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入院日誌|病と。④一緒にいる意思

入院6日目。
大晦日は日付が変わるまで紅白歌合戦を楽しみ、そのせいで昨日は見事に寝正月となった。今日は思いがけず外出許可をもらい、新宿の花園神社へ行ってきた。おみくじは大吉。なんだかんだ、しっかり年越しを満喫している。

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今日は、ずっと書いてみたかった「恋愛」の話をする。

恋愛について真面目に話そうとすると、「はあ、惚気ですか」と思われるんじゃないか……という自意識で妙に歯切れが悪くなって、つい言語化を躊躇ってしまう。でも、恋っていうのは本当に不思議で、面白いものだ。誰かのことを好きだと思い、一緒にいたいと願うこと。そして、家族でも友達でもない赤の他人と、定期的に会って一緒に過ごしたり、お互いの気持ちを確かめあったりすること。そうやって関係を築いていくのに、「別れよう」の一言であっさりとそれを終わらせることもできる。なんて儚くて、なんて面倒で、なんて勝手な感情だろう。

かくいう私だって、別に恋愛経験が豊富なわけではない。燃え上がるような恋をしたことも、食事が喉を通らないほどの失恋をしたこともなければ、たいそうな恋愛哲学を持っているわけでもない。ただ、考えてみたいのだ。愛とか恋とかいうものが、どうしてこんなに人を惹きつけてやまないのか。

恋愛という感情(関係性)を不思議に思い始めたのは、最初の彼氏と別れてからだ。「好きです。付き合ってください」と告白されて、1年半くらい付き合って、別れた。それなりにデートもしたしキスもした。好きだと言われるたびに嬉しくて、自分も彼を好きだと思った。好きだと言われることは、まあ、あけすけに言えば快感だった。ある日、彼がおもむろに尋ねた。「もし俺が○○(私)のことを好きじゃなくなっても、○○は俺のことが好き?」。私はとっさに頷けなかった。それから色々あったけれど、だんだん一緒にいることが面白くなくなって別れた。その後は一度も会っていないし、連絡も取っていない。まあどこにでもある話だ。

会わないまま何年も経ってから、ふと思った。本当に人は、目の前からいなくなることができるのだな。本当にあっけない。どちらか一方でも、相手のことが好きか、好きじゃないかと自問して、「好きじゃない」という答えが出たら、共にしてきた時間を終わらせることができてしまう。私と彼は「一緒にいない」ことを選んだ。ただそれだけのこと。

仲の良い友達が彼氏と別れたときも、なんだか妙な気持ちになった。その子と彼は2人とも私の友達だったのだが、2人はいつも息がぴったりで、周りから見ても一緒にいるのが当たり前のような存在だった。彼女が彼と別れた話をしてくれたとき、その顔は初めて見るようなすっきりした表情を浮かべていた。このとき私は、初めて彼女が彼女として見えてきた気がしたのだ。遠回しな言い方になってしまったけれど、「彼と一緒にいる」彼女ではなくて、「誰といてもいい」その人自身として。

結局、恋人同士というのは一心同体でも何でもなくて、単に「一緒にいることを選んだ」人たちなのかもしれない。

夫婦はだんだん似てくると言うけれど、きっと最初から似ている人なんていない。分からないからこそ、もっとこの人のことを知りたい、というエネルギーが湧いてくる。お互いに少しずつ触手を伸ばして、手探りで、相手の心に触れていく。そうやって一緒にいるうちに、だんだんお互いの存在がお互いに染み渡っていく。

その時に生まれる感情は、自分でも予想がつかないほど深く複雑で、普段の感情の幅をゆうに3倍くらいは超えてしまう。その感情がプラスに高まったあたりを「愛」って呼んだりするのだろうか。

うーん、こうやって書いていても、なんだか全然恋愛の本質をつかめた気がしない。

とにかく、今のところ私にとって大切なのは、その人と「一緒にいることを選びつづける」ことで、そのことでしか恋愛という感情/関係性を確かめることができない。これは感情ではなくて意思だ。その選択をし続けた先に、同棲とか結婚とかがあるんじゃないかと思う。通じ合えなくても、通じ合おうとすること=一緒にいることを選べるかどうか。恋人や夫婦が一心同体なんて幻想というか、少なくとも私にとっての本質はそこじゃない。

3回も結婚した会社の上司に「そのこと(夫婦が一心同体ではないということ)にいつごろ気付いたんですか」と聞いてみたら、「最近だよ」と笑っていたけれど。

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毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。