ソシオニクス 機能の次元質問リスト


こちらの質問に回答しています。




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  • 自分の感情を見せることは、社会的に見て許されることだと思いますか?

 絶対に許されないなんてことはないと思います。感情自体は自然に湧いて出てきてしまうものだし、それをありのまま表現できる場は誰にとっても必要です。
 初対面で自分を多少取り繕ったり、悪く言えば猫をかぶったりすることは多くの人に見られる行動です。ある程度感情を調節することは社会で生きていく上で求められますが、それでも自身の感情を素直に表現できる場は多くの人にとって快適に感じるという事実は変わりません。そういった共通認識がある以上、自分の感情を素直に表現できる場(社会集団)は自然と形成されるのではないでしょうか。

  • 不適切な感情表現の例として、どのようなものが考えられますか?

 葬式の最中に声を上げて笑うのは不適切な感情表現だと考えられます。
 葬式は故人が安らかに眠れるように願ったり、遺族の気持ちを整理したりというような目的で設けられた儀式です。そのような場で声をあげて笑うのは儀式の目的もその空気感も台無しにする表現であるため、一般的には不適切だと解釈されるのではないでしょうか。他には、謝罪の場面で笑みを浮かべることも不適切な感情表現にあたると考えられます。裁判中に被告人がヘラヘラしていたら、その様子が異様な光景としてとしてニュースに取り上げられることは想像に難くありません。
 失笑恐怖症というものもあるため、不適切な感情表現をする人をただ責めるのもよくないのだろうと思います。しかしながら、その場で求められる模範的な振る舞いは明言されずとも存在するし、感情表現は自己アピールの側面も持っているため意識的に制限する必要があるという主張も納得できます。




悲しみ、落胆、憂鬱などのネガティブな感情状態を想像してから、次の質問に答えてください。

  • ① あなたは自分の意志で、こういった感情状態に入り込むことはできますか?それができない出来ない場合の追加質問として、あなたはどういう時にこうした感情状態に陥りますか?

 役者さんほど器用ではないですが、やろうと思えばできます。
 「悲しみ」だったら、具体的になぜ悲しいのか(大切な人が亡くなったとか、アイスを落としたとか)という設定を決めて、それに似た感情状態を意識して入り込みます。最も、入り込むというよりは「感情が自分のものとして湧いてくる」という方がニュアンスとしてはあっていますが。
 流行りの曲の歌詞(特に失恋ソング)からキャラクターの人物像や感情状態を想像し、似たような感情に浸るということはよくやります。あくまで想像した感情状態に過ぎませんが、それで涙を流すことも少なくありません。

  • ② 一度こうした感情状態に入った後、いつまでその状態が続きますか?

 自分の意志で入った場合はパッと戻れることもあれば、数十分引きずることもあります。逆に意識して続けようとしたことがないため、どれくらい維持できるかはわかりません。おそらく、それほど長くは続かないと思います。
 何か原因があって望んでいないネガティブ状態になっている場合は、数時間は確実に引きずります。その際は1人になって感情の処理に集中するか、友人知人(信頼できる人)に話を聞いてもらって気持ちをフラットに戻そうとします。

  • ③ そうしたネガティブな感情状態から抜け出したいと思った場合、あなたはどうやってそこから抜け出しますか?

 普通に過ごしていれば24時間後にはフラットな状態に戻ると思います。そうでない場合はYoutubeを観たり、ラジオを聴いたりして対処します。先にも書きましたが友人知人に話を聞いてもらったりもします。楽しく話す人の声だったり笑い声に影響されて気分がよくなることもあれば、言語化することで比較的気持ちが落ち着くこともあります。
 何か失敗して気持ちが沈んでしまうことは時々ありますが、ずっと沈んでいても意味がないし、その失敗は過去のものなので長いこと引きずっていたくはありません。

  • ④ 悲しみや落胆、憂鬱という感情に、心地よさや安心感といった何かを感じることはありますか?

 自分の意志でネガティブな感情に浸っている場合は心地よさを感じることがあります。涙を流すことでストレス解消になるという話もありますし、「涙活」もある種そういった心地よさを推奨するものなのではないでしょうか。定期的に自身の感情に向き合ったり、頭や心の中を整理するために意識的に感情を扱うことは、その後の心地よさや落ち着きを得るために有用だと思います。
 私自身はネガティブな感情状態に振り回されて生きているという自覚があり、時々それが嫌だと感じます。しかし、自身の感情状態を自覚できないまま周囲を巻き込んで問題を起こす方が、私にとっては恐ろしいことです。だから自身の感情はなるべく自覚していたいし、そのために定期的に感情を整理したり反復したりします。

  • ⑤ この感情状態になった後はどう感じますか?

 得も言われぬ脱力感を感じます。「泣き疲れて眠る」というような表現は時々曲の歌詞や文学作品の中で見られます。涙を流すことはそれほど体力と気力を消費する行為だと捉えることができるし、体感的にも納得できます。良くも悪くも心が空っぽになったような心地になります。身体的な疲労感はあるかもしれませんが妙にスッキリした気分だと思います。
 涙を流すまでしなくとも、ネガティブな感情が持つエネルギーはとても大きく、私は容易に扱えません。そのため、ネガティブな感情状態の直後に活力がみなぎっているという様子はあまり想像できません。ネガティブな感情に沈んだ後は心身の休息のための時間をとるのが理想です。


  • あなたは感情状態をどれくらい素早く切り替えることができますか?

