悔しさ
試合終了の笛が鳴ったときに湧いてきたのはあり得ないという感情、結果に対する怒り、そして2つの悔しさでした。
勝てなかった悔しさ
北関東ダービー、それは他人から見ればぬるいものかもしれない。レベルの低いものかもしれない。ある人にとっては不快なものかもしれない。
しかし私にとっては絶対に勝たなければならない、普段の一戦とは全く意味合いの違う42試合の中の4試合なのである。
2020シーズン、ホーム栃木戦。最悪な試合だった。情けない試合だった。不甲斐ない試合だった。応援することをやめようかと思うほど失望した試合だった。
あれから1年。2021シーズン、ホーム栃木戦。絶対に勝つ、勝利以外はいらない、そう意気込んで見に行った。
結果は引き分け。序盤に軽いプレーから失点。後半はいい攻撃を何度も見させてもらったが、結果はオウンゴールの1点のみ。失望…はしていないと思う。それよりもまた勝てなかったことへの悔しさが私を埋め尽くした。
2010年から応援してきて北関東ダービーは勝つのが当たり前になっていた私にとって2年連続で勝利できないこの状況はあまりにも耐えがたい「屈辱」である。勝てないことがこんなにも悔しいなんて知らない、知りたくなかった。趣味であるサッカー観戦で悔し涙なんて流したくなかった。
次のアウェイ栃木戦こそは、来年こそはと、悔しさを力に変えたいが、まだまだ気持ちの整理には時間がかかりそうである。
チャントを歌えない悔しさ
2つ目の悔しさ。これが今回noteを書こうと思った理由である。
どうしても言葉にして吐き出してしまいたい。なんとかしてこの悔しさを解消したい。そう思って書きます。
これを読んでくださっている皆さんは後半開始直前に流れたチャント(コール)が何だったかお気づきだろう。それは闘え水戸である。私にとって闘え水戸はとても大きなトラウマであり、とても重大な意味を持っている。
※ここからは私個人の意見なので、団体さんとは意見が異なるかもしれませんがご了承ください。
闘え水戸はよっぽどひどい試合の時にしか歌ってはならない、流れてはいけないものだ。気軽にそしてどんな時でも流れて良いモノではない。むしろ流れない方がよいのだ。
しかし、このチャント(コール)の重大性が分かる人は今日スタジアムに、ピッチにいったいどれくらいいたのだろうか。コロナ禍以前から水戸ホーリーホックを応援しているサポーター、コーチ時代に聞いたことがあるであろう監督、長年水戸に尽力してくださっているコーチ陣、スタンドから見ていた本間幸司選手、そしてベンチにいた細川淳矢選手。闘え水戸の意味を理解し、それをパワーに変えられる人はこんなものではないだろうか。
確かに闘え水戸が流れたことで、意味を知っている人から出た緊張感や危機感はスタジアムに多少なりとも漂ったと思う。
それでも私は太鼓と手拍子でしかこの重大性を表現できなかったことにとても悔しさが残るのだ。
ピッチで戦うのは選手であり、その選手を選ぶ監督やコーチ陣だ。その人たちに本当にチャントやコールが力に変わっているか、それはプレー経験のない私には分からない。それでもそう信じたいのである。
そんな私にとって歌えないことはもどかしいものである。普段の試合ならばもどかしい、その程度の感情ですんだ。
しかし今日の試合は違った。全力で戦っている選手の後押しができないことや言の葉を送れないことは共に戦えなかった、何もできなかった後悔へと変わった。どうして自分は席に座り手をたたくことしかできないのか、どうして私は共に戦えないのか、そう強く感じた。
最後に
これは私の気持ちであり、ポエムです。みんながみんなこんな気持ちになる必要もなければ、悔しさを感じていない人がもしいたとしてもそれを責めるために書いているものでもありません。ただ、私がこう感じ、こう思い、こう悔やんでいる、ただそれだけのことです。
また、栃木SCに勝てないことをあえて「屈辱」と言わせていただきました。これについて「栃木は弱いのになぜ勝てないのか」と栃木SCに対してリスペクトのかけた発言ととられる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそうではありません。私にとってダービーの相手である栃木SCとザスパクサツ群馬の2クラブに負けることはチームが強かろうが弱かろうがどんな状況であろうが「屈辱」なのです。勝てないことそれ自体が屈辱なのです。そしてありえないという感情や結果に対する怒りも「屈辱」と同様に、勝てなかったことへの感情です。
以上、私のポエムでした。お読みいただきありがとうございました。
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