0203「体罰問題について語らせてくれ」

今日は茅場町のヨッシーズさんで最高に美味しいビールを味わってきて良い気分になっている。常連でもなんでもなく、今日が2回目だったのだがビールにこだわっていると豪語しつつ本当に高いレベルでそれを実践されている稀有なお店だと思う。客の立場で偉そうに言わせていただくと良い意味で値段とクオリティがマッチしていない。必ずまたお邪魔すると思う。

さて、今日は最近巷で話題の町田かどっかの高校の体罰の問題について一石を投じたいと思う。
コトの概要は散々言いふらされているので省く。そしてまず最初に釘を刺す意味で言えば今のルールでは手を出した教師が悪い。これはしょうがないというか現時点で手を出したら負けなルールの中で我々が生きているのでどんなに煽られようがハメられようが手を出した教師がルール上では負けだ。ただ、だから手を出した教師が悪い、とかルールに則ってただルール上の判定をするだけなら誰でもできる。
今回は生徒が言葉で煽り、それに教師がリアクションするのを期待して動画まで撮っているから教師擁護の声が上がっていて、それは感情論的に至極真っ当なのだけど、その考えを正当化する、確立するために必要な言い分が(私の感知する限り)全然メディアで出てこないのでここで個人的な想いだが示してみたいと思う。

結論から言えば、みんな教師が悪いか生徒が悪いかで議論してないでルールが悪いって言ってくれよ。ということである。

まず体罰、つまり身体的な苦痛を与えることは悪い。これは誰がどう考えたって悪い。なぜなら身体の、ひいては生命の安全性を阻害する行為だからだ。人間は身体を維持できないと死んでしまうので身体を傷つけられることは人間の存在、生きることの安全性の阻害、侵略だ。どんな人間も他人の安全性を法に基づく処罰や正当防衛、緊急避難を別として脅かすべきではない。だから体罰は良くない。

しかし人間はフィジカルな身体だけでできているのだろうか?昨今では心の病がいかに人間に重篤な問題を引き起こすかということや、劣悪な職場環境や家庭環境による精神的な追い込みが人が自らの命を自らの力で断つという最悪の結果を起こすことが認知されるようになった。つまり人間は物理的な身体だけで構成されるのではなく、心や精神や魂という側面も持ち合わせていて、それが生命活動に大きく影響すると皆気付き始めている。

つまり相手を精神的に追い込み、精神的に危害を加えれば、それは相手の生命活動に対する安全性を阻害する行為になり得ると思し、過去の事件でそれは皆嫌という程理解しているはずだ。極端に言えば、相手が精神的に傷つく言葉を意図的に浴びせ、それが原因で相手が自ら命を断ってしまったら、それは相手の命を奪ったのと同等ではないか。相手を殴り、それが原因で身体にダメージが与えられ、数週間後に生命活動を維持できなくなるのと何が違うのか。違いがあるとすれば因果関係が人間の目に観測できるかできないかだけだ。

怪我や病気などフィジカルに、物理的な身体の安全性を脅かす脅威に対して人間はこれまで常に対策を練ってきた。手術や縫合で怪我を治し、薬を使って病気を治せるようになった。これができたのはそれらの事象が観測可能だったからだ。目に見える形で心的安全性を脅かす脅威を捉え、数値化することでそれをコントロールする方法を常に模索してきた。怪我や病気に対してこれらの治療をすることは最早当たり前と捉えられている。
しかし精神的な医学やケアという側面は未だ万人に受け入れられるとは思えない。体調が悪いと思って病院に行く意思はあるのに仕事が辛いから病院に行くという意思はない、というのはむしろ現時点で普通のことだ。

ここで言葉の暴力、という言葉を考えてみる。実に言い得て妙だと思うがしかし、「言葉の暴力」と「暴力」という言葉が並んだとき、「言葉の暴力」を下に見る、侮ることはないだろうか。もしそういうことがあるのなら、それは目に見えているものしか見ようとしていない証だ。暴力は目に見える。相手を殴って血が出れば相手のダメージが分かる。しかし言葉の暴力で相手を攻撃したとき相手がどれだけ傷ついているかは分からない。生きる希望を失うほどのダメージを負っていてもそれは目に見えないのだ。

今回の例を考えてみるに、先に教師が生徒に暴言を浴びせられている。仮にこれが物理的な暴力であり、教師が立ち上がれないほどに傷つきそうであれば、教師が反撃し、生徒を殴ることは正当防衛として認められるだろう。教師の物理的、身体的な安全性を守るための行為としてそれが正当化されるからだ。だとしたらここで今回浴びせられた暴言が教師の精神を相当に傷つけていて、教師が精神面での安全性を脅威に感じるレベルまで脅かされていたとしたら、それを守るために正当防衛が認められるべきではないだろうか。教師はあそこで自分の命を守るために正当防衛として暴力をもって反撃しなければいけなかったと考えることはできないか。

現行のルールでそれが認められないことは百も承知だ。ただ、現行のルールは目に見える事象だけを捉えて自分を守る上での逃げ道を用意しているだけだ。人間が精神的に安全性を脅かされたときそれは目に見えない。しかしそこで傷つき、生きることが脅かされているなら自分を守る権利が人間にはあると思う。

もちろんそこには過剰防衛がいけないというルールは適用されるべきだ。今回教師が反撃した際にあそこまで殴る必要があったかどうかは別の問題だ。しかし今のルールで体罰がいけない、暴言は規定にない、というのは単純に体罰が目に見えるもので暴言が目に見えないものだから(ルールにできない)ということに他ならないと思う。

だからルールを変えたい。身体的に危害を加えるのが悪い、とだけ規定するのではなく、精神的に与える危害も同等に扱った上で状況を把握することが重要だ。もちろん外見では精神的に誰がどれだけ傷ついたかは分からない。第三者が想像でそれを判断すれば真実とは違う結果で事象が裁かれることになるだろう。しかし我々はそれを判断しなければならない段階に来ている。できるかできないかではなく、まずそこを目指したいよね、という話をコメンテーター誰でも良いから誰かしてくれ。そうしてくれればこんな日記を書かなくて済んだのに。

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