幸福を祈ってもよいらしい
昨晩は、まきさんとはるかとつながって話した。
色んな話をしたけど
ワークを朗読する感じになり、3人でレッスン166を読み合わせした。
わしはこの頃テキストとかワークとか読んでるとすぐに泣いてしまう。
バイブレーションに敏感なので、繋がる相手によって自分がとても影響を受けるようで
「誰と繋がるか」「何を目的として過ごすか」というのが、とても大事みたい。
だからイエスと繋がることを前提に、聖霊に聞くことを目的とする仲間とオープンマインドにやり取りすることが本当にありがたい。
なるべく兄弟と繋がって祈る時間を持つことが、とても自分のためになる感じがする。
別に、内容のある話を話したりする必要性はなく、繋がっているだけでもよくて
とにかくイエスを迎え入れます、という前提の場に自分を置いてあげることは、私にとって「自分にやさしくする」ことだと、とても感じます。
で、昨晩の3人での話の中で
「私は平安や愛をわからせて欲しいとは求めてきたけれど、自分の【幸福】を求めて本気で祈ったことはなかった」
ということが突然判明した。
しあわせにしてくださいって
祈ってもよかったのか!
となり
まきさんに「あたりまえじゃん!」と笑われて「そっか〜…」となった。
その発想がなかった。
幸せになりたいという欲求無くして、それが知覚されるわけもなかった。
わしはこれまで何を祈っていたんだ…??我ながら謎です。
で、せっかくなのでその場で祈らせてもらった。
でも口から出てくる言葉は
イエス様、あなたと一緒にいることが私の幸福です。
私を幸せにしてください。
あなたと一緒にずっと居させてください。
というやつで
そんなことを祈るつもりはなく
とにかく私を幸福にしてください(現世的に)と祈ろうと思ってたと思うのに
「私と一緒にいることをわからせてください。あなたと一緒にいることが私の幸福だから」と泣きながら祈っていた。
たしかに
いま大金持ちになったり
地位や名誉を与えられたり
美貌と健康と素晴らしい肉体とか
美味しいものとかたくさんもらっても
私は別に幸せにはならないよな
と思う。
一時的にはしあわせのシンボルとしてうれしいきもちになるかもしれないけど、それは永続する喜びではないもんね。
あってもいいけど、という程度。
外側の、何かしらを変えたところで…
イエス様と一緒にいるときの
ハート丸ごと、わけがわからないありがとうございますまみれになってる
みたいなやつには届かない。
て感じる。
与えられた外側の何かを用いてイエス様の役立てられるんなら、それも喜んでもらうけれど、そういうツールとして以外の価値を外側の何かに見出せなくなっているかもしれん。
ただ、同時に
こういうことを書くのは私がスピリチュアル的に優位性を保ちたいからではないか?
という疑いもわく。
書いたことに嘘はないけど
私の中に「霊的に優れた存在でありたい」という競争意識とかプライドはすごく強くあるのを感じる。
権威の問題なんだろう
目覚めてなきゃ、だれしもどんぐりの背比べだよと聞くけれど
その中でも
より価値あるどんぐり、であろうとするのをみてる。
どんぐり地獄である
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