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いつも心にお茶室を 茶の湯の話


物質にはエネルギーはない。

意識が先にあり、物質はその結果存在する。
どんな物質であれ、何らかの意識が働くことにより創造されています。

そしてこの物質界にあるものは全て劣化してゆく運命なので、エネルギー源として存在するものはありません。

物質を作るエネルギーは意識であり、非物質の世界のもの。
そう考えると、私たちの本質は肉体ではなく意識となります。

物質は意識のエネルギーが働いた結果でしかないので、金品など物質的なものを追い求める心と、精神的な豊かさは本来反比例します。

モノに執着すると精神世界は見えづらくなり、モノの執着から離れることにより見えてくる世界があるはずです。

物質世界の「足し算」的概念で、モノを集めることが豊かさに繋がるという錯覚でどんどん積み重ねてしまうと、人生が悪い方向へ進んでしまうことが多いように思います。

モノに執着する「慢る(おごる)心」では、どこまで行っても欲求を満たしきれないと感じ、そして実際にモノで欲求が満たされることはありません。

しかし見えない世界に意識を向け物質から解放されると、逆に満たされるようになってきます。全財産を失ったのであれば失意の後には別の何かに満たされ、大きなチャンスに変わることもあります。

モノに囲まれると逆にエネルギーを失っていく自然法則がわかれば、清貧を楽しむことができます。

「清貧」とは富を求めず正しい行いをして貧しいこと。
そしてこの「清貧を楽しむ心」のことを「侘(wabi)」と言います。

茶の湯の世界

極めて閉鎖性の高い空間に身を置くことによりモノへの執着心を捨て、意識の世界に目を向けようとする日本人の精神性が「侘」という新しい文化を創造していきました。

器を愛し、風情を好むは「形」を楽しむ数奇屋者也。「心」を楽しむ数奇屋者こそ誠の数奇屋者とは云うべけれ

片桐石州

「侘数寄」とはモノに慢る心を排し清貧を楽しむ心であり、それは物質的には貧しくとも精神的には豊かで自由な世界のことです。

利休の頃の茶室は、あり合わせの材料の寄せ集めで作られていました。
壁は土壁のままで漆喰は塗らず、使われる木材には節があったり皮がついたままであったりしました。

例えば障子の桟も節がついたままの状態で選定をしていません。(逆にそれがカッコいい)

また利休は雑器である茶碗や竹製の花入れなど、日常生活の中にある簡素な物を鑑賞用の茶道具として茶の湯に登場させたりしています。

つまり「侘」とは「これでいい」という世界。

「これでいい」と聞くと何か手抜きのように感じてしまいますが、そうではなく材料は簡素でも意識の働きであるデザインは良質なものになっています。

「これでいい」は精神的豊かさを具現化したものであり、これこそが「清貧を楽しむ心」。

極小空間

本来日本建築は神殿造りにしても書院造りにしても解放的な建築空間ですが、そうしたものがなぜ小空間へと変化していったのでしょうか。

岡倉天心の「茶の本」に、物事の本質は「虚」にあるとあります。

「虚」とは何もない空間のことであり「無」と同じ意味です。

以前の投稿の「般若心経と量子力学」という記事にも書きましたが「無」とは何も無いところさえ無い状態のことで、言い換えれば「全てある」ということです。

宇宙は素粒子で満たされていて、物質はその素粒子が働いた「結果」として存在しているだけで、物質自体が本質ではありません。

本質ではない「物質」に執着する日常からはなれ、閉鎖性の高い空間で精神性の向上を計ることが第一にあり、またお茶はおもてなしの心であるから、主客ともども心を一つにするには狭い空間が好都合という意味もあったようです。


心の結びつき、氣の交換

茶の湯ではお茶を飲むことを中心としていますが、お茶の味を評論する場所ではありません。茶を介して人と人が結びつくことが主体となっています。

茶室の中では身分もなく、非物質である「心」が主体となることにより、本質へと近づくことができるのでしょう。

余談ですが、人の氣は肉体の外まではみ出しているといいます。

人と人との交流でほとんどの場合会食があるのは、その場で食べたり飲んだりすることは、エネルギー交換がおこなわれ、よりいっそう意識の一体化が起こりやすくなるためだと感じています。

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