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【エッセイ】明治国道でたどる東海道 13 #2 原 沈む国道
東海道の中でも直線的な線形が印象的な「原」の道.単調にもみえるこの道も1万年以上前は「海」となっていた場所であった.それが8000年以上の長年の悠久の時をかけて駿河湾の沿岸部に「砂州」が成長し,その内陸部に浮島ヶ原と呼ばれている「沼」と「湿地帯」を形成したとされる.
明治期以降になって浮島ヶ原は埋め立てられたが,その造成された国土は軟弱な地盤であるがため,その上に築かれる「道」は荷重で地面が沈む「地盤沈下」と正面から向き合わなければならなくなった.しかし,その試練ともいえる逆境は,土木工学において新しいテクノロジーを生み出す源泉ともなった.
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52655658/picture_pc_5252c3e621bd3a735747281883ec2fd7.png?width=800)
沈む東海道線
明治時代の地形図に描かれている地形は弥生時代には形成された.だが,地球のスケールからすれば,弥生時代の国土は赤子のようなものだ.2000年前といえども,生誕まもない臍の緒が付いたほどの時間しか経っていない.
地名に残る「浮島ヶ原」という名からもこの地がまだ首が座っていない脆弱な地であることを物語っている.
そのような脆弱な地盤にあって,明治以降に土木工学はその時代時代の最先端の技術を投入し,拓地化させて今の姿にある.それでも,当然のことながら地下には硬い岩盤があるわけでなく,地面の表層を機械的に土を固めただけに過ぎない.
軟弱な地盤は近代的なインフラの荷重に耐えきれず,時として「地盤沈下」の形で構造物を変形させてしまう.そのことが最初に顕著になったのは鉄の道,「鉄道」であった.
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明治22年に全通した東海道本線(開業当時は東海道鉄道)は,国道筋と並行する砂地帯に敷設され,その軌道には蒸気機関車が疾駆した.通過する時間は数秒と短時間とはいえ,総重量100トンを超える鉄塊の荷重が枕木を通じてロバストに圧力が伝搬する.
鉄道という新しいインフラストラクチャーは,路盤を水平に保たなければ高速運行に支障をきたし,最悪の場合には脱線という大惨事に至る.
そこには荷重による”地盤沈下”という江戸期では配慮をする必要がなかった地質とも関わる現象の理解が必要となった.
『土木建築工事画報』という戦前に発行されていた土木専門誌がある.昭和5年の「保線作業と地盤」という特集記事では,鉄道における地盤の理解を解説する特集が組まれ,そのケーススタディの例として浮島ヶ原が取り上げられている [1].
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![画像12](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52396065/picture_pc_4b00a53d630f0364f3e6abc3e1bf6dd2.png)
想起されるように,この区間は「屡々(しばしば)沈下の現象を起こす」場所であり、中でも昭和放水路の付近(地図上の”ロ”)は,区間の中でも「例年線路の甚しい沈下を繰り返している」とある.
昭和5年という年は東海道鉄道が開業してから約40年の時間が経っている.それでも,まだ毎年のように”地盤沈下”に苦しめられていたことを教材という訓話の形で述べている.
地図上の”ロ”は,昭和18年に竣工した昭和放水路によって砂地が取り払われ,水路をまたぐ箇所は架橋された.この軟弱にかかる課題は部分的に解消されたかもしれないが,放水路ができるまでのほんの数年前までは鉄道の保全の重要な課題として直面していたことになる.
![画像15](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52426877/picture_pc_654c6eb9e94dade82c0d5347b00f9632.jpg?width=800)
沼津バイパス:難航するルート選定
そのような地盤沈下は,何も明治期の土木技術の未熟にあって鉄道だけに見られた現象ではない.
現在の国道1号の沼津バイパスは東海道線のほんの数百メートルの北側に位置するが,その建設においても軟弱な地盤がもたらす地盤沈下が技術者の前に立ちはばかることになった.
沼津バイパスは高度成長期の昭和40(1965)年に着工が始まり,5年後に沼津市内で部分開通を経て,昭和55(1980)年に沼津市ー富士市間が全通した.
沼津バイパスのルートを明治期の地図に投影すると,東海道線よりもかつての沼や湿地帯を多くまたぐルーティングとなっている.
![画像17](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52442907/picture_pc_641ab331307d9d0471772f38a60b41d9.png?width=800)
昭和40年~昭和45年にかけておこなわれたバイパスのルート選定では,別ルートも検討されていた.その案は愛鷹山の麓に沿う道筋で,新幹線が敷設された場所に並行するルートである(北部ルート).
北部ルートであれば地盤が強固であることから工事の進捗は見通しが立ちやすい.道筋としても合理的となっている.しかしながら,宅地が多いこともあり,用地買収が難航することが予想されていた.
その点,南ルートはかつては湿地帯を経ることから権利関係も少ない.用地買収では比較的にスムーズに進むと認識されていたが,やはり10km以上にわたる脆弱な地盤を通過することを課題としていた.