 パッと切り替えることは難しいです。その感情状態に何か要因があった場合は特にそう感じます。
 例えば自分が何か失敗して、更に周囲に迷惑をかけたとなれば、なかなかネガティブな感情から抜け出せません。友人知人と楽しくおしゃべりした後は長いこと興奮状態が尾を引き、落ち着くには少し時間がかかります。興奮状態については「感情状態」と呼んでいいのかわかりませんが。

  • 「感情状態Aから感情状態Bに切り替えるのは得意だけど、その逆は苦手だ」といった、得意な切り替えと不得意な切り替えはありますか?

 フラットな状態からネガティブな感情状態に入るのは想像力があればできますが、ポジティブな感情になるのは難しいです。あとは怒りの感情状態になったり、逆に怒りを鎮めたりすることも難しいかもしれません。いくつかのポジティブな感情状態も怒りの状態も、興奮状態であることが共通点のように思います。私がその状態になるには何らかのきっかけが必要です。過去の経験を思い出すとか、人と話すとか、動画を見るとか。
 先にも書きましたが、興奮状態と感情状態は完全に同一視できるものではないと感じています。どう違うかと聞かれると説明が難しいのですが…。私からすれば、興奮状態と感情状態は、後者の方が扱いやすいものという印象を受けます。意識的にスイッチの切り替えができるのは感情状態の方です。興奮状態は自身でスイッチを切り替えている意識はあまりないし、うまく切り替えられる自信がありません。


  • あなたの「最も普通な状態の感情」(デフォルト状態の感情)とは、どのようなものですか?

 おそらく落ち着いている状態です。ずっと楽しい気分できるわけではないし、ずっと悲しい気分でいるわけでもありません。基本的にリラックスしていると思います。
 周りから見たらだいぶローテンションに見えるかもしれませんが、決して気分が悪いわけではないし、自分では普通の状態のつもりです。

  • あなたの内面の感情状態は、外側に現れる感情表現と一致していますか?

 ある程度一致していると思います。大きくずれていることはそんなにないと自分では思っています。
 ただ、感情状態がわかりやすいと言われることもあれば、反対にわかりにくいと言われたり誤解されることもあります。人によっては私が自覚している感情状態に見えないのかもしれません。何も考えずに真顔でぼーっとしていると、あまり親しくない人には怒っているとか元気がないと思われます。
 必要性を感じない限り過剰な感情表現をすることはそれほどありません。状況によってはあえて感情を隠すようなこともします。感情表現は一種のアピール的なものだと解釈しているため、周囲の空気によって意識的に抑えることも時々あります。
 基本的にめんどくさがり屋なので、「今、自分は感情表現をさぼってしまっているな」とぼんやり考えつつ、雰囲気を無視することもあります。気が向いたり、気分が良かったら気まぐれで何かアクションを起こすかもしれませんが、ぼーっとしていることが多いです。


  • 過去1日のあなたの気分について教えてください。

 気乗りしない予定があったため、朝起きてすぐは気分は悪かったです。その予定の最中はずっと停滞した気分でした。予定は午前中だけだったため、終わった瞬間に開放的な気分になってテンションが上がりましたが、直後に空腹感を認識し、食事をとっていなかったことを思い出します。その後、食べたいものがパッと浮かばない(食欲がない)ことを自覚して数分間気分が下がります。しかし、この日は比較的すぐに食べたいものが浮かんだのでデフォルト状態まですっと戻りました。
 食欲がないまま食事することは苦痛なため、食欲がわかない日は食事をしないこともあります。ただその場合、空腹による不快感を引きずることになるため、それはそれで気分が下がります。この日はラッキーだと思いました。
 その後お店に移動し、調子に乗って多めにご飯を注文しました。食べている最中に少しだけ苦しくなって頼みすぎたことを後悔しました。ですが綺麗に完食できたのでまたすぐ気分が良くなります。
 気分が良くなったので、お腹は苦しかったのですがあえて徒歩で家まで帰りました。イヤホンで曲を聴きながら、歌詞から人物の感情状態を想像し、似た気分になりながら楽しく歩きました。
 家に到着して、クーラーがついていない部屋に入った瞬間汗があふれ出てきて不快に思いました。クーラーをつけて体が適度に冷えてきたころに、中学生時代に書いた夏をテーマにした作文を笑われたことを思い出しました。その一瞬、当時の国語教師に殺意を覚えましたがすぐに落ち着きます。毎年夏になると、国語教師に抱いた怒りをうっすら思い出すため、もはや私にとっては夏の風物詩です。
 そして今は作業用BGMを流しながらこの質問に回答しています。先ほど食べた大盛りのご飯がまだ残っていて、夕飯時になってもお腹が空いていないため少し気分が下がっています。3食しっかり食べていないことがバレると小言を言われるかもしれないため、それを考えると少し憂鬱です。




Fi


過去1日の間に、他の人との関係にどのような変化があったのかを教えてください。

 特に大きな変化はなかったように思います。SNSのアカウントの相互さんが一人増えたことくらいでしょうか。私自身が観測できている変化はそれだけです。
 私のいない場で私の噂話をする人がいたら、その人たちと私の関係はほんの少し変わっているのかもしれません。


  • 「同情」という言葉の意味を解説してください。

 哀れみと似た感情です。相手の境遇に自身を重ね、勝手に自身の心を傷めている様子を指していると思います。共感と違ってお互いの感情体験を共有しているのではなく、あくまで一個人が抱く一方向の感情という印象です。
 怒りは二次感情と言いますが、怒りの前段階の感情の一つが同情だと思います。自分から遠い人がひどい目に遭っている時は同情しますが、自分に身近な人がひどい目に遭ったときに湧くのは同情ではないと思います。自分と相手との距離が遠いほど、同情を抱きやすいイメージがあります。

  • 「同情」はどのようにして表現すべきだと思いますか?また、その逆にどのような表現は避けるべきだと思いますか?

