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入院日誌|病と。⑤私は強くなんかない

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

お仕事始まった皆さん、おつかれさまです。

入院11日目。
経過は順調。筋肉が落ちるのを防ぐため、歯磨きしながらスクワットしたり、電話しながら爪先立ちしたりしている。今日は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉の奥に非常階段を見つけた。病院内の床はバリアフリーのスーパーフラットなので、階段は貴重な運動源なのだ。「はたして、入院患者は『関係者』に入るのだろうか……?」と若干不安に思いながら、なぜかコソコソと扉を開けて、階段を何度か昇り降りしてみた。意外と普通にできたけど、ちょっとおしりが攣りそうになる。

仕事の引継ぎで、久しぶりに会社にも電話してみた。さっそく上司からガミガミ言われて、そのちょっと理不尽な叱り方さえもはや懐かしく思える。迷惑をかけているのは確かなので、謝るしかないんだけど。

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唐突だけど、「強い」ってなんですか。

人として「強い」というのは、どういうことですか。

友人に病気の話をすると「強いね」と言われることが多い。でも、なんだかモヤっとする。たまたま病気になって、たまたま同世代より病院にお世話になっているだけで、私はちっとも強くなんかない。

病院は、自分を存分に甘やかせる場所だ。そこでは強くなくていい。頑張らなくていい。もっと痛かったり苦しかったり、大変な治療をしている人もいるから一概には言えないけれど。

久しぶりにかけた会社の電話の向こうからは、ぎすぎすしているわけでもないけれど、こちら側よりも緊張した空気が伝わってきた。毎日働くということは、日々のストレスや疲れとの闘い。年中休まず、何十年もそういう生活をしている人たちの方がよっぽど強い。

でも、経験は選べないよな、と思う。

大きな怪我や病気もせずバリバリ働いている人も、身近な人を亡くした人も、事故で体の一部をなくした人も、その人生を自ら選んだわけじゃない。すごく悲しい出来事や苦しい出来事を乗り越えた人が、強いわけじゃないと思う。ていうか「乗り越える」ってなに? ただ、死なずに生きているだけ。ただ、人生が続いていくだけ。その証拠に、何度経験しても時間が経っても悲しみは薄れたりしないし、私は弱いまんまだ。

逆に、悲しい出来事や苦しい出来事を経験しなかった人が弱いともかぎらない。幸せだったり愛されたりした経験の方が、人を強くしてくれることもある。でもそういうプラスの経験だって、家庭の事情やら持って生まれた性格やら、選べないことも多い。そう思うと本当に、私たちは「生きたように考える」しかない。

しいて言えば、私は「身をゆだねる」ことが得意だと思う。人生何が起こるか分からない。どんとこい、という気持ちでいる。そのくせ日常のストレスには打たれ弱い。誰かのちょっとした言葉や態度にぐさっと傷つく。だからこそ、辛いな、しんどいな、嫌だな、という感覚には敏感だ。「あ、くる」と思った瞬間に意識を遠くに飛ばす。青い空を見上げて深呼吸する。それでもダメなときは、落ちるところまで落ちる。思いきり泣くか怒るかして、また笑えるときを待つ。そういう自分の中や外から来る波に、うまく乗れるようにはなってきた。

それが「強い」という言葉とどうつながるのか、私にはよく分からない。

愛する人たちにも、強くならなくていいから、幸せになってほしいと思う。

そして、幸せになることを諦めないでほしいと思う。

「強い」という言葉はたぶん、別のことを短く表しているだけだ。「身をゆだねる」とか「希望を失わない」とか「へこたれずに頑張れる」とか、それぞれが生きていく中で得る「強さ」があるのだろう。

だから今度は教えてください、あなたの「強さ」について。

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毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。