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【刺身から生魚を復元できるか?】

我ながら、すごいタイトル出てきたw

えーっと、僕はですね、
「難しいことをシンプルに」
説明するのが好きだし得意ですし、
世の中的にもそれが求められていると
思うわけなのですが、
ふと思ったのです。

「逆に、単純なことを
難しく説明することはできるだろうか?」と。
(この無意味な逆行を表現したのがタイトルです)

なのでここからは、
本当に他愛もない単純な話を、
どこまで複雑怪奇にできるかを
試してみたいと思います。
あ、何の役にも立たない文章ですよ!
真剣に読まないで下さいね!

<元ネタ>
僕たちの日常生活は、
多くの人の仕事に支えられている。
みんなが働くから、
ゴミの回収がしてもらえるし、
電車やバスが動くし、
電気も水道も使えるのだ。

<複雑にした場合>
僕たちの生活には大小様々な出来事が含まれており、何の出来事も起きない日というのはほとんどないのだが、大半の人は生死に関わったり大きな心理的ダメージを受けること以外を大胆に忘却し、さまざまな経験とそれが伴う刺激を平均化することで、「自分の生活には取り立てて大きな出来事はない。私は日常生活の中にある」という認識に至っている。

そうして擬製的に成立する日常生活という虚構は、大変に膨大な人間の関与によって成立している。「大変に膨大な」という極めて曖昧な表現をしたが、これは、自分の生活に貢献するAという人間の生活も、別の人間Bによって支えられており、そのAやBを支える側に自分も含まれている可能性を考えると、「支える/支えられる」という一方向的な関係ではなく、様々な間接的なつながりを経て、私たちは一人一人が「支え合っている」関係にあると考えるのが、適切であろう。しかもそれが、グローバル経済によって全球的に人のつながりが成立している現在では、大きく言えば「人類全体が支え合いの関係にある」と言えなくはない。ただ、私たちの実感としては、例えば地球の反対側のブラジルのたった一人の少年が、自分の人生に大きな影響を与えているという実感を持つことは困難であろう。いわゆるバタフライエフェクト的な現象は論理的には成立するものの、私たちの生活実感とは馴染まない。こうしたことから、一旦はそこまで人的ネットワークの拡大による「支え合い」の関係を考慮することは一旦控えて、「大変に膨大な人に支えられている」という表現で、ご納得をいただきたいのである。

さて、「大変に膨大な人」に支えらている私たちの「日常生活(これも虚構であることは先ほど述べた)」とは、どのような実態を持っているのだろうか。

…。

もうここまで読んでる人、
多分いないよね。
とりあえず、
「簡単なことを難しく説明することは
できる!!!」
ということが分かりました。
最後までお付き合いいただき、
ありがとうございましたw

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