まさに北ルートと南ルートはトレードオフの関係にあった.
一方で,沼津バイパスはその東西で別のバイパスと接続することになっていて,西の三島バイパスと東の富士由比バイパスは既にルートが決着済となっていた.
残る沼津バイパスのみが遅延している状況にあり,そのことが衆議院予算委員会でも,度々,野党から突き上げられていた.昭和44年の予算委員会では,社会党の渡辺芳男氏から次のような発言が建設省(政府委員)に向けられている.
「調査を三本完了しているんじゃないですか.要するに,浮島沼の北側,つまり新幹線の南側ですか,あれを通るルートと,国鉄の東海道線の北側を通る二つのルート,このまん中を通るわけにはいきません,浮島沼ですからね.
しかし聞くところによると,どうも最近東海道線の北側を通るルートというほうが、だいぶその可能性があるというふうに聞いているんですよ.
ルートを早くきめてもらいたいというのは,つまり興津から富士に至る通称富士バイパス,それから岡ノ宮から清水町を経て三島バイパスにいくところですね.東名高速道路関係ですね.」
並行して進められていた東名高速道路は,その年の昭和44年5月には全通することが見込まれていた時期であった.完成すれば,高速から一般道への交通流入が多くなることは火を見るよりも明らかであった.
そのため,その受け皿となる一般道の国道1号もバイパス整備を早急に進めなければ,沼津は交通麻痺に陥る.渡辺氏の発言にはそのような背景があった.
最終的には用地買収が容易な南ルート,すなわち,現行ルートでの決着が図られる.
沈む国道
道路の建設では,路盤強化のために盛土(もりど)をする.すなわち,低い地土砂を盛り上げて高くし,平坦な地表を作る作業が行なわれる.その土の自重も積み重なれば相当な重量となる.
沼津バイパスでその作業は昭和46年12月から進められる.段階的に3mの盛土が施されたが,予期されたように地盤沈下が確認された[2].
![画像14](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52398354/picture_pc_1471f7888954dfa47e80446e61abb761.png?width=800)
詳しくみてみると,はじめにサンドマット上に第一段の盛土(約1m)敷かれたが,それだけでたった1ヶ月で約40cm沈降している.
さらに1ヶ月後の昭和47年1月,第二段の盛土で2mほど嵩上げすると沈下速度はさらに加速し,盛土工事の開始から3ヶ月後には100cm(1m)の沈下に達している.
沈降曲線はその後に緩やかになり,ようやく平衡に達したのは10ヶ月後のこと.沈下量は最終的には130cm,子供の背丈ほどの高さが沈んだ計算になる.
![画像16](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52438007/picture_pc_726825e3a23188d3cd43a87cc892923b.jpg)
幸いにも昭和55年の開通後は,ほぼ沈下は認められず2年間での沈下量は2cm~4cm程度で収まったとされる.
第一期の竣工を終えたあと,沼津バイパスは開通当初の2車線から4車線化へと道幅が広げられてゆく.
この第二期ともいえる拡幅工事では,盛土の荷重による地盤沈下をできる限り和らげるために,軽量な発泡スチロールを盛土の代わりに使う新工法が試され,日本ではじめて実用化された [3].そして,この沼津バイパスでの成功が,日本各地の軟弱な地盤へ発泡スチロール工法を普及させることになる.
”Necessity is the mother of invention”.
まさに必要性があって技術が生み出された好例ともいえよう.試練ともいえる逆境は,土木工学において新しいテクノロジーを生み出す源泉となった.
おわりに
須津沼については調べてみると,「浮島沼」や「富士沼」などの幾つもの名称で呼ばれていた.また,かつては「浮島ヶ原」と呼ばれていた湿地帯の名がつけられた時代があり,東海道が整備されてから宿場名として「原」と呼ばれるようになったという.
そのような時代の写真を静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーに収蔵されていた.愛鷹山の裾野から見える富士と,手前の沼には逆富士が投影されている幻想的な景色だ.
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51090479/picture_pc_a208709185b30df4346d3188b9bb26a1.jpg?width=800)
沼といえば沼であるが,湖ともとれるような光景.もし,浜名湖のように砂州が海を隔てて閉塞することがなければ,この一帯は淡水湖ともなっていたこととも思われる.
そのように考えると自然のほんの少しの作用の違いが風景を一変させる.
参考文献
[1] 江畑弘毅:”岩盤及地盤に対する一般的判定法(7):保線作業と地盤”,工事画報,昭和5年8月号.
[2] 真下陽一,久楽勝行,三木博史:”軟弱地盤上の低盛土道路の沈下特性”,土木学会年次学術講演会講演概要集 第3部,vol. 34,p.106-107,1979.
[3] 谷口 博昭,服部 利周:”国道1号沼津バイパスのEPS工法”,土木技術,vol. 43,10, p64~71,1988.
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