【人生は終わりなき異文化交流】

異文化交流というと、
生まれた国の違う人同士が交流することを
イメージしがちだと思いますが、
実は日常生活は異文化交流のかたまりだなと、
気づいたんです。

文化の違いとは一言で言えば
「当たり前」の違いだと思います。
日本という国で生まれて育つと、
周りはみんな「日本文化」の中にいると
思ってしまうかもしれないけど、
当然、地域や属する組織でも文化があって、
もっというと「家庭」にも文化がある。

だから一人一人、当たり前って違いますよね。

僕からしてみたら「コロナ警察」みたいな人は
“文化が違うなぁ”
と思ってしまうんですが、
別にあちらさんからしてみれば、
「当たり前のことをしてる」って感じでしょう。

だから、異文化交流ってのは
「国と国の交流」なんてスケールの話じゃなくて、
本質的には「人と人が理解し合おうとすること」
というとってもミクロな出来事なんです。

なので、僕たちは毎日毎日、
日常的に異文化交流を繰り返している、
と考えても良いと思うのです。

話は変わって、僕はよく
「なんでそんなに落ち着いてるんですか?」
「怒ることとかあるんですか?」
と言われることがあります。

結論から言うと、怒ることはほぼないです。
意図的に「怒ったフリ」をすることはあるけど。

なぜかと言うと、
自分にとって腹が立つ出来事も、
それを起こしてる当人には大概悪気はなく、
むしろ善意から行なっていることすらある。
世の中の大半は実は、善意でできている。
ただ、何を「善いこと」とするかという
文化の違いがあるだけだから。

そんなふうに思ったのは、
哲学を学んだからです。
哲学を学ぶと、約3000年の間に、
いろんな時代、いろんな地域で、様々に
「正義とは何か」「善とは何か」
みたいなことが議論されて、
スーパー頭のいい人たちが
スーパー高い次元でそれについて考えたけど、
「これが正義だ!」「これが善だ!」
という答えはまだ見つかっていないのです。
残念ながら。

人間は、ブラックホールを見つけられても
「正義」「善」は見つけられないんですよ。
残念ながら。

だから僕は、「見つかんないなら、
ないと思って生きよう」と思い、
それ以来、腹が立つことがあっても、
「これはお互いが抱く正義の違いだ。
どっちかが正しいんじゃなく、ただ違うだけ。」
と思うことにしています。
そうすると、大概怒りはおさまります。
だって、相手も良かれと思ってしてるのに、
怒れないでしょ。

さて、異文化交流に話を戻すと、
まぁかくも毎日僕たちは、
自分と異なる文化の人たちと、
否応なく接しており、人によってはほぼ毎日
「なんでこんな当たり前のことがわからないのか?」
と憤慨しているかもしれませんが、

あなたの憤懣やる方ない気持ちは、
きっと一生終わりませんよ。残念ながら。

なぜなら、自分が正しく、
相手が間違っていると思っているから。
でも、相手も同じこと考えているから、
一生交わらないんです。

異文化交流ってのは、
わかり合おうとしないと何も生まない。
形だけの交流って、虚しいですよね。

そして片方が、「相手を理解しよう」とすると、
もう片方も「まぁ、理解してやるか」と
呼応するから不思議。
そう、どっちかが先に異文化交流に
前向きにならないといけないんです。

僕たちは、何かを食べないと生きていけない。
食事って本来は義務なんですけど、
ただ義務を果たすだけじゃつまんないなら、
美食とかグルメとかを発明したわけで。

人生に課された異文化交流という十字架も、
気持ちを切り替えて楽しめたらいいですね。
人を理解するのは楽しいよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?