 相手が同情されることを望んでいる場合に限り、同情していることを言葉で伝えます。
 逆に、同情を動機とした軽率な援助行動は避けるべきだと思っています。それは相手を慮っているように見えますが、実際は何もできない自身の無力感を解消するための、自分勝手で無鉄砲な行動でしかないからです。少なくとも私にはそう見えています。そうやって中途半端に首を突っ込むことで問題を大きくし、多方面に迷惑をかける人を何人か見たことがあります。
 感情自体は自然に湧いて出るものなので、同情すること自体は仕方のないことです。しかし、同情を動機とした軽率な行動は状況を悪化させる要因になりかねないため、拡大した被害の責任をとれないのであれば避けるべきだと思います。

  • あなた自身は「同情」をどのように表現することが多いですか?

 あまり表現しません。私自身あからさまに同情されるのが好きではないため、相手にも積極的に同情して見せることはほぼありません。相手があからさまに同情してほしそうだと感じたら、面倒くさいのでその場では表現すると思います。しかし、それによって相手に依存されるのが嫌なので、その後は相手から少し距離をとろうとします。障りのいい言葉だけが思いやりだとは思っていません。相手が欲しているものより、相手に必要であると私が感じたものを提供したいです。
 私がする精一杯の同情の表現は、「今度、飲みにでも行こう」と誘うくらいでしょうか。もちろん一言一句同じセリフを多用しているわけではないし、言う相手も選んでいます。
 相手が今辛い状況にあること、それでも何とかもがいていることを聞き、必要であれば助言したり、利用できる専門機関を提案したりします。本人が自分の現状を正しく認識し、打破できるようにささやかなサポートをしたいと思います。
 ここで「軽率な援助行動は避けるべきという主張だったのでは?」と指摘されそうですが、私の思う軽率な援助行動とは、例えるなら一般市民が溺れている人を泳いで助けに行くようなものです。溺れてパニック状態になった人は訳もわからず救助に来た人を水中に引きずり込んで溺れさせてしまいます。溺れている人を見つけた時まずすべきことは、浮きを投げることです。溺れている本人を最低限呼吸ができる状態にし、自身の状況把握と理性的な判断が可能になったタイミングではじめて泳いで助けに行くべきです。もちろん救助訓練の経験がない場合は救助隊を待つ方が賢明だと思いますが。
 私は同情自体にさほど大きな意味を見出してはいません。身近な人が辛い状態にある場合は、どうやったらそれを打破できるか、その意志が本人にあるかという方に意識が向きます。一時的に気持ちが落ち込むことは仕方ないし、その時は力になりたいと思いますが、その状態が続くようであればその人からそっと離れます。


  • 社会には、人としての行動規範や人間関係に関する規範があると思いますか?

 あるにはあると思います。行動の規範について浮かぶのは、電車やバスの座席をご老人や妊婦さんに譲るとか、エレベーターを乗る・降りる人がいたら開閉ボタンを押しておくとかでしょうか。挨拶も行動規範に分類されるのでしょうか、私にとってはアピールの手段や相互監視のシステムであるのようにも思います。
 人間関係の規範は、自分より上の立場の人は敬うという例がまず浮かびます。「無礼講」という言葉は人間関係の規範があるという前提の言葉だと思います。家族、友人、恋人に対する規範はあるとは思いますが、これに関しては人によって差があるのではないでしょうか。
 「親しき仲にも礼儀あり」という言葉から、家族・友人・恋人はある程度の無礼が許される関係という認識が一般的なのだと解釈できます。深い仲だからこそ踏み込める領域というのはありますが、逆に浅い仲(よく知らない相手)だからこそ話せる深い部分の話もあります。

  • 上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問ですが、あなた自身はそれを遵守していますか?

 ある程度は守っていると思いますが、そこまで厳格なつもりはありません。人間関係の規範はあるにはありますが、それと違った関わり方を望んでいるような人も時々見かけます。なんとなく認識している人間関係の規範に従う方がいいとは思っていますが、わざと規範を無視したような振る舞いをして相手の懐に入る人を見ると、そのバランス感覚に感心するし憧れます。

  • 常に人間関係の規範に従うべきだと思いますか?また、そう思うのはなぜですか?

 常に従うべきだとは思いません。先にも書きましたが、規範通りの振る舞いをすべき場合もあれば、相手によっては規範とは違う関わり方が好感触な場合もあります。お互いがお互いの振る舞いを「それでいい」と認めていてて、周りに迷惑をかけていないならば規範に従わなくてもいいのではないでしょうか。その際は法を犯さないことと、二者がある程度の健全度を保てることが前提だとは思っています。
 ある程度の人が暗黙の了解として認識している規範は存在するものの、それは絶対ではないし、がんじがらめになる必要はないと感じています。そもそも「人間関係ではこういう規範に従うべき」という考え方は、その人がそれを採用している以上、あくまでその人の倫理観のフィルターを通したものに過ぎないということになります。自分の思う規範にとらわれすぎることは、認知の歪みに繋がりかねません。


  • 「モラル」と「インモラル」という言葉がありますが、何を持って「これはモラルを守っている」「これはインモラルである」という判断の違いが生じるのだと思いますか?

