美しいものを見せること

某Facebookページで街なかを歩く女性の脚だけを写真で撮影し公開していくページというのを見かけた。

前提として、私は自分が写真することを少なからず生活の一部として愛しているので、人を撮ることのむずかしさを感じていて、極端に撮られることを拒否する人も現実の知人に多いので、友だちと言えど人の撮影も、その公開も、かなりセンシティブな問題として扱っている。

それとは別に、きれいなもの美しいもの心を揺るがすものことは、共有されて欲しいと願っているひとりなので、女性のパーツかたちは被写体としてとても魅力的なものだという自覚はある。

写真の世界では、街をあるく一般の人を撮影する場合、許可を取って相手を真正面から撮影する方法や、全く了承を得ずいきなり撮影することをポリシーとした手法もあるし、実際問題街をフレームの一部とした場合、人は動きと臨場感を与えてくれる大事な要素だということは理解できる。

それを踏まえて、今回のFacebookページに言及したいのは、対象として人自体の姿かたちに意味を持たせるということ、それをまとめていくことは一気に作品自体のイメージが変わるのではないかということ。

また、撮影されている当人が掲載される意識がなければ、盗撮と言われかねないし、今後それを助長しないのかとちょっと心配になったのである。これはその人の個性や生き方を表現するようなファッションの一部つまり、人が持つ全体の雰囲気ではなく、パーツにフォーカスしているのだ。

この私の心配性な意見に、知人は「美しいものはどんどん見せるべきだし、チャームポイントは強調すべき」だと回答した。チャームポイントが美脚ならば、それは見せて歩くべきだと。一理ある。

私の杞憂は、不快だと思ったから断罪するかのような、近頃のネットが持つ潔癖アレルギーのようなものとは違うのだけど、自分でチャームポイントを自負して見せていることと、その先の何かに利用されることとの、方向性は違う気がするのだけど。それとも、自分で見せることはその先の何かまでをも内包しているものなのだろうか。

ちなみに、Facebookサポートさんにこの件を問い合わせてみると、わいせつなコンテンツページではないとのご連絡をいただきました。私はやはりちょっと気にしすぎていたようです。Facebookページは「美脚フォト」と検索すると見つかります。

2014.04.17 下書きだと思って本文を消すという初歩的ミスをしていまい、再投稿しました…。

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