしかねえよな、逆に「そこをなんとか」って頭下げられた時には、まあ、とりあえずは受けるしかねえべね、ということくらいなのである。

人は、よくわからないものに対峙すると、不安になる。目的が見えないからだ。ぼくたちは普段から、なにかの取り組みを行うとき、目的とか、成果とか、目標のようなものを掲げて取り組む。そこにはしかるべき予算があり、狙いがあり、それにふさわしい結果が求められる。そういうものがあるから、人は安心して、目指すべきものを目指して進むことができるわけだ。どこに向かって進むかわからない船には、あまり乗りたくないもんね。

ぼくたちは、常に結果を残さなければならない。だから、結果を出すためのノウハウを探そうとするわけだけれど、今の時代、そういうプロジェクトは、たいてい「先輩」がいて、ネットを検索すれば、鉄板のメソッドもトラブルシュートの方法も、数字の出し方も、だいたい出てくるわけです。で、そういうものを真似すると、なんとなくうまくいく。予想通りに進めば、安心だ。おおお、ここで語られている通りに真似してみたら、うまくいったぞ、と。

予想通りは安心だ。むしろ予想と違っていたら困る。予想通りに結果を出し、企画書通りに物事を進める。あらゆるトラブルを想定内に収め、安定した品質の品物を納品する。それが「仕事ができる」の条件だ。しかし一方で、あらゆるメソッドが数値化され、言語化され、金銭に置き換えられ、ノウハウ化され、自分に最適化されたアルゴリズムで情報が勝手にひっかかってくる世界で、いつのまにか「自分」が希薄になっていくような感覚、ありませんかね。がんばっていい物を作ろうとするほど、オリジナリティがなくなる。どこかで見たことのあるようなものが生まれる。自分である必要がなくなる。つまり「替えが効く」、コモディティな存在になっていく。

1日24時間しかない。起きてるのはせいぜい18時間。その時間でできる限り「単価」をあげないと、ぼくのような個人事業主は食べていけない。家族を養っていけない。すると、この仕事はあと1時間で終わらせないと予算に合わないぜ、この仕事は明日の午後の3時間でまとめないと採算が取れないぞ、みたいな思考になっていくわけですね。それはそれで無駄がないのだが、自分の意思で仕事をしているのか、仕事に自分がコントロールされてしまっているのか、わけがわからなくなる。

あれ、おかしいな。自分にしかできないこと、自分にしか作れないもの、自分にしか歩めない人生を切り拓いてきたはずなのに、がんばろうとすればするほど、巨大なシステムの一部に組み込まれているような、自分がそこに埋没していくような・・・何よこれ、えっ? 何よこの感覚・・・!? こ、これが資本主義なの?


あああ、「どうでもいいこと」や「わけわかんないこと」が、いかに贅沢だったか。時間を気にせず、だらだらと、お茶をすすり、酒をくらい、個人の思いだけで、無駄に、クソみたいなことに情熱を傾けられるというのは、とてもとても素晴らしいことなのだということを、今更ながら思い出す。そうやって、「目的の世界」からこのプロジェクトを眺めてみると、「そこをなんとか」は、突如として謎の光を放ち始めるのだ。

そもそも何が出てくるかわからない。出てきたものがどのくらいの金になる仕事になるのか見えない。そもそも、集まって具体的な何かを話し合うのかと思いきや、お客さんとコーヒー飲みながら音楽の話とか、くだらない地元の話とかをしている。そこでは、目的が、役割が、成果が、商品が、目標が、提供すべきサービスが、いったん揺らぐ。というか、そうして揺らぐために、このチーム、このプロジェクトがあるといっても過言ではない。つまり、この「そこなん」は「目的の世界」の「外部」にある。

なんだかよくわからないけれど楽しそうだな、とか、仕事になるかどうかわからないけれど、とにかくまあやってみよう、とか、この仕事でどこそこに行けたらうまい酒が飲めそうだなとか、だいたいがそういうスタンスである。何がどうなるかわからない。新しいものが、何か生まれそうな気はする。いや、生まれないかもしれない。

けれど、そういう外部環境を意識的に作っていかないと、ぼくたちは自らの拠って立つ場所を自分たちの気づかないうちに失ってしまう。世の中を一つの色に染め上げてしまうような変化の速度は、加速度的に上がっている。だからこそだ。こういうファジーで適当なプロジェクトを、この地方都市で、課題の多い領域で試してみることの価値は、あるんじゃないか(いや、ぼくだって、そもそも適当な人間だし、適当さを、残しておきたいもの)。

何がどうなるかわからないから面白いのだし、わからないものだからこそ、考え、言葉にしていくことが面白い(人間だって、そういうものだろう)。わからないものを楽しみ、そこで得られた実践の経験や知見を次なる価値としてアウトプットしていく。

その先に何か生まれるかもしれない。潰れるかもしれない。予想以上に早く解散してしまうのかもしれない。けれど、その「かもしれない」を、できるだけ「かもしれない」ままでサバイブしていくことが、「目的の世界」にいる一人のライターからは、とても魅力的に見えるわけです。

わかる、を生きなければいけない社会から、わからない、を取り戻す。目的の世界から、わからない「人間」を取り戻す。今のぼくにとっては、そこなんは、そんなプロジェクトなのです。だから、今ここに書いた文章よりも、これから書くであろう文章が、とても楽しみなのだ。


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