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日本人の特性と日本文化

日本という国を考えてみる

日本という国は海に囲まれた島国であり、その国だけの言語を使い、大陸からの文化が入ってきたにせよ、独自の文化が発展していった大変珍しい国であるといえます。

建国から約2700年の世界最古の国で、その期間の文化の蓄積がありながら、江戸時代には210年の鎖国によって独自性にさらなる磨きをかけてきました。
わずか160年前までは江戸時代です。

明治維新と文明開化により、近代化政策と西洋崇拝へといきなり梶を切りましたが、それでも今日まで日本人の中にはずっと「日本人」たらしめている“何か”が脈々と受け継がれています。

私は日本人のその特性は「日本語」からくるものだと感じており、繊細な日本文化の根源にも日本語があると思っています。(日本の位置、場の周波数も関係しているとも感じる)

「日本人や日本文化の繊細さはどこからくるのか」ということに対する興味が、この記事を書くきっかけになっています。そしてこの記事は私の狭い範囲の認識であり、かなり主観もはいった記事になっています。

*ちなみに私は公式の歴史は「嘘」だと思っていますが、その辺は横に置いて話を進めていきたいと思います。また、この記事は日本人が他の国の人達よりも優れているという趣旨ではありません。



日本語の特性

日本人は自分がなく周りに流され、イジメ気質で、テレビを信仰し洗脳されやすく思考停止状態であるとよく聞きます。

外国の人から聞く日本人の印象で、1番言い得て妙だったのは
「日本人は空気に支配される」という言葉。

ネガティブな印象だけを並べると、日本人はまるで良くない国民性のように思えますが、長所も短所も表裏である特性をみると何か他の国の人達とは違い、特に「集合意識」とのつながりがすごく強いように思えます。

この日本人の特性は一体どこからくるものでしょう。

それを考える上でまず初めに着目することは、先にも述べましたが「日本語」の特殊性というところに原点があるのではないかということ。

角田忠信先生がその著書「日本語人の脳」に書かれていますが、日本語人(9歳くらいまでに習得した言語が日本語)と他言語人とでは違いがあり、日本語人は自然界の音に対して、脳が非常に特殊な処理をしているようです。

日本語人は自然界の音を左脳で処理し、ほとんどの他言語人はそれを右脳で処理しているといいます。

どういうことかというと、左脳には言語中枢があり言語を処理する場所なので、日本語人は自然界の音を「言語」としてとらえ、他言語人は無意識を処理する右脳で捉えるため「雑音」として処理するようです。

この違いはあまり大したことがないように思えますが、日本文化を語るうえでは避けては通れないポイントになります。

自然界の音は基本的には持続音であり、それは「母音」ということになります。
わかりやすくいえば「あいうえお」。
日本語はどの音も伸ばせば「あいうえお」になります。

言語学的にどうなのかわかりませんが、他言語は母音を省くことにより短いセンテンスの間に、より多くの意味を込めるように発展していったのでしょうか。

しかし日本語は子音と母音のセットで、母音ありきの言葉です。

その結果、自然界の音を左脳で「言語」としてとらえる感性を持ち合わせたほぼ唯一の民族になりました。(ポリネシア人もそうといいます。)

音が「言葉」として進化していく中、母音を重視した日本人の特性があります。

「母音」は人が生まれるとき、死んでいくとき発する音でもあり動物の鳴き声もそう、虫の音、風の音、川のせせらぎ、波の音など、自然界から発生する音は基本的に母音構成をしています。

一言で言えば、母音は「生命の言語」です。

生命の共通言語である「母音」を主体とした日本語、そんな言葉を使う日本語人たちは無意識に自然生命と対話する感性を持ち合わせているのかもしれません。

日本文化

日本文化の原点は「歌」にあります。

平安朝の歌の空間は廂(ひさし)や簀子(すのこ)を通して月を眺めたり虫の音を楽しみ、屋内外の自然の景観と一体になって深められてきました。

これは虫の音などの自然界の音を「言語」としてとらえ、自然との対話を楽しめる日本人独自の感性からくるものだと思います。

やがて、その感性で自然から受け取る思いを「歌」にして詠むようになっていきました。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の訓戒書に

「和歌は天皇第一の嗜み」

とあるくらい歌は重要な位置を占め、宮廷における生活の欠かせない要素でした。

そして「歌合わせ」を記録する文字のあり方をさらに美しく見せるために「書」が発展していき、さらにその場には「茶」や「華」が登場するようになりました。

書や茶や華などの繊細で美しい日本文化のはじまりは歌にあり、つまり「日本語」に原点があります。

自然界とつながる独特の感性が、日本人の「空気を読み取る」という優れた能力を培ったのでしょう。

空気を感じ取る

日本人の生活環境の中には木や紙といった素材が多く使われています。

高橋松亭《夜の寮》

人と人を遮る材料として木や紙は存分にその力を発揮し、例えば屏風(びょうぶ)、障子(しょうじ)、襖(ふすま)などは、もろく簡易な遮断方法ですが、最もポピュラーな区切りとなっています。

