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薄いまぶたに口づけをする何も見えなくなればいい 口移しした生きている味 僕らの夜に出口はなかった

薬指がどーーとか言われたって、薬指の心を運命とかにあげたって、というつまりはそういうことである。

人間の在り方って本当は、価値基準も勝ち基準も(好きな超歌手の真似して韻を踏んでみた)自分で証明することができるはずなのに、他人が勝つことと自分が負けることがどうして関係あるのだろう。自分の勝敗の審判は自分でやりませんか?という話で、幸福や不幸の基準を誰かに預けずに、自分は自分の美しさで生きられるべきだ、とずっと思っている。でも、こんなふうに共通の意識を以ってして評価を競う世界線では、価値も勝ちも美しさもソーシャルに合わせなくてはならない。それは当たり前のことなのだけれど、文化の序列化みたいなものが顕著に現れてしまうやり方みたいだな、と。元はと言えば、芸術なんて、文化なんて、わたしだけの。みたいなスタンスで生まれたものの共感の伝播の具象だろうに。

でもこの共感も怖いよな。些細な感情や繊細な感性のぶち殺しだ。SNSが台頭してからもう語り尽くされた話題だろうけど、いいねがひとつ増えてあなたの何が変わった?魂の質量まで低評価ボタン押されるなよ。しんどいならコメ欄も見なくていい。この社会で避難訓練するなら、(お)押されるな、(は)鼻白むな、(し)死ぬな。だよ。散らかった暗い部屋で、インスタント麺を啜りながら画面の割れたiPhoneをスクロールする女の子が、エモいと言われ映像作品になり、芸術として昇華されるような時代になった。その結果、私たちのSOSとPTPシートが、ありふれたエモい生活として埋もれただけである。文化という昇華のしかたは、私たちの胃の中やココロの中のあれこれを何も消化してくれない。正解なんてお前が決めろ。私もわたしで決めるから。

そういえば某超歌手の著書の一節に、『おい。ちょっと。抱きしめて。壊れたっていい。壊れそうなのがずっと続くよりマシだから。』というものがある。その章はこの言葉で締められているのだが、この一説だけが、図ったようにページが変わっていた。なんか、いいな、と思った、P.138。或いはその箇所が更に好きになったのは、恋人が泣きながら同じようなことを私に頼んでくれたからかもしれない。バカみたいな度数のお酒を飲んでバカになったふりをしてたあの夜を、覚えてるかな。

玄関を開けたときのおかえり代わりの生温い空気や洗わずに溜まったままの食器、コップでキスしてる2本の歯ブラシとか、ずっと一緒にくるまってた毛布とか取り込んでくれただけで畳めてない洗濯物とか部屋のGOUTALの残り香とか浴槽に並んでる酎ハイの空き缶とか、だめだ、本当にダメ、しあわせの亡骸はこんなにも私を苦しめる。

透明なリストカットよりも痛いようなキスマークを付けてよ。手首の躊躇い傷なんていつかは消えるだろうから。ねえ、今朝凪いで、消さないで

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