  時代・文化・土地によって判断の違いが生まれる思います。個人的に「法律」はある程度の倫理的な規範と重なっていて、多くの人の賛同を得られる基準であると思うのですが、その法律が国によって異なっているという時点で「その地域によって馴染んでいる倫理観に相違がある」と解釈することができます。
 発展途上国(特にアフリカ)では多くの女性が児童婚の経験者であると聞いたことがあります。現地の人々や児童婚を経験した当人がどう感じているかはわかりませんが、日本の感覚では身体的に未発達であり自分で考えて意思決定できないような児童と婚姻を結ばせるなんてインモラルである、と考える人が多いのではないでしょうか。
 また、日本国内でも時代によってモラル・インモラルの線引きは変化するように思います。少し前までは大人になってから親孝行しない人をろくでなしだとする風潮がありました。しかし現在は「子どもの親孝行は3歳になった時点で完了している」、「親の人生を押し付けるべきではない」というように、子供は子供でも他人であって、ぞの人生に干渉するべきでないという風潮が強くなっています。

  • あなた自身は「モラル」と「インモラル」をどのように理解していますか?また、あなたの理解は、他の人々の理解と同じだと思いますか?

 極めて曖昧な概念だと理解しています。
 そもそも道徳という概念自体は「すべての人間が自己の利益を追求したがる生き物であること」を前提とした、お互いに不利益被ることのないというライン決め(双方の合意)が暗黙の了解になっているものだと考えています。そのため、究極的には相手によって何がモラルで何がインモラルかは違ってくるし、その全てを理解して扱うことは難しいです。
 私自身のモラルの理解は他の人とある程度は一致していると思います。法律がすべてというわけではないですが、ある程度の倫理観が内包されているという点で、法律を守っている私はある程度の倫理観を守れていると判断されるのではないでしょうか。

  • あなたは自分の「モラル」と「インモラル」の理解が正しいかどうかを評価できますか?

 評価してくださいと言われればできると思いますが、それ自体にあまり価値を感じません。
 先にも書いた通り、モラルかインモラルかのライン引きは時代・文化・土地によって変化する、極めて解釈が難しいものです。モラル・インモラルの境界は人によってさまざまであり、どれが正しかと聞かれると答えに困るし、どのラインが平均的な基準であるかということも、あまり深く考えません。
 私が自身をモラルかインモラルか判断するときは、相手の反応を見ている気がします。倫理観の基準は私だけのものというより、相手によって少し調整するものという認識です。かといって自身の不快感を完全に無視する必要もないと思っています。
 道徳(モラル)とは、お互いが不利益を被らない、不快感を抱かないライン決めだと解釈しているため、相手と自身の距離感や価値観を示してそのすり合わせの段階で評価しているように思います。


  • 誰かがあなたに対して明らかにネガティブな態度を示しています。あなたはこういう時、どのような反応をすることが多いですか?

 相手に寄ります。
 プライベートの知り合いであれば、話し合いの必要な問題が起きていない限り、無理して交友関係を続ける理由もないので無視すると思います。エスカレートして実害が出始めれば、共通の友人に相談します。話し合いの場が必要なときは、第三者を含めて公平な視点を入れることで問題の解決を図ります。
 仕事場であれば少しイライラします。組織の構成員が共通の目標のために集まっているのに、その場に個人的な感情を持ち込むことはとても自分勝手に見えます。人を嫌いになるのは仕方のないことですが、それとこれとは別の問題であるように思います。私のいない場で、私の悪口を言ってストレスの発散をすることはかまいませんが、それはあくまで「私と相手の間の問題」であって、それを他の人のいる空間に持ち込まないでほしいと感じます。

  • 上記のような場合、あなたは「あなた自身が抱いた、相手に対するネガティブな態度」を、言葉や振る舞いを通して、相手に伝わる形で表現することはできますか?

 相手に伝えられるかはわかりません。勢いで言ってしまうこともありますが、それが通常の反応ではありません。ただ、表現するしないの次元ではなく、私の好き嫌いはだいぶ態度に出てしまっていると思います。
 私自身はネガティブな態度をとることで自分自身が飲み込まれてしまい、簡単に攻撃性を振りかざすようになってしまう感覚があるため、あまり積極的に相手に表現したいとは思いませんし、できるだけ避けたいと感じます。

  • 上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問です。あなたはどのようにして、相手に対するネガティブな態度を表現しますか?また、それを長時間続けることはできますか?

 相手にネガティブな感情を抱いている場合、自分から他愛もない話を振ることは決してないし、業務連絡(必要最低限の連絡)以外で自分から接触しようとすることはなくなります。
 長時間続くかはわかりませんが、長時間続いてほしくないと思います。誰かに対してネガティブな感情を抱き続けることはとてもストレスがかかるので、体力的にも続かないし、続けたくはないと感じます。
 自分でもよくわからないのは、初対面で「この人は苦手だ、関わりたくない」と思った相手でも、その場にいる誰より懐かれていることがあります。その頃にはさほど嫌悪感は感じなくなっています。それは、自分に何かきっかけがあったからというより、単に疲れたからだと思っていますがよくわかりません。

  • 誰かに一度ネガティブな感情を抱いても、それを許すことはできますか?