このような区切りは、壁のように完全に外部と遮断しているわけではなく、周りの空間とつながり持ったままの遮断であり、それは「間」ともいえます。

もろく、簡易な遮断であっても「結界」という感覚を皆が空気で感じ取るため、それほど強固な素材ではなくとも事足りるというところに日本人の
「空気を感じ取る能力」というものが垣間見れるような気がします。

空気を感じ取る能力の高い日本人にとっては物質的には小さなものでも、抑止力としては最大のパワーを発揮することが可能になってきます。

「結界」の感覚はまさにそれで、石に無言の力を持たせている代表例は「関守石(せきもりいし)」です。

それは路地の飛石の上に置くことにより「通行禁止」の効果を果たします。

また「竹角界」も通行禁止の空気感を存分に発揮しています。

場の空気を無意識に感じ取る日本人にとっては最小の力でも最大の抑止力となります。

「間」や「空白」を情報として受け取る

屏風や衝立(ついたて)は空間に置くことによりそこに「間」が生じます。

「間」は空間においても時間においても存在し、それは日本の伝統芸術である「雅楽」「狂言」「歌舞伎」「日本舞踊」などの全てに「間」と表現される時間的差異が存在します。

日本画や書においても「空白」は鑑賞者の想像の余地であり、ある種の「情報」として伝わります。逆にあまりに緻密に描き込まれた絵はかえって希薄であり、心が動かないように思えます。

「茶の湯」の世界にも通ずる”不完全な美しさ”は観る人の心を動かすための余白であり、空間であっても時間であっても「間」の存在は日本文化に共通するものです。

「余白」や「間」は不完全のように見えても、それらを読み解く能力の高い日本人にとって、むしろ削ぎ落とされた空白が持つ「情報」にこそ本質を見出すのではないかと感じています。


日本人は全てを”ないまぜ”にして包含的に事象を捉える

『デザインのデザイン(原研哉著)』の中に、こんな考察が紹介されていました。

ジャーナリストの高野孟がその著書『世界地図の読み方』で日本の位置のついて面白い視点を紹介している。地図を90°回転させ、ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立てると、1番下の受け皿の位置に日本がくるという。(中略)

日本から下は何もない。太平洋という奈落を背にして到来する文物の全てを受け止めるポジション。そこに日本は存在し続けた。
辺境といえば辺境であるが、これほど世界に対してクールな構えを持てる場所は少ないのではないか。


そして世界各国のさまざまな文化を受け止めることになる日本は「文化の溜まり場」としての混沌とした状況を

「究極のシンプル」

をもってバランスを取ろうとしていたのでは、と考察しています。

確かに日本人は、とくに宗教観に寛容で、仏教、神道、キリスト教などの行事を割とこだわりなく受け入れています。

私自身はこういった歴史は違うという意見を持っていますが、日本人の全てを包み込んで独自の文化として昇華してしまう性質の背景としては、納得できるものであると思います。すごく面白い考察です。


日本人の特性


日本人の会話には直接的なことは言わずに表現するというものが数多くあります。

自然と調和しやすい日本語は集合意識的なものに委ねる感覚、”暗黙の了解”的なものが他言語よりも多く、その分、論と論をぶつけ合うディベートには適さない言語なのでしょう。

周りの空気に敏感な日本人の感性は、逆にいえばもしかしたら容易に洗脳されてしまう人種なのかもしれません。

学校教育は、同じ地域の子供たちを同じ場所に集め、朝から夕方くらいまで一つの建物に閉じ込め、それが12年間続きます。

よく考えるとかなり狂気なことですが、私たちはそんな集団生活の中、「変な人」に見られない行いを選択するようになっていきました。

空気を読む日本人にとって「異質」として扱われることは特に耐え難いことだと思います。

テレビでは「フェイクニュースに気をつけましょう」といってますが、まさかテレビがフェイクとは誰も思わない。

メディア(権威)がいうことは正しいんだという認識を持つ日本人が圧倒的に多く、権威に疑問を持ったり、異論を唱えることは「異質な存在」として扱われます。

例えばメディアが「毒」を「薬」として流布し、明らかに不自然な理屈で押し通そうとしても、自然な感性が育っていれば真偽を見極めることができるはずです。

しかし、自然な感性よりも「変な人に見られたくない」という長年の無意識な防衛反応により、多くの日本人はその感性も働かなくなってしまったようです。

ただ、いくら多数派の空気に流されやすい日本人でも、あまりにおかしな社会になると「やっぱり何かがおかしい」と感じだし、さらにその人数が増えてくると意識の逆転現象は近々起こるのではないかと感じています。


おわりに

依然として日本人は虫の音を「声」として聞きます。


空間に置かれた衝立や屏風から「間」を感じ取り、関守石や竹結界をまたいでその先に行こうとする人はいません。

仕事は繊細で、電車や新幹線は時間通りに来ます。

X(旧twitter)ではテレビに洗脳され思考停止の日本人に苛立ちを隠せない人がほとんどで、日本人の悪口をいえば数字は伸びます。

日本人を褒めることさえ許されない状況になっています。

確かにそういう意見も必要だとは思いますが、せめて私くらいは日本人の良いところを表現したく、また多くの人が気高く気品のある日本人になることを願いこの記事を書いた次第です。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました

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