「幸せのカウベル」解題

「解題」とか言えるほど立派なことをするわけじゃないんですけどちょっとカッコつけてみたくなって……。
 七実を主人公にしたエピソードとしては「七実の卵」もあるけれど、この「幸せのカウベル」はちょっと仏教説話っぽいのが特徴である。
 新しく買った豪華なアクセサリーを自慢したくなった七実がパーティを開くが、そこでの注目を樹璃に奪われた七実は丁度そこに届いたクリスチャン・ディオールのカウベルを意気揚々と自分の首にかけ、肌身離さず身に着ける。皆その異様な姿を指摘することもできずにいる間、七実はだんだんとその競争心や高圧的な態度が鳴りを潜め始め、食べて寝るばかりの暮らしをするようになっていく。ついには牛の群れに交じって草を食み、姿までもが牛のようになってしまう。これが「幸せのカウベル」の大まかなあらすじである。

キーワードは「ブランド物」

 なぜ七実がカウベルをためらいなく身に着け、そして頑なに外さないかと言えば、それは「ブランド物」であるからだ。
 ブランド物とは高級品である。購入するには高い資金力を必要とするものであり、それを身に着けることは「自分にはそれだけの経済力がある」というアピールだ。
 動物にとって「自分がいかに種の中で優れているか」をアピールする方法は違う。クジャクのオスは大きく広がる美しい羽根であり、カエルやセミのオスは大きく響く鳴き声である。これらは「敵に見つかりやすいハンディキャップ」であると同時に「これだけ大きなハンディキャップを抱えながらまだ狩られていない(それだけ生存能力に優れている)」ことをアピールするものだ。馬の足の速さは捕食者からの逃走能力のアピールで、一部の鳥が行うメスへの給餌はもちろん餌を見つける能力のアピールだ。種目は違えど、皆「自分の生存能力がどれだけ優れているか」をアピールするものである。
 では現代人類の「生存能力」とは何かと言えば、それはやはり経済力なのである。七実が「ブランド物のカウベル」を頑なに外さないのは経済強者としてのアピールであり、現代人類としての現実的な生活能力への固執の表れなのだ。
※「とはいえそれは両親の庇護のもと与えられたものに過ぎない(桐生家を出てしまえば自分はまったく無力である)」という不安感が「七実の卵」で「家族の和を保つために卵を捨てる」という行為にもつながっている。

「人間らしさ」を追求した結果失われる「人間らしさ」

「人間という種の中で優れた生存能力(経済力)を持っている」ことをアピールするためにカウベルを着け続けた七実は、やがて食べては寝るだけの生活を繰り返すようになる。過剰な競争心や他者への高圧的な態度がなくなったという意味では良い変化のようにも見えるが、その変化は留まるところを知らず、ついには授業への参加すらおぼつかないほど食べることと寝ること以外に興味を持たなくなる。
「経済力への執着とアピール」は、貨幣経済を発明した「人間」という動物の特徴を最も強く表す行為であったはずだ。食・睡眠・性欲に続く、もはや準本能とも言えるものである。それを続けた結果、社会生活に支障をきたすほど食べることと寝ること以外に興味を持たなくなるのは本末転倒である。
 食と睡眠は究極の自己保存で生命の基本ではあるが、これを文字通り最優先にすることは社会生活を破綻させることになる。人間が社会性動物である以上、社会生活の破綻は人間性の喪失にもつながるのだ。

「人間らしさ」が底を尽いてしまった七実

 食べることと寝ること以外に興味を持たなくなった七実は、ついには夢うつつで牧草地へ赴き、本物の牛の群れに交じって草を食む。そして首にかけているカウベルが「クリスチャン・ディオール」(=人間のブランド)ではなく「コウシチャン・ディオール」(=牛向けのブランド)である事実を突きつけられたことによって、彼女の中に最後まで残っていた「(人間社会で通用する)ブランド物を身に着けている」という一点が突き崩されて、姿までもが牛になってしまう。
 自分の経済力に酔い、だんだんと人間としての社会性を失って本能に支配されるようになり、ついには姿までもが本物の牛になってしまうというとんでもない流れは「現代アニメ」としては無茶苦茶であるが、仏教説話あたりだったらごく普通の出来事である。欲に駆られた者は、やがて欲の大本である本能に振り回されるようになり、最後には人間ではなくなってしまう。「幸せのカウベル」とはそういう物語だったのではないだろうか。

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