 相手にされたことの度合いに寄ります。ただ、「罪を憎んで人を憎まず」という概念には少し共感します。相手に嫌なことをされたという事実は死ぬまで忘れないし、その人と関係を続けていく上で絶対に考慮するポイントになることは確定しています。しかし、それはそれであり、その後ネガティブな感情を抱き続けて相手を憎んだり、恨んだり、復讐したりということは時間と気力・体力の無駄だと思っています。復讐心に囚われることは、相手のために人生を棒に振っているように感じるため、長くは続かないと思うし、続かないように意識するのではないでしょうか。
 一度ネガティブな感情がたまって爆発した相手から謝罪されることは、私にとって煩わしいことのように感じます。謝罪されたところで私が被った不利益や不快感が覆るわけではないし、それを思い出すのも嫌です。謝罪とは、自身の罪悪感を抱えきれず、それから逃れたくてするという心理によるものだと思っています。相手の罪悪感を解消するために時間を食われるのは不愉快だし、謝罪されたところで許す・許さないの話ではないため、謝罪自体に価値を感じないし、不要です。もし相手に贖罪する気があるのなら、私の人生に二度とかかわらないことが誠意なのではないかと考えます。




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  • 人生には意味があると思いますか?

 ないことはないと思います。ただ、人生の意味自体は死ぬ間際に悟ったり、自分自身で決定づけるものだと思っているので、現段階での私の人生の意味が何かはまだわかりません。

  • 人生に意味があるという場合、その意味は何だと思いますか?

 死ぬ間際に、自分は何を成し遂げたか、何に時間を費やしたかを振り返って、「自分の生きた意味はこれだったのだ」と悟る、もしくは自分自身で決めるものです。そのため、生きている間はあまり考え過ぎる必要はないのかなと思います。その時になるまで私自身の生きた意味は分からないし、今すぐ決めるべきものではない気がします。
 人生の早い段階で大きな夢や成し遂げるべき目標を見つけるような人もいますが、そんな風に明確な夢を抱えている人の方が珍しいと思っています。何気なく始めたものが自分の人生でかけがえのないものになることもあります。何かを始めるきっかけを「自分の人生の意味」という大げさなものにしなくとも、結果や気持ちは後からでもついてくるものです。今この瞬間に、無理に自分の生きる意味を定めなくてもいいのではないかと思っています。

  • 人生の意味は、全ての人にとって同じだと思いますか?

 おそらく違います。人生はある程度選択の余地があるもので、向かう先を自分で決めることができます。もし全ての人にとって人生の意味が同じであるなら、多くの伝記や自叙伝は、さほど価値のないものになるのではないでしょうか。
 タイミングに差はあれど、「自分の人生の意味とは何か」という問いは、生きている中で誰しも一度は考えるものだと思います。考えること自体はほぼ必然というか、自分の人生を歩む上で大切なことなのではないかと感じています。悩むことも迷うことも決して悪いことではないし、その人の人生を豊かにするために必要な苦悩です。人生の意味とは多くの人が悩み苦しむ問いですが、その問いに明確な答えはなく、自らで答えを作り出さなければなりません。今まで自分の中に積みあがった経験だけで作り出した答えで満足できるならそれでもかまいません。しかしそうでないなら、ずっと頭で考えているより新しい体験をする方が有意義なのではないかと思います。
 有名な曲の歌詞に「なんのために生まれて なにをして生きるのか 答えられないなんて そんなのはいやだ!」というものがあります。現時点で満足する答えが出せないのなら、いくら頭で考えても大した意味はないし、行動するしかないように思います。


  • 未知の人に出会った時、すぐに「おそらく、この人はこういう人だろう」といった情報を掴むことはできますか?

 できません。そういったことに意識を向けられていないと思います。しかし体感ですが、人に対する嫌な予感は当たることが多いです。

  • 上記のような情報を、あなたはどうやって掴んでいますか?

 時間をかけてその人と対話したり、振る舞いを観察することで相手の人物像がぼんやりとできていくイメージでしょうか。興味関心は相手の価値観や考え方に向くことが多いですし、それらが滲んで見える発言や行動、エピソードなどは比較的覚えています。自覚はなかったのですが、「そういったことをよく覚えている」と指摘していただいたことがあるので、ある程度は記憶できているのだと思います。あまり強く自覚しているわけではありませんが。
 時々人に対して抱く嫌な予感は、初めて話した時の相手の発言と振る舞いに起因する気がします。コミュニケーションにおける誤解は様々な要因で発生しうるものですが、それでは説明できない違和感が嫌な予感に繋がっています。

  • 「この人はこういう人だ」と理解するのに、どれくらい時間がかかりますか?

 たくさんの時間が必要です。そもそも相手を完璧に理解すること自体不可能なように思いますし、理解できないという前提で接していることがほとんどです。
 例えば中学で3年間一緒に過ごした友人がいたとします。その3年間で友人に関する情報はたくさん集まるし、一緒に過ごす間は相手の価値観や考え方をある程度捉えることができるかもしれません。しかし高校で進路が別れ疎遠になり、同窓会で再会したとしましょう。同窓会で会った友人は、中学の3年間で捉えた輪郭ではなくなっていることがほとんどなのではないでしょうか。人間は変わっていくものだし、今出会った相手に生涯の残り時間の全てを割いたとしても、相手を完全に理解することはできないと思います。
 もしかしたら私自身は、相手の全てを理解したくないと思っているのかもしれません。意外性のある人に惹かれやすいという自覚はあります。相手がわかりやすい人だったら興味を持てません。長い時間一緒にいても、新しい発見が絶えないような相手を期待しているのかもしれません。もし本当にそうだとしたら、私は相手にはだいぶ大層なものを求めていますね。


  • アインシュタインの名言に「この世には2つ、無限なものが存在します。それは宇宙と人間の愚かさです。もっとも前者が本当に無限なのかどうか、私にはわかりません」というものがありますが、愚かさの本質とは何だと思いますか?

