彼女はまるで、猫のようだった

 最初に断っておくと、これは『僕』と『彼女』の思い出話だ。いや、正確に言い表すのならば、僕だけの思い出話なのかも知れない。ただの思い出。故に、大きなオチも無ければ、ラブロマンスのような甘い展開も無い。もちろん、どんでん返しだってありはしない。至って普通の昔話だ。大して面白い話でもないけれど、少しだけ付き合ってくれないだろうか。

 思い出話だとは言ったものの、実は話せる思い出はそう多くない。なぜなら、僕と彼女の関係は『友人の友人』に過ぎなかったからだ。もちろん、友人と括ってしまっても問題の無い間柄であったとは思う。しかし、やはり間に友人を介することで構築された関係値であっただろう。
 その友人の名は、宮下といった。宮下は僕と同い年であり、当時一番仲が良かった。宮下と僕の仲が良いように、彼女と宮下もまた仲が良かった。お互い、宮下を通じて、少しずつ話すようになった。それが僕と彼女が知り合ったキッカケだ。




 当時の回想を行うにあたり、海馬を働かせ記憶を十年以上遡ることになる。まだ僕は高校生で、彼女は三つほど歳上だった。
 僕と宮下、そして彼女と宮下も、インターネットで知り合った友人だ。顔も本名も知らない付き合いだった。僕と彼女は、宮下を通じてお互いを認識し、いつしか会話を交わすようになった。特筆すべきほど、劇的な出会いでもない。故に、初めての言葉も覚えていない。何の変哲もない出会いだったと思う。
 彼女は絵が上手だった。SNSでは、よくイラストを投稿していた。僕が最初に抱いた印象は、とても繊細な絵を描く人だということだ。僕は、彼女の絵に魅かれていたのだろう。直接伝えたことはないが、彼女の絵が好きだった。恥ずかしながら、絵に関しては門外漢なため、難しいことは何もわからない。
 ただ、彼女の描いた儚く細い線の輪郭や、全体を整えながら映えさせる背景。幻想的で細かな色使い。そういった描出に魅かれたのだと思う。
 いつしか僕は、彼女がイラストを投稿することを楽しみにしていた。


 宮下以外にも、共通の友人は増えた。仲の良いグループのようなものだ。SNS上では複数人でやり取りをすることも増えた。しかし、今でこそインターネットを通じて知り合った友人と通話をする機会は多いが、当時は通話の頻度もそう多くなかった。あくまでテキストベースでのやり取りが主となる。思い返しても、僕と彼女が『友人の友人』の範疇から出ないと感じるのは、ここに起因するのかも知れない。
 しかしながら、些少であるとは言え何度か通話をしたこともある。僕の耳に入る彼女の声は快活で、明朗な女性だった。SNS上で見る彼女の人物像と一致している。他愛もない話をしたと思う。内容の仔細など覚えてはいない。
 その中でも、印象に残っていることは二つある。会話の流れで送られてきた彼女自身の写真から、現実の彼女も可憐な女性であった事。そしてもうひとつ、彼女が僕に向けた言葉だ。
「キミは、おもしろい子だね」
 彼女が僕へ向けた人物評だった。今も昔も、さして面白味の無い人間だという自覚はある。それは社交辞令的に放たれた言葉だったのだろう。貴女の方がよっぽど面白い人間だ、と思ったが口にはしなかった。
 当時高校生だった僕の瞳には、彼女はとても大人びて見えていた。それは彼女の物腰が落ち着いていたわけでもなく、教養の高さを感じたなどの理由でもない。どちらかと言えば、性格は子どものようだとも言えるだろう。
 そもそも、何を以て人を大人とするのか? 非常に曖昧な問いであり、僕にその正答を導く力はない。それでは、なぜ彼女が大人びて見えたのか。それはおそらく、彼女が人生を楽しんでいたからだと思う。
 人生を謳歌し、下の世代へと笑顔を向けられる人間は、成熟していると思う。「大人はこんなにも楽しいぞ」という背中を見せ、子供から羨望の眼差しを向けられる。そして、そのバトンは更に下の世代へと受け継がれていく。これは、僕なりの"大人論"と言ってもいい。正しくなくとも構わない。僕は、そのような人間に”大人らしさ”を感じているのだ。
 話を戻そう。彼女は人生を楽しんでいた。もちろん真偽は分からない。少なくとも、僕の瞳には、そう映っていた。
  他人の心の裏側など分かるはずもない。もちろん彼女にも、悩みや愚痴のひとつやふたつあっただろう。しかし、それを打ち明けるような親しい間柄でもない。表層で見えている部分に、僅かながら魅かれていたのだろう。
 誤解の無い様に補足しておくと、彼女に恋慕の情を抱いていたわけではない。あくまで、敬愛や友愛に類する感情だった。


