【ウテナ】憧れの入れ子/莢一と冬芽

 小学生の莢一は剣道の稽古の帰り道、空の棺に隠れる少女を幼馴染の冬芽とともに見つける。「生きてるのって、なんか気持ち悪いよね。どうせ死んじゃうのに、どうしてみんな生きてるんだろう。なんで今日までそのことに気づかなかったんだろう。永遠のものなんてあるわけないのにね」と少女は語る。
 棺の中で絶望して生を拒絶する少女に幼い莢一はうろたえ、困惑することしかできない。少女の訴えを一通り聞いた冬芽は振り向かずに立ち去ろうとし、「このままじゃあの子、馬鹿なことしちゃうんじゃないのか」と心配する莢一に「だったら、あの子に『永遠のもの』を見せてやれよ」と言い、冬芽に結んでもらった包帯は、莢一の手から解けてしまう。
 そうして翌日、「何かを感じさせる目」で棺から出た少女の姿を見て、莢一は「きっと冬芽が彼女に『永遠のもの』を見せたに違いない」と確信した。
 莢一から見た冬芽は、自分にできないことが何でもできるライバルである。同い年の同性で、幼馴染で、自分より何でも上手にできて、そつがなくて落ち着きがある。「いつも俺より先に、俺の知らない世界に行く」、それが西園寺莢一から見た桐生冬芽だ。

冬芽への対抗心

 彼女を救ったのはきっと冬芽に違いないと確信したその時から、莢一の時計は止まってしまっている。あの日以来莢一はずっと内心で「あの日」を繰り返し、「自分では救えなかった彼女を救った冬芽」を超えようとし続けているのだ。
 剣に対する興味を失った(一応剣道部に所属はしているがほぼ幽霊部員となった)冬芽に対し、莢一はあの日まで冬芽といっしょに続けていた剣道に打ち込み続けて全国優勝常連選手となった。プレイボーイ路線に舵を切った冬芽に反発するように「硬派」路線を取り、その演出の一環としてか自分に好意を寄せる女子(若葉)のラブレターを晒しものにして笑い飛ばすことで「(アンシー以外の)異性に興味がない」という自分のスタンスを表明した。生徒会では冬芽の次席である副会長の座ではあるが、決闘者としては「薔薇の花嫁」の所有者であったわけだから冬芽にも勝利しているはずだ。
 こうして条件の上では「あの冬芽」を超えて、あるいはこれで初めて対等になれたと莢一は思ったのではないだろうか。「いつか、あの空に浮かぶお城に行きたいの。あそこには『永遠のもの』があるの」と語るアンシーに、あの日見た「棺の中の(そして「冬芽によって棺から出られた」)少女」を重ね合わせ、今度は冬芽ではなく自分がアンシーに「永遠」を手渡して、そうしてやっと自分と冬芽は完全に対等たりうるのだと。
 ところが「薔薇の花嫁」アンシーはただ唯々諾々と「決闘の勝者」の言葉に従うだけで、何をどうしてもあの日生気を取り戻した「あの少女」のように蘇らない。冬芽だって剣道部の序列には興味がない様子で、決闘に負けたからと言ってやたらに悔しがったりもしない。自分が何を成し遂げても自分を見直したり認めたりする素振りのないアンシーと冬芽の姿に「所詮西園寺莢一は桐生冬芽のようにはなれない」というコンプレックスを刺激されてか、莢一はアンシーにどう接したらいいかわからなくなり暴力を働いてしまう。
 アンシーに暴力を振るう姿を見咎めた上、若葉を侮辱されて堪忍袋の緒が切れたウテナに決闘を申し込まれる莢一。負けてしまったことによってアンシーとのエンゲージも断たれ、「剣道部主将」であり「ディオスの剣」を使ってもいたのに竹刀を持った素人に決闘で負けた莢一のプライドには大きなヒビが入る。偽の「手紙」によって呼び出された決闘広場で、崩れた「空の城」に押しつぶされる幻覚を見せられ、パニックを起こしてついに真剣でウテナに斬りかかった莢一は、ウテナを庇った冬芽の背中を斬りつけてしまい退学処分となった。これにより「冬芽と対等」になるために必死で得たはずの全てを莢一は(冬芽の策略によって)失い、しかしそれ以外の何事にも興味を持たずこれまでを過ごしていたために頼れるような相手もなく、結局かつて笑いものにした若葉の情に縋って匿ってもらう。
 ここまで積み重ねてきた一切合切をなくした莢一は、手作りのブローチをプレゼントすることで一度は若葉の厚情への素直な感謝を表そうとするが、黒薔薇会の御影草時から「キミが作ったそのブローチをくれるなら、退学をなかったことにして生徒会へ戻すこともできる」と言われて一も二もなくブローチを御影に渡し、若葉には対面もせずよそよそしい電話を一本入れて終わりにした。

西園寺莢一という男

 ここまでの莢一の行動を並べていくと

  • 一つのことに執着すると他が見えなくなる、視野が狭い

  • 自分の都合で(物心両面において)他人を傷つけることに罪悪感がない

  • 根は素直で純情(単純とも言う)

  • 自分で自分の責任が取れない、現実の生活に無頓着(自活能力・有事に対する準備がない、トラブルを自覚しないまま自ら招き対策もしていない)

  • 他人のお膳立てには躊躇いなく乗り、その意図には興味がない(受けた恩に対する筋も通さないが、何らかの企みがあるかもしれないと疑うこともなく簡単に利用される)

