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❝日本人❞ よりマシかもしれないグルーピングの提案

〇〇人というグルーピング

 「〇〇人」という分け方について考えたい。例えば、「日本人」「オーストリア人」「インド人」などである。ここに不自由さや非合理性、そして改善の余地があるように思う。社会で一般的に使われるこのグルーピングは、単に個人の国籍のみに言及しているものではない。法的にどこの国籍を持っているかのみならず、その人の見た目や使用言語、文化的背景なども含めて何人(なにじん)か判断される。個人の属性の話なのに「判断される」という受け身形で書かなければいけないこと自体も掘り下げたいポイントだが、ここでは「〇〇人というグルーピングの不自由さ」に絞る。

時代遅れかも

 架空の具体例を挙げる。日本国籍の両親をもち、生まれてから大学卒業までアメリカで育った人が、日本で就職した場合、日本にいる周囲の人々からは「日本人」と認識されるのだろうか。また本人のアイデンティティはどのようであるだろうか。それはきっと、アメリカでの生活の中で両親がどれくらい日本の文化を伝えたか、日本語を話せるか否か、モンゴロイドっぽく見えるか否か、そして本人の性格に依るだろう。
 もう一つ例を挙げる。日本国籍をもち、日本で生まれ育ち、日本文化で暮らしている日本語母語話者で、容姿はコーカソイドという場合、通りすがりの人や初対面の人からはまず「外国人」と認識されるだろう。海外に行ったことが一度もなく日本語しか話せない人であっても、初対面の人から毎回「外国人」向けの対応をされ、説明して誤解を解くというウンザリする作業を一生続けなければならないのである。

 地球上で人の行き来の規模が小さかった昔は妥当だった「〇〇人」というグルーピングは、今やもう定義が曖昧で、時に人のアイデンティティを傷つける、ナンセンスな分け方になってきている。
 

じゃあ替わりにどうする

 しかし、社会が動く中でそういう風に人を区別するのは便宜上必要不可欠だから、単に「〇〇人」という分け方を廃止にするのでは不便である。そこで、より合理的かつ人のアイデンティティを脅かさないグルーピングとして「〇〇語ユーザー」という概念を提案したい。「〇〇語母語話者」にしようかと初めは思ったが、語学学習によって生活・仕事をこなせるレベルになった人々をグループから排除してしまうことと、言語は話すだけでなく「聞く・読む・書く」も同様に必須であることを考慮し、「ユーザー」というフラットな表現を選んだ。
「私たちはことばを通して世界と出会う。つまりことばとは、物理的には連続していて境界などない知覚世界にカテゴリーの切れ目を作り出す価値体系である」みたいなことをソシュールが言ってた気がする。

したがって、

1.グローバル化が進むもっと以前に作り出された「〇〇人」という価値体系は、社会の在り方が変化した今、使い続けるには無理がある。

2.使用言語は、世界を捉えるレンズであり、認知や思考にも深く関わるものである。だから、どの言語ユーザーかによってグルーピングすることは、(少なくとも〇〇人という分け方よりは)便宜を満たせる妥当な方法である。

でもこれでは不便さも残る、じゃあどうする

 もちろん、「〇〇語ユーザー」という括りでは満たせない用もあるだろう。その場合は、もっと細やかなグループ名を一つ一つ設けるのがよいと思う。サピアウォーフの仮説でも言われていたように、細やかな名称を作るということは、人々が細やかに認知できるようになるということとイコールである。
 私自身を具体例にすると、私は日本語ユーザーであり、日本の慣習フォロワーであり、モンゴロイドの見た目であり、日本国籍をもつ日本居住者である。これらに並んでまったく同じように、英語ユーザーでもあり、中国語・フランス語学習者でもあり、ファミマの客でもありラジオリスナーでもありYouTube視聴者でもあり大学生でもありアルバイト従事者でもあり誰かの友達であり誰かの後輩/先輩/娘/孫でもある。
私はこれらの要素を備えた人間だということであり、「日本人」なわけではない。「日本人なわけではない」は言い過ぎている感があるかもしれないが、これは、定義があまりにも曖昧な概念を自ら名乗りたくないという旨である。

 国籍が日本である、見た目がモンゴロイドである、日本語が流暢である、日本の歴史や地理を知っている、日本の学校に通った、愛国心をもっている、国際試合で日本を応援する、これらの要素の中のどれが、「日本人」であることの必須条件なのか、またはいくつ以上満たすことが必要なのか、とにかく曖昧で仕方がない。曖昧なだけなら無害かもしれないが、この〇〇人という概念のせいで傷付く人や居心地の悪さを感じる人がいる。
ユラユラの定義のわりにガチガチな力を発揮中のこの枠組みは、確実に不自由をもたらしている。
私は七五三や成人式で着物を着たし、今日も箸で米を食べる。でもそれは私が日本人だからではなく、私が日本の慣習フォロワーだからである。私の第一言語が日本語なのは、日本人だからではなく、養育者が日本語を使って私を育てたからである。

 細かな一つ一つの要素が集合して一人の人間のアイデンティティが出来上がっているところを、すべて「日本人」の一単語で括るのは自由と合理性に欠ける。ナンセンスなグルーピングで人を捉えることが減れば、もう少し、自由で快適な社会に近づくのではないか?

と思ったのですがいかがでしょうか。


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