「七実の卵」七実の胸の内

七実の自己認識

 目覚めて突然布団の中にあった「心当たりのない『卵』」の正体を知ろうとする七実だが、「男女」のウテナ・「子ども」の石蕗・「人間が卵を産むはずはない」と断言した幹に「人間なのに卵を産むなんておかしい」と言われることを恐れ、その一方で自分を心配する取り巻き3人には「この年になるまで(既に十分成長しているはずなのに)今まで卵を産んだことがないなんておかしい」と言われることを恐れる。
 この二つの嘲弄は互いに矛盾するため現実的に考えれば両立しないが、いずれも「自分が異常であると他人に思われるのが怖い」という意味では同じであり、七実の「自分は普通・常識的であり、周囲からもそのように認められたい(そのためであれば「卵」を産んだか産まないか、それに対する自分の違和感などは些細なこととみなしても良い)」という不安の表れでもあるのだろう。
 取り巻き3人から逃げ出して樹璃とぶつかるまでの間にも「許されない、許されないわ、わたしだけ知らないことがあるだなんて」と内心焦りながら渡り廊下を走り、冬芽に「卵を産むような女の子」を否定された時には「樹里や茎子たちだって産んでるのに、何でわたくしだけが」と不満をこぼす。七実にとって「みんなと同じルートを安全に、かつ先に進めている」ことは、「みんなとは異なる方面で優れている」ことよりも重要であることが窺える。

七実から見た「卵」

  • 「卵」が大きくなることを望む(←「孵化すること」ではない)

  • 孵った「卵」(の中身)が他者(冬芽)に愛されることを望む

  • 「卵」が割れる・潰れる・食べられることを恐れて守ろうとする

 謎の「卵」に対する(他者の反応などを抜きにした)七実の感情は以上の三つであり、これらは「親が子どもに向ける感情」そのものだ。つまり七実の中には「卵=我が子」かつ「自分=『卵』の(母)親」という感覚があることになる。
 七実は「卵」に対して「(母)親」として振る舞うが、ではなぜ「人間の赤ん坊」の姿ではなく「卵」で表しているのか。
 鳥の雛や哺乳類の赤ん坊には、声を上げて主張する「自己」があるが、「卵」には口もないし声もない。人間から見た「卵」は「世話をされなければ死んでしまう子ども」の概念ではあるが、これから育ってゆく「幼生(生きた個体)」とは区別される存在である。冬芽に対しても「(『卵』が孵って生まれてくるのは)男の子と女の子、どっちがいいですか?」と七実は尋ねるわけだから、「卵」は「既に生み出された(肉体を持つ)新生児」よりも「(まだ外界で生活できるほど肉体が完成していない)胎児」の方が近いのかもしれない。
 が、だとするとなぜ「七実自身が妊婦になる」のではなく「(七実の体とは別の存在である)卵」なのか、という話になってくるが、恐らくこのエピソード自体が「変化する自分の肉体に対する七実の不安の物語」だからである。

性的成熟への不安

「七実の体が変化する」といえば「幸せのカウベル」だが、あれは仏教説話的な側面がある変身譚であるのに対して、「七実の卵」における「肉体の変化」とは「女性(=妊娠・出産できる性)としての成熟」という、誰も避けることのできない人生のイベントとしての「変化」を指している。
 生殖可能な肉体になるということは、子どもの親となる可能性が発生することである。一人の人間を生み育て、その人生に責任を持つということである。七実は自分が子どもの親になること、自分がその可能性を得てしまうことを恐れているのだ。
 だがその恐れは単純な忌避ではない。むしろ七実自身は「子ども」の誕生を心待ちにすらしていることが、「わたくしの卵」と呼んで楽しそうにしているシーンでは窺える。楽しみであるからこそ、その誕生を他の人々に祝ってもらえないことを恐れている。そして、「親になる」にあたって誰かの支えや教導を得られないことを恐れているのだ。
「七実の卵」では教師が出てこない。七実の両親も出てこない。保健の授業というフレーズは出てきても実際の授業には至らない。出てくるのは七実と同い年かそれより最大でも五つ上くらいまでの学生ばかり。現実に七実を教導し庇護してくれそうな「大人」が一人も出てこないのだ。
 そして七実自身も「卵=子ども」の話を他人にできない。唯一話したのは冬芽だけだが、その冬芽は「卵を産むような女の子」には否定的である。ここから七実が周囲の人間、特に大人に対して信頼感を持っていないこと、唯一冬芽だけを頼れると思っているが、その冬芽も自分を助けてはくれないだろうと考えていることが伺える。誰も頼れないと感じながら、「母」になる自分の体を恐怖しつつ受け入れなくてはならない七実の孤独と不安は想像するだけでもつらい。
一度は「母」になる可能性を自ら捨てることで冬芽(=家族)の庇護を受ける「良き娘」であろうとするも、結局七実は部屋を抜け出して「卵=子ども」を取り戻し「もう絶対捨てたりしないから」と固く誓う。これは信じきれない家族を振り切って新たな(理想の)家族を自ら作ろうという決意の表れであり、七実の精神的成長を示している。