  • 自分の行いに対する反省がイマイチ見られない

 という傾向があり、全体に判断が幼く自意識過剰、それこそ感覚が小学生で止まっているような印象を受ける。若葉に匿ってもらっていた時も、御影に根回しを提案された時も、莢一は「赤の他人が自分のためにそこまでにしてくれるなんて普通ではありえない→相手は何を期待してそうするのか」というところまで考えが至っていないので、若葉への感謝も途中で放り出し、御影の明らかに都合が良すぎる「提案」にも疑わずに乗ってしまう。
 既に述べたように、莢一の行動原理を支配しているのは「冬芽と対等になりたい(冬芽に追従するものであってはならない)」という一点で、これ以外の全てに対して彼は無頓着である。自分の生活や将来や周辺の人間関係にすら興味がない。ただ冬芽と対等になりたい、冬芽に認められたい、それ以外はどうでもいい(誰かが何とかしてくれるだろう)と思っている。
 だから退学になっても「実家に帰って他の学校に転入する」という選択をせずに中等部の(かつて自分が笑いものにした)女の子の部屋に転がり込んでまで鳳学園(冬芽の近く)に居座る。退学になって時間があるのだから学園の外でアルバイトをしてお金を貯めることもできたはずなのに日がな一日若葉の部屋で何もせずに座っているだけで、学園のルールを何重にも破っていてバレたらそれこそ退学にさせられかねない(人生を大きく狂わされかねない)状態である若葉への「お礼の気持ち」を「拾った枝を削って自分が作った葉っぱのブローチ(材料費0円)」で表そうとする。「運よく今までバレずに済んでいたから若葉は無事だし自分だって不法侵入で逮捕されていないだけ」という現状の危うさを理解していないのだ。「冬芽に勝ちたい、冬芽と対等になりたい」ということに集中しすぎて、却って校則も一般的な法律も含めた「ルール違反」を犯してしまい、自分から「冬芽に勝てない(反則によって強制退場させられ勝負にならない)自分」になってしまっている。
「今の自分にはこれくらいしかできないが」などと言う前に働くなり実家に帰るなりして、家族でもない赤の他人に累が及ぶのを全力で避けるのが、この場合の現代日本の心身健康な18歳男子としては常識的な振る舞いではないだろうか。これなら「誰もが跪くお高いブランド品だから(他人に対する最強の「私は経済強者」アピールになる=人間社会で無理を通すなら金の力が一番強い)」という理由でずっとカウベルをつけていた七実の方がよほど世間をよくわかっている。
 そして御影から「復学させて生徒会に戻れるようにしてやろうか?」と言われると全く考えなしに喜んで飛びつく。復学には本来どれだけの手続が必要なのか、そもそも本当に可能なのか、どうして御影草時にそれができるのか、その対価が素人の手作りのブローチ一個でなぜ成立するのか、御影にとってこのブローチがなぜそれだけの「価値」を持ちうるのか? そういう現実的な諸問題の一切に莢一は気が付かない。とにかく「鳳学園(=冬芽に自分を認めさせる土俵の上)に戻れる」ことで頭がいっぱいで、それ以外のありとあらゆる全てに対して興味がないのである。
 学園を出て「大人になって」冬芽と無縁の自分の将来や生活を思い描き、それを実現するための行動が莢一には出来ない。まずは冬芽に自分を認めさせる。これが完了しないことには、西園寺莢一は永遠にあの小学生の頃、葬儀を眺める冬芽の横顔に嫉妬するあの瞬間に取り残され続けているのだ。少なくとも、莢一本人はそう思っていたのだろう。

帰ってきた西園寺莢一

 すったもんだあって復学した後の莢一は、「世界の果て」への不信を前面に出して決闘不参加を宣言したり、冬芽に対しても「お前にとって全ては利用するだけのものでしかない」と面と向かって言うなど、全てを疑う姿勢になっている。「偽の手紙に騙されて懲りたのか」と樹璃に揶揄されても特に反論もしない。今までの「決闘で勝てば薔薇の花嫁が手に入る」「冬芽と対等になるには冬芽を超える成果を出さねばならない(そしてそのためなら何をしても許される)」「アンシーとの交換日記を冬芽に託す(そして燃やされる)」といった姿に比べると、身の周りの一つ一つを疑って自分の頭でよく吟味するようになったと言える。
 冬芽に対して遠慮のない物言いが増えるにつれ、冬芽の方が自分の運転するバイクのサイドカーに莢一を乗せるなど、今までにはない親密さや信頼感を見せるシーンも増えてきた。小学生の頃のように一つの自転車に二人で乗るシーンもある。莢一が「冬芽を超えなければならない」という執着を手放したことで、二人の関係がごく健全なものに戻ったようにも見える。
 もちろんこれには「あの『棺の少女』を救ったのは冬芽ではなかった」と知ったことや、冬芽の「世界の果て(暁生)」に対する疑念が大きくなっていったことも深く関わっているだろう。「棺の少女」を救ったのが冬芽でなかったのならば「冬芽と対等になりたい=自分もまた自分の『棺の少女』を見つけ出して救わなくてはならない」と思う必要はなくなり、冬芽も「世界の果て」に絶対服従しなくていいなら莢一を利用する必要はなくなる。逆を言えば、二人の関係をねじれさせたのも全て「世界の果て(暁生)」だった、ともいえる。

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