 さて、これが創作であるのならば、この平坦な物語にも、そろそろ刺激が欲しい。しかし、事実は小説よりも退屈だ。喜劇も悲劇も、そうそう起こり得ないものである。
 大きな山場を迎える事もなく、ここで『僕と彼女』の思い出話は唐突に終わる。もちろん、あの日の通話を終えた後も、僕と彼女のやり取りは幾度とあった。しかし、それら全てはわざわざ書き起こす程でもない事ばかりであった。それはおそらく、「日常」の一言で片付けてしまえるだろう。
 平々凡々たる日々を過ごす中、ある日彼女はSNSから姿を消した。そしてここからは、『僕』の思い出話になる。まるで自分が物語の主人公であるかの様な言いぶりであるが、もちろん主人公なんてガラではないと自覚している。僕はどこまで行っても、脇役がお似合いなのだ。


 インターネットに於ける『死』とは、実に簡素なものだと思う。数回のクリックで、存在を消してしまうことが出来るからだ。使うのは人差し指一本だけでいい。いとも容易く、存在を消し去ってしまう事が出来るのだ。条件次第では、死すらなかった事に出来る。消去したアカウントを復活させることすら、簡単に出来てしまうのだ。
 実際、長くインターネットに触れていると、消えてしまった人は数えきれないほどにいた。彼女もまた、その内の一人であった。
 インターネット上での死は、恐ろしく地味だ。事実、僕は彼女のアカウントが消えた事を、すぐには気付けなかった。共通の友人が気付いて僕に伝えるまで、僕は彼女がいなくなった事など知らなかったのだ。数時間で気付いたのか、はたまた数日経過してから気付いたのかなど、定かではない。
 彼女のアカウントが消えた事を知り、少しだけ寂しい気持ちになった。しかし、その内戻ってくるのだろうと楽観的な考えもあった。つまりは、さして気にも留めていなかったのだ。
 それから数週間が経過した。その頃にはもう、彼女の事に関して考える事もなかった。他にも友人はたくさんいた。現実での生活だってある。
 情報が溢れかえるインターネットの海に埋もれ、僕の脳内から彼女の存在は薄れていった。
 そんな時だった。ふと、とあるアカウントが目に入った。それは、本当に偶然だ。何も意図せず、ただただ海を揺蕩っていた僕の目の前に現れたそのアカウントは、おそらく彼女の別アカウントであった。
 似たようなハンドルネーム。投稿されたイラストの絵柄は同一であり、文章のクセも彼女のそれと同じであった。そのアカウントは、間違いなく彼女だと確信する。それを見かけた時、最初に芽生えた感情は、安堵だったと思う。彼女は、僕たちの見えないところで元気にしていたのだ。喜ばしい事ではないか。
 しかし、次に沸き起こった感情は、またしても寂しさだった。わざわざアカウントを変えて活動を行っていたくらいだ。僕たちの前には、意図して姿を現していないのだ。それならば、こちらからコンタクトを取るべきではない。そう考えた僕は、特に接触はしなかった。
 後日、宮下と話す機会があり、彼女の件について触れてみた。仲が良い宮下ならば、もっと深い事情を知っているだろうと思ったのだ。やはり、宮下は彼女が消えた理由も知っていたし、別アカウントの存在も知っていた。
「深い事情までは聞いてないけどね。諸々めんどくさくなって、別のアカウントで活動を始めたみたい」
 宮下もまた、別アカウントに生まれ変わった彼女と、積極的にコンタクトを取っていた訳ではないらしい。理由は僕と同じだった。無理にこちらから接触を図るべきではない。彼女の意思で戻って来たのならば、快く迎え入れればいいという判断だった。
 結論から言えば、彼女は戻ってこなかった。かなり時間が経った後に、改めて別アカウントの方も覗いてみたが、その頃にはアカウントが消えていた。僕は、完全に彼女の存在を見失ったのである。いつしか、彼女の存在自体が、僕の脳内から消え去っていた。
 彼女がいなくとも、世界は回る。彼女がいなくとも、僕の人生に大して影響はない。そう、影響は何もなかったのだ。