欠落した物語

 と、同時に、この物語には決定的に欠けたものがある。それこそがアンシーの語った「それにしても、(卵の)父親は一体誰なんでしょう?」という言葉である。
 人間は有性生殖である。卵生生物の多くもまた有性生殖である。まあ最近雌一羽きりで単為生殖で産んだ卵が孵った鳥さんとかもいたんですけどそれは例外中の例外。結局雛もあまり成長できずに死んでしまったそうだし。
人間が子をなすには男と女が必要であり、女は妊娠期間があって、子宮から産道を通り膣から子どもが生み出される。卵から子どもは生まれないのだ。
 現在の「信頼できない」家族を振り捨てて、自分で自分の「理想の家族」を実現する決意を固めた七実だが、そこには「子どもの父親=自分のパートナー」という存在が完全に欠落しているのである。自分と対等で、子どもに対する責任を同じだけ背負い、ともに家庭を築くべき相手の存在が、この物語には致命的に欠けている。
 人間同士の妊娠・出産は異性との性行為を前提としている。現代では体外受精技術も発達したので必ずしもその限りではないにせよ、性行為による自然妊娠が最も一般的であると考えていいだろう。性行為とは、自分でないし自分とは全然違う肉体構造を持つ他者に、自分の急所を晒して委ねる行為である。一方的な強姦ですら、少なくとも一方は「相手が自分を傷つけない」ということをある程度以上信じていなければ至れない行為だ。教師を信じられず、親を信じられず、兄ですら唯一打ち明け話ができると思いながらきっと受け入れてもらえないと考えている七実が、全くの他人の異性との間にそんな関係を持つことはできない。少なくとも今は考えることすらできない。それが「父親不在の卵」という存在であり、既に異性交遊が多く同い年で知らない仲でもないはずの梢が出てこない理由でもあるのだろう。
 信頼できない今の家族から離れたい。そして自分こそが理想の家族を実現するのだ。そう決意する一方で、七実は他人への不信感を拭い切れず孤独である。異性との接触も、妊娠して変化する自分の肉体も、想像もできないし受け入れることもできない。だから「父親のいない(=他者との接触・交流を必要としない)卵(=妊娠・出産を経ずに生まれる子ども)」という存在が発生してしまった。

卵の正体

 ではこの「父親のない卵」は結局何なのか。個人的には、この卵は「七実本人」ではないか、と思っている。もっと言うと、「理想的な家族を得たかった幼い七実」というべきかもしれない。
 何度も繰り返すが、この物語に七実の両親は出てこない。冬芽のように出てくるけど否定してくるとかそういうポジションですら出てこない。全くいないものとして扱われている。
 そして七実は「オレたちがこうして平和に暮らせるのは、お前が卵を産むような女の子じゃないからだ」という冬芽の言葉を振り切って「『卵』の親」となることを選ぶ。兄(と両親)の庇護による平和な暮らしよりも「子ども(=卵)を絶対捨てたりしない」親になることを選んだのだ。
 それは、七実がしたかった選択というより、七実が「親」にしてほしかった選択のように思う。巨大になっても、謎の光を放つようになっても、たとえ怯えながらでも「絶対捨てたりしないから」と何度も語り掛けてくれる、そういう風に接してほしかった気持ちが、七実にああ言わせたのではないだろうか。
 逆を言えば、七実は「卵を産むような(家族の意に沿わない)女の子」だと知れた途端「捨てられる」不安を常に抱えていたのだろうことも窺える。誰なら信じていいかわからなくて、捨てられるのが怖くて、不安を誰にも打ち明けられない孤独な少女。肉体の成熟は誰にでも当たり前にあることで、それに合わせて自衛も必要だが多くの場合は誰の支援も受けられないなんてことはないのだと、誰かに教え導いてほしかった、七実のそういう思いが夢として現れたのが「七実の卵」という物語だったのではないかと思う。


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