 生物としての本能(欲求)と人としての理想の狭間で葛藤していることでしょうか。本能や欲望のままに生きれれば楽なのに、倫理的な理想をあえて追求したり、それに縛られるという人間の性質は愚かであると思います。そこが人間の美しいところであり、愛すべきところでもあると思っています。
 多くの動物は生存本能に従って生きています。しかし、戦争が起こったとき人は、家族のため、大義名分のために命を懸けて戦います。もちろん戦争は国家間で行われるものであり、国によっては強制的に戦地へ送られるということもあると思います。文明の中で生まれた理想や大義のために、純粋な本能の通りに生きられないというところは、人間が長い歴史の中で作り出した愚かさであると思います。死ぬまで本能と理想の狭間で葛藤する業を背負っているところが人間の愚かさであり、どうしようもなく愛おしいところだと感じます。

  • なぜ愚かさは無限なのだと思いますか?

 人間が高度な知能によって文明を発展させた生物である以上、人類が存続する限り欲求と理想の狭間で葛藤し続けるのではないかと思います。また、人類が滅んだとしても「人類がそうであった事実」は変わらないため、無限なのだと解釈しました。

  • 愚かな人と、そうではない人の違いは何だと思いますか?

 先に答えた「愚かさ」に沿って回答すると、欲求と理想の間の葛藤がない人は愚かではないということになりますね。実際、愚かでない人などいないと思っていますが。
 誰でも人生の中で理想自己と現実自己のギャップに葛藤することがあると考えていますが、その葛藤の経験がない人は確かに愚かではないのかもしれません。ただ葛藤なく生きているような完璧な人間は、ある意味孤独なのではないかと思います。
 人間誰しも長所・短所があり、長所は尊敬されるところ、短所は愛されるところと言われています。葛藤したという事実や、悩みの種となったものはその人の人間的な魅力になると思っています。その魅力は全ての人に理解されるものではないかもしれませんが、その葛藤を愛おしいと思う人はいます。私自身はこのように考えているため、愚かさはその人の持つ愛おしいところだと考えています。葛藤をしたことがない人を否定するつもりはありませんが、私からすれば尊敬はすれど親近感はわかない完璧な人という印象になります。


  • 真実、半分だけ真実、虚偽:この3つを区別する基準は何だと思いますか?

時間の経過による情報の更新、主観の入ったものの見方

  • 純粋な真実や、純粋な虚偽は存在すると思いますか?

存在しないこともないが、それが正確に認識できているかはわからない。できてないことの方が多い。事実なんて主観でどうとでもなるもののように思う。

  • いくつかの具体的な事実やデータが組み合わされた結果として虚偽が生まれるメカニズムを教えてください。

人による伝聞→事実と主観の混在


  • アイデアが優れているかどうかにおいて、必ずしも正確性は重要ではありません:この考えについて、あなたはどう思いますか?

 おおむね同意します。そもそも、何をもって正確であると判断するのかあまりピンときません。アイディアが不完全なものだとしても、アイディア自体はいくらでも応用できるし、あまり堅苦しい考え方はしなくていいのかなと思います。ただ、そのアイディアを実現しようとするときは、起こりうる問題やアイディア自体の実現性も、そのアイディアが優れているかの評価基準になるのではないでしょうか。
 「優れているアイディア」といっても、ある地域の環境問題を大きく改善するという規模のアイディアもあれば、日常の一部分を少し豊かにするという規模のアイディアもあります。前者の例として挙げられるものは、紙おむつの構造を砂漠の緑化に利用できるのではないかというアイディアがあります。後者の例は、かき氷を食べるときに使うスプーンが挙げられます。どちらも素晴らしい発想力によって生まれたアイディアですが、二つのアイディアの評価基準は同じではありません。そのアイディアが優れているかの判断は、そのアイディアがどのような状況で使われるか、需要とあっているかなどによって左右されると思います。


  • 想像力という言葉の意味を、あなたなりに解説してください。

 想像力とは、あるモノから連想して別のモノを思い浮かべたり、物事を多角的に見たりする力です。
 有名な連想ゲームに「マジカルバナナ」というものがあります。よくある流れとしては、バナナ→黄色→レモンなどでしょうか。これはバナナという対象から黄色という要素を抽出し、同じ要素を持つレモンを連想しています。つまり連想とは、異なる二つのモノに共通する要素を抽出し部分的な重なりを見ることであり、想像力という言葉の持つ意味の一つでもあります。
 多角的に見ることの例としては、一連の出来事の渦中にいたそれぞれの人の立場に、自分を置き換えて違う見方を考えるということが挙げられます。また、「短所は長所に言い換えられる」という主張も、物事を多角的に見ることを前提としたものです。当たり前ですが、物事にはプラスの側面とマイナスの側面がありますし、長所が裏目に出れば短所に見えることもあります。パッと見マイナスな要素でも、プラスな要素を見いだせれば活用できます。逆にマイナスな要素を知っておくことは、それ自体がマイナスに作用することを防ぐのに有用です。

  • 全ての人が想像力を持っていると思いますか?

 おそらく持っていると思います。先の回答で挙げた「マジカルバナナ」というゲームができればある程度の想像力があるとみなしていいのではないでしょうか。
 例えば、私に「クジラが大好きな娘」がいたとします。私はテレビやSNS、街中の広告でクジラを見かければ、娘の顔を思い浮かべるのではないでしょうか。このような反応も、想像(連想)の一種であると考えています。娘とクジラは異なる事物ですが、事前に得た情報によって二つを結び付けている(連想している)と解釈できます。このようなことは誰にでも起こりうることであり、したがって誰しもが少なからず想像力を持っているといえるのではないでしょうか。

あなたは自分に想像力があると思いますか?また、それはどのような形で発揮されることが多いですか?

