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今日だから思い付いた話題だけど今日話すことじゃなかったかもしれない誕生日の話。

今日は推しの誕生日です。わーい!

と言うことで、誕生日についての話。
え?その推しについて話す流れでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、推しについて語るには、出演作品やら人間関係(相関図)やらも一緒に語らねばならないのでまた別の機会に…。

元々、推しの誕生日に合わせて絵を描いたり小説書いたり…みたいなこと余りしないんですよね私。お祝いの気持ちはあるんですけど、書きたいときに書きたいものしか書けなかったり、周りが盛り上がってるから私がしなくてもな…ってなったり、普段作品スルーされてるのに誕生日だからと人の目に留まるのが何だか心苦しかったり、直接推しに届く訳じゃないしなぁと思ってしまったり、キャラ名出して公式の目に触れたら…と考えてしまったり(認知されたくない系のオタクなので)
まぁ、色々理由はあるんですけども。

一方で、友達の誕生日は貢ぎ癖と言うかプレゼントしたい欲を遺憾なく発揮しても咎められないのでテンション上がりますし(一応常識の範囲内で)動きます。
これ好きそうだな…とか、これ渡したら喜んでくれるかな?とか、相手の反応が楽しみでやっているので“直接相手に”と言う部分が大きいのかもしれません。

話逸れますが、パーソナルショッパー(お客様に合わせた商品選択やお買い物サポートをする仕事)とか気になってる職業だけど、好きな人限定なので多分向いてないのかな。
知識や良いなと思うものに偏りもあるし。

話を戻して。
昔…それこそ子供の頃はクラス中の誕生日を覚えていたり、作品内のキャラの誕生日を網羅してたりしてました。
今はそもそも友達が少なかったり、記憶力も衰えてきたのもあり、割とふわふわだったりします。
自分の誕生日を教えて居ない相手も多いので、こちらから一方的にお祝いしてたら気にさせてしまうかもと思って自重したり意識しないようにしてるので。

創作するオタク界隈では誕生日を公言していたりX(Twitter)のプロフィールに載せていて、お互いに作品を贈り合う文化があったりします。作品がなくてもフォローしてたらお祝いコメントしたり。
昔はそういうものだと思って誕生日明記していたんですが、今のジャンル(アカウント)ではしていないので、ここ10年くらいで知り合った方は私の誕生日知らないんじゃないかな…。

何故公言していないかと言うと、自分の誕生日って嫌なんですよね…。
生きていることに有り難さを感じられていないので、めでたいとか嬉しいとか思えなくて、成長もせず歳だけ取ってて、なのに誕生日ってだけで周りに気を遣わせるじゃないですか。おめでとうって言わなきゃ・何かしなきゃ…って。
生きていく上で励みになっている相手の優しさなどに「ありがてぇ…」って気持ちでお祝いしたり普段接したりしてるのに、相手に大したことしていない私に何かしていただくと、何だかお礼にお礼で返されたような心苦しさや申し訳なさが出てしまい、どう接したらいいのか解らなくなり、下手すると疎遠になったりしちゃうんですよね…。
良くも悪くも、ちょっとしたことが相手にとっては大きなことになり得るのは解っていて、私が相手にしていただいたことも、私が相手にしたことも結局受け手次第だし、その受け取り方を否定する訳でもないんですけど。
だからと言って私も、私がしたことへの認識を変えられないのでやはり肩身は狭くなると言う…。

あと単純に、歳を取ることについて快くなれないと言いますか。
別に老いとかはどうでも良いんですけども、その年齢に相応しい精神年齢になれていない自分への嫌悪感みたいな。
固定観念・先入観・理想の問題で、人それぞれ・言うほど皆大人じゃない・大人って何?定義は?とかツッコミも入れられるんですけど、それにしても私はどうしようもない。
そこが変わらない(変われない)ので余計に…って言う。

加えて、数字自体に区切りがあるじゃないですか。20・30・40・50…とか。
年齢でもそれとは別に私が個人的に意識してしまっている(いた)数字がありまして、
20・24・48・72も意味合いが強い(強かった)んですよね。

20は成人(私の年代)で、「これから責任が増えるんだ…」と吐くほど嫌がりガチ泣きした覚えがあります。
子供の頃は自他共に周りより大人だと認識していた部分があり、嫌だと思ったことで自分の幼さを自覚して自己嫌悪したんですよね。

で、24・48・72は、母・祖母・曾祖母に子供・孫・曾孫が生まれた歳。
私を含めて4世代に渡り同じ干支で、小さい頃から「次(私の子)も同じ干支なら凄い」とか「24で生まないと」とか冗談半分で言われていたんですよね。24過ぎて結婚すらしてなかったので「じゃあ次は36だ」とか。
頭では「今時24で子供は早い方」だとか「子供を生んだり結婚したりは自由、しない選択だって尊重されるべき」だとか「相手が要ることは思い通りにはいかない」「2人で決めること」とか解ってはいるんですよ。
実際結婚願望は子供の頃からなくて公言もしていたし、お付き合いしてみた後は私には結婚向いていないと思いましたし。
子供についても、私が親とか可哀想・自分の遺伝子を遺したくないと思ってますし。

でもね、その数字にずっと縛られている感覚があります。
歳を取って数字は増えているのに、常にカウントダウンされている感じ。
で、“その年齢に達してもそうなっていない自分”を見つめなきゃいけなくなる。
冗談半分ってことは期待も半分なんですよ。
もしかしたら100%冗談で言っていたのかもしれない。
それでもって鉄板ネタとして長年擦り続けていたのかもしれない。
でも何度も何度も言われていれば、その場で「結婚する気はない」と突っぱねていた私でもやっぱり引っ掛かるし罪悪感も芽生えますよ…。

その上、精神年齢も達してないし、気を遣わせることに気を遣うし。
何もめでたいと思えないのに「おめでとう」と言われたらその複雑さを隠して応えないといけない。
私をお祝いしようとしてくれる気持ちに「ありがとうございます!」とは思っているけど、めでたいとは思えないから嘘を吐いているみたいでモヤモヤする。
そら、嫌にもなりますよ誕生日。

結局解決方法は、認識を改めるもしくは精神・状態・環境も含めて自分を成長させ続けていくしかなくて、変わろうと頑張っていたときも変われなかったし、何をモチベーションに今後頑張ればいいんだろうってなっているので割と詰んでいる気はしています。

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