 ここで話は飛ぶように時間が進む。彼女が僕の世界から姿を消し、五年ほど経過しただろうか。あの頃仲が良かったグループも、話す機会が減っていた。それぞれ現実が忙しかったり、別の友人や別のグループと仲良くなっていた。五年という月日は、環境を大きく変えていた。
 ある日、宮下から連絡が来た。会話が減ったとは言え、あれからも宮下と連絡は取っていた。内容は、久々に会って酒でも飲まないかという誘いだった。時のうつろいは、高校生だった僕たちに飲酒を許した。
 あれから、少しだけ大人になった僕たちは、池袋の小さな飲み屋で再会を果たす。積もる話はたくさんあった。離れていた時間など感じさせないほどに、会話は弾む。歳月が経ち、歳だけを重ねた子供二人は、顔に赤みを帯びたまま次から次へと言葉を投げあった。
 お互い大学へ進学していた僕たちは、近況を報告しあう。現実での生活はどうなのか。恋人は出来たのか。就職は考えているのか。今はどんな友人と遊んでいるのか。あの頃仲が良かった共通の友人たちは、いま何をしているのか。絶えず湧き出る話題は尽きる事なく、キャッチボールは続いた。
 会話の流れで、彼女の話題になった。久しぶりに彼女の名前を思い出した気がした。宮下はあれから連絡を取っているのだろうか。ふと、訊ねてみた。
「あの後も暫くは連絡してたけど、今はもう完全に連絡は取っていないよ。最後に話したのもいつだったかな」
 そう話した宮下は、言葉を言い終えると少しだけ目を伏せた。
 暫しの沈黙。僕は氷が解けて薄まったウーロンハイを一口飲み、グラスを置いた。冷え冷えとした液体は口内を潤し、アルコールは身体の内側で熱へと変わる。
 その後、一息おいて宮下は、再度口を開いた。
「実は、彼女は誰にも話してなかったんだけど……」
 僕は宮下の言葉を待った。

「彼女、身体が弱かったんだよね。病気を患っていたみたい。病気に関する詳細までは知らないけど、あの時すでに医者からは、そう長くないかもしれないと宣告を受けていたみたいで。みんなの前から消えた理由も、多分…… それだと思う」

 言葉に詰まった。
 記憶の中から手繰り寄せた明朗な彼女からは、想像出来ないほどに重い悩みを抱えていたのだ。彼女の絵から感じ取れた儚さや、彼女が放つ大人びた雰囲気は、自身の終末を実感しているからこその一面だったのかも知れない。
 死期を悟り、皆の前からひっそりと姿を消した彼女。人知れず、最後は独りになろうとした彼女。それではまるで……

「まるで、猫みたいな女性だ」


 宮下との飲み会から更に数年が経過し、今の僕がここにいる。一度脳内から消えかけていた彼女の存在は、なぜか僕の脳内に居座り続ける事になる。気に病むほどではない。しかし、半年に一回程度の間隔で、ふと彼女のことを考えてしまうのだ。
 いなくなってしまった人など、沢山いる。その中でも、彼女が僕の脳内に居座り続ける理由は何だろうか。
 どこかで元気にしているだろうという希望を持つには、楽観的過ぎる。しかし、彼女を悼むことも出来ない。どっちつかずの心理状態が、心に靄をかけているのだろうか。どうやらこの問いにも、僕は正答を導く力が無いようだ。


 以上が『僕』と『彼女』の思い出話だ。
 不謹慎ではあるのかも知れないが、正直なところ、僕には彼女がまるで"物語のヒロイン"に見えた。美人薄命とはよく言ったものだ。可憐で、絵が得意で、朗らかに笑う彼女の背後には、死が纏わり付いていた。そして、その結末は秘匿され、聞き手の想像に委ねられているのだ。
 彼女の物語に於いて僕は、名前すら与えられない脇役であっただろう。脇役である僕には、物語の全容など知り得ない。彼女がこの世を去っていようとも、変わらず人生を謳歌していようとも、もう僕に出番は無い。
 ただ、願わくば────

 願わくば、彼女の物語がハッピーエンドでありますように。

 無名の脇役は、人知れず希う。

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