 ある程度はあると思います。
 意識して想像力を使っている自覚があるのは、大学のレポートを書くときや、落ち込んだ友達に声をかけるときなどです。レポートを書くときは、講義の内容と、その他の情報源を結び付けた考察をすることが多いです。落ち込んだ友達を励ますときは、相手の持つ長所について触れつつ、それが裏目に出ることもあると説明します。
 先に回答した想像力と少しずれた解釈になりますが、「こうなるかもしれない」というように、将来起こりうることについて考えることがあります。起こりうることについてはなぜそう感じたのか説明は難しく、今までの人生で得た情報やその傾向から反射的にイメージが膨らんでしまっているといった方が正しいかもしれません。そういった、今後起こりうることに関する嫌な想像をしてしまうことは時々あります。


  • 誰かが(またはあなた自身が)他の人と異なっていて、その違いが目立っている時に、あなたはどう感じますか?

誰か→尊敬、憧れ、別世界の人、自分→目立ちたくはないかも、気まずくて離れるかもしれない

  • 「この人は他の人とは違う」あるいは「この人は他の人と同じだ」ということを、あなたはどのような基準で区別していますか?

あまり「同じ」と分類することはない、あくまで私から見て特別な人を他の人と違うと区別している

  • 「他の人とは違う」という在り方が容認されるのは、どのような状況や条件が満たされた時だと思いますか?

それによって他者の権利を侵していないとき、他者の利益になるとき
見世物小屋、革命の英雄




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  • 人はどのようにして変化するのだと思いますか?

 どのようにでも変化します。変化の例をあげるのに困るほど、いかようにも変化すると思います。変化しないことの方が難しいのではないでしょうか。例えば、知り合いの卒業アルバムを見るという場面で「えー!全然変わらない!」というような驚き方をすることもあるでしょう。芸能人の若い頃の写真や映像を見て「今もなおその美貌は顕在!」という文言が使われることにも馴染みがあります。これらのセリフは、時間の経過による変化が当然であり、それから逸脱しているものに対する驚きの反応であると解釈することができます。

  • あなたは、こうした変化についてどう思いますか?

 基本的には何も思いません。先にも書きましたが、変化すること自体が当たり前であり、その法則から逸脱しているようなものに驚きはするものの、日々少しずつ変化していくこと自体は普段さほど意識していません。

  • 他の人は、こうした変化に気付いていると思いますか?

 時の流れという意味では気づいているのではないでしょうか。「若いうちに…」というような言い回しは時の流れによる変化を認識していないと出てこないと思うので。主観ですが、歳をとるほど時間の流れによる変化を意識する回数は多くなるように思います。
 しかしながら、小さい子供でも時間の経過による変化は認識できると考えます。子どもが自分の身長が伸びて喜んでいる様子から、自身の変化を認識していることはわかります。
 私の思う「変化」とは、時間の経過による身体の衰えはもちろん、外的要因による内面の様子の移り変わり、つまり視覚的には認識できないものも含んでいます。1秒、1分、1時間、1日単位での変化は微かなもので、その時点で変化を認識することは難しいとも感じますが。
 私が自身の変化に気づくのは、今現在の状況と、少し期間を開けた過去の一地点の状況を比べたときです。変化というものは砂のように少しずつ積みあがっていくもので、長い目で見た場合の変化は比較的わかりやすいですが、短い期間での変化のすべてを明確に認識することは難しいように思います。


  • 「時間」という概念の意味を、あなたなりに解説してください。

 当たり前にそこに存在するものでしょうか。時計の針や数字は、あくまで惑星の自転・公転の周期をわかりやすく認識できるようにしたシステムであり、私の思う本来の「時間」という認識とは少しずれています。月並みな言葉ですが、過ぎた時間は戻ってきません。針が同じ時刻を指していても、同じ時間ではありません。時間とは、遡ることも止めることもできないものです。

  • あなたは「時間」という概念に対して、どのように感じますか?

 無限に似た有限であり、いつまで存続しうるかはわかりません。おそらく私が死んだ後もしばらくは存在していると思いますが、いつまで続くものなのかわかりません。「時間」を「人間が積み上げえてきたもの、これから積み上げていくもの」と定義するなら、人類が滅亡した世界では時間は存在しないと言えるのかもしれません。

  • あなたは「時間」に囚われずにいることができますか?

 できないと思います。囚われているという書き方はマイナスな印象を受けますが、ネガティブな解釈をしているわけではありません。時間とは当たり前に存在しているもので、私たちはそれを可視化して日常生活の指標にしています。それに合わせる形で人々が生活している以上、誰もが「時刻」という時間の指標に囚われていると解釈することができます。
 「時刻」という時間の指標に囚われずに生きたとしても、時間の流れに伴っていずれ年老いて死んでいくという点では、時間に囚われないで生きるということは不可能であるといえます。


  • どれくらい時間がかかりそうか予測を立てる時、他の人の手助けが必要ですか?

 ものに寄ります。基本的に場所から場所への移動であれば人の助けがなくてもある程度の予測は立てられます。ただ、はじめて任される仕事ではどれくらいの時間がかかるか正確な予測を立てられる自信がありません。はじめてのことに戸惑って行動はスムーズではなくなるだろうし、事前にその仕事をしている人を見ていたら、それよりは長くかかって当然だろうとは思います。

  • 他の人が立てた時間の予測を、あなたは信じるほうですか?

