What rowing gave me.

僕は学生時代、ボート部に所属していた。

ボート。日本ではあまり馴染みのないスポーツだ。
主に大学スポーツとして日本全国のオアズマンたちが日々想像を絶する厳しい練習に励んでいることはあまり知られていない。

馴染みがないことからも御察しの通り、大学卒業後、選手として活動する選手はごくわずかだ。多くの選手は引退し、それぞれの道を歩んでいく。

そして、引退後、オアズマン達が必ずぶつかると行ってもいい問題がある。

それは、「ボート競技を通して得たものをうまく言語化できない」、というものだ。

誰にも負けない体力?
息ぴったりな究極のチームワーク?
どんな練習にも耐えて来た忍耐力?

確かにそれらも獲得はしているだろう。
だが、断じて、ここは言葉を選ばずに言うが、
断じて「そんな軽い言葉」でまとめ上げられるような代物ではない、という強迫観念めいたものが頭をよぎるのである。
例に漏れず私もそう感じている一人である。

話は変わる。
先日、知り合いからこんな相談を受けた。

「仕事で与えられたノルマがきつすぎて、どうしたらいいかわからない。達成できそうにない自分が情けないし、周りにも迷惑をかけているような気がして、滅入ってしまっている。」

私はこの手の相談を受けることが決して多いタイプではない。
この話を聞いた時、相手を取り巻く環境についてもあまり理解していないし、下手に情けをかけるのも感情を逆撫でしかねないし、と逡巡してしまい、しばらく押し黙ってしまった。逆に自分のこういう自己防衛的な性格が嫌に感じるところまで考え込んでしまった。


ふと、ボートのレースが頭をよぎった。


ボートはレースに臨む際、必ず「目標タイム」を設定する。クルーの実力と他チームの実力の兼ね合いを考慮して緻密な計算のもと算出されるタイムだ。

ただ、実際この目標タイムは、あくまで目標でしかない。

ボート競技が魅力的である要因の一つでもあるのだが、コース上を吹く風、水面の状況、隣のコースのチームが強豪かそうでもないか、など様々な要因が絡まり合い、時に実力を超えた結果をもたらすことがある。(逆もまた然り、であるが)

そんな中、選手にできることは何か。

それは、

「全力で漕ぐこと」

である。
漕ぐのは自分。周りは関係ない。もはや勝敗も関係ないかもしれない。
自分は全力を出したと、レース後に胸を張って言えるかどうか。

4年間を通じてボート競技で一番大事だと思っていることはこれである。

つまり、レースでの目的は、これなのであり、「目標タイム」はあくまで「目標」に過ぎないのである。

以上のことが、レースのシーンを思い出している刹那、頭の中を駆け巡り、一つの結論に至った。

悩みにくれていた相手は、そう、「目標と目的を混同」していたのである。

本来「目標」であるはずの「ノルマをこなすこと」がいつの間にか「目的」になってしまい、定量的に「それを達成できるかどうか」でしか自身を評価できなくなっていたのである。

確かに、数字はわかりやすい。0か1だ。
ただ、人間には感情が存在する。時には定性的な考えも、なぜか納得が行く時がある。それで構わないのだ。
大事なのは、目標に向かって全力で取り組んだと胸を張って言えるかどうか。もし、自信を持ってそう言えるなら、周りもきっとあなたを認めてくれる。結果は後からついてくる。

つまり、ボート競技を通して私が獲得したのは、

「目標と目的を混同せず、両者を独立したものと捉え物事に取り組むことの重要性に気づいたこと」

であると言える。
(適切な目標設定がなされている時は両者はほぼ同義ともなりうるとも思う。「全力で漕いだ時に出せるタイムを目標に設定→それを達成するためには全力で漕がなければならない」というように。)


ボート競技は、まだまだ言語化できていない多くのことを私に与えてくれたと感じている。

これからの人生で、一つ一つ丁寧に自分のものとし、できることなら周りに還元していければ、と考えている。

So-ro







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