 とても信頼しているというわけでもないですが、積極的に疑うこともしません。人から提案されたスケジュールがあまりにも非現実的である場合は修正をお願いしたり、代替案を提示したりします。
 ただ少し思うのは、きっちりとしすぎたスケジュールは息が詰まるようで苦手です。過去にだいぶ綿密なスケジュールを提示された経験があります。渋々承諾はしたものの、結局大幅に時間をオーバーしてしまいました。
 私が快適だと思うスケジュールは、一連の流れとして連なっているものでなく、イベントの一つ一つをタスクとしてとらえているもののように思います。いざその状況になったとき、タスクが前後したり、タスク間の時間が長くなったり短くなったりの調整がきくスケジュールだと、気負いなく快適に過ごせるのではないでしょうか。


  • あなたは遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまうほうですか?

 遅刻はあまりしない方だと思います。締め切りは時々オーバーしてしまうことがあります。締め切りを忘れてしまう場合は、だいたいそのタスクごと忘れていることが多いです。「これぐらいで間に合うだろう」という感覚がぼんやりとあって、それまで先延ばしにしてしまうことはよくあります。

  • 他の人が遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまった時、あなたはどう感じますか?

 私にしか迷惑がかからない分には遅刻も締め切りオーバーも、とくに何も思いません。間接的にでも誰かに迷惑がかかるようなものの場合は、わざと前倒しのスケジュールを伝えたり、途中経過を聞いたりして期日厳守のための些細な対策を講じます。
 遅刻は、連絡さえもらえれば待っていられます。ただこれはあくまで私個人の感覚であり、他の人がどうかはわかりません。そのため、人との予定は遅れないように注意しています。
 私が友人と会う日の前日によくやるのは、「××時までに起床報告の連絡がない場合は寝過ごしているから電話で起こしてほしい」とメッセージを送ることです。そんなことはないように努めますが、仮に私が寝過ごしてしまった場合でも、相手がそれを認識できれば相手の行動選択の幅が少し広がります。スケジュール通りに行動することも、スケジュールを柔軟に変更することも、どちらもできるように意識しています。


「人と会う約束をした」という状況を想像したうえで、以下の①~⑤の時のあなたの気持ちと行動を回答してください。

  • ① 会う約束をした瞬間

 お互いの予定を合わせる段階がめんどうではあるので、それが終わって脱力していると思います。
 集合時間と集合場所を確認し、カレンダーに書きます。その後はぼんやりその日着ていく服を考えたり、以前会ったことのある人であればその時のことを思い出したりします。

  • ② 約束した時間の20分前

 おそらく移動中です。適当に自分の現在地を相手に報告したり、イヤホンで音楽を聴いていたりすると思います。気持ちは落ち着いています。会う人によってはソワソワしているかもしれません。

  • ③ 約束した時間の5分前

 馴染みのない土地だったらおそらく既に集合場所に着いています。慣れた場所だったらもうすぐ到着するかなという頃合いでしょうか。人が多い場所だったら相手を探すのに周りをきょろきょろ見渡していると思います。相手を視認できたら少し気分が浮つくと思います。

  • ④ 約束した時間になったのに、相手が来ない時

 約束した時刻になった時点で「どこらへんにいる?」というメッセージをおくります。相手から返信が来ない場合不安になります。

  • ⑤ 約束した時間から20分過ぎたのに、それでもまだ相手が来ない時

 連絡が返ってきていて、相手がこちらに向かっていることがわかっている場合は待ちます。連絡さえあれば不安はあまりないと思います。寒かったり暑かったりする場合は場所を一時的に移動するかもしれません。
 連絡が返ってこない場合、場所を移動することを伝えて休憩できる場所に移動します。虚無感を抱いているかもしれません。頭の中では、相手が来ない場合の代替案ができあがっているかもしれません。

  • ⑥ ⑤の後、さらに時間が経っても、相手が来ない時

 連絡さえあればまったり待ちます。なかった場合は1時間経った時点で帰る旨を伝え、代替案のプランに切り替えます。変わらず虚無感に襲われていると思います。


  • 時間とは、祝福だと思いますか?それとも呪いだと思いますか?

 どちらの側面もあると思います。
 例えば大切な人を失ったとき、「心にぽっかり穴があいたようだ」と表現します。喪失体験による大きな悲しみを解決するには、時間の経過を待つしかないように思うのですが、時間の経過がもたらすものは果たして回復なのか麻痺なのか、私にはわかりません。長い年月をかけて心の穴が埋まっていったのか、はたまた心に穴があいた状態に慣れてしまっただけなのか、はっきり区別することはできません。時薬(ときぐすり)という概念は、ある種そう信じたいという願望もあっての言葉なのかなと考えます。
 絶えず時間によってもたらされる変化は、「止まない雨はない」という祝福に見えることもあれば、「一寸先は闇」という呪いに見えることもあります。

  • 運の良し悪しは、あなたの人生にどのような影響を与えると思いますか?また、そもそも「運」とは何だと思いますか?

 「運」とは、莫大な量の変数だと思います。
 この世界に存在するあらゆる事物のポテンシャルとその相互作用によって今のこの状況が形成されています。私もこの世界の一員である以上、ある程度のポテンシャルと相互作用の中に存在し、この世界の変数そのものということになります。良くも悪くも、影響は受けざるを得ないし、与えざるを得ません。いかようにも影響を受けるし、影響を与えます。
 「運も実力の内」という言葉がありますが、先に書いたようなものを「運」の定義とするなら、自身の影響力を持って自分自身や周囲の変数を調整することで未来に影響を与える力も本人の実力の内、という解釈になるんでしょうか。



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