ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 3 フィギュール Figures Ⅱ
「来栖ミトから連絡がありました。応答しますか?」
私がこの地を訪れた初日、浜辺に敷きつめられた石ころも、入り江の小高い流紋岩も、灰白色だった。それが数日のあいだに内部から鈍い光を放ち始め、すぐにピンク、紫、橙の結晶が熟した。昼間の結晶は太陽と溶け合いながら光を吸収し、夜にゆっくりそれを吐き出すように浜辺を輝かせた。
「つないで」
「了解しました」
真昼。
結晶化した石ころを踏みしめながら歩いている。
アメリはなめらかに曲線を描くオパールの身体をたゆませ、仄かな燐光を鏤めた長い髪を後ろで束ねている。甘く柔らかいのに強い意志を放つ大きな瞳。
飽くことなくアメリを見つめていられた。
アメリが私の分身だと思おうと恍惚とした気分になる。
アメリが私の額ん手を翳すと、美しい手に光が灯る。
耳元に微かに遠くの喧騒が聞こえてきた。
追うようにミト君の声。
「真砂さん、聞こえますか?」
その声は寄せ返す波音に掻き消えることなく、こめかみの裏側に響く。
「うん、聞こえる」
「ちょっと驚きですよね、フィギュールで会話ができるなんて」
「まあ、そうだね」
「あれ、そうでもないですか?」
「うーん、不思議なんだけど、そういうことに慣れちゃって」
「それはわかります。今朝まで、こんな兵器みたいな能力が自分の延長上にあるなんて信じられなかった。でも、もう馴れてしまった自分がいる」
「そうそう、ほんと不思議だよねー」
これが本来の、あるべき私の姿だからだ、と思った。
「いまどこですか? 俺はまだ東京です。猫を預けて、敵のフィギュールを二体倒したばかりです」
「東北の浄土ヶ浜というところにいるよ」
「東北……もうそんなに遠くにいるんですか」
「うん、昨日の夜、電話したときもうここにいたの。倒した敵は十体かな」
「すごい、十体も……うーん、じゃあ合流はどうしますか?」
「アメリは、北海道の任務は一人じゃ無理だって言ってる」
「ね?」と少し俯いているアメリに促す。
「十中八九無理です。二人でも脅威だと感じるはずです。北海道に上陸する前に合流すべきです」
アメリの声をミト君が聞くのは少し新鮮だった。
「なるほど。アンリも同じ意見?」
このとき、ミト君は自分のフィギュールにアンリと名づけたのだと知った。
「同じです。アメリ、浄土ヶ浜のテリトリー内の状況は?」
アンリに尋ねられたアメリが答える。
「現在、私たちのテリトリーには敵のフィギュールは一体もいません。来栖ミトとアンリがやってくるまで、ここで身を隠します」
二人と二体を交えて会話するのはやはり奇妙だ。
アンリは男性の声で、アメリは女性の声。
フィギュールは能力だけでなく、外見や声色なども、認証した人間の属性を反映するのだ。個人のポテンシャルを文字通り結晶化したのがフィギュールなのかもしれない。感情の起伏は欠落しているけれど。
「真砂さんのフィギュールは声も女性なんですね」
「そうそう、自分の分身って感じだよね」
「なるべく早くそっちへ向かいます。アンリがいればすぐに到着できるかなと」
「うん。昨日くらいから疲れが出てきてるし、ホテルで休んでるの。あと、先に東京発ってたこと、黙っててごめんね」
「いえ、不慮の事故に遭ったのと同じですもんね。仕方ないですよ」
「お互いね」
接続を切って沖を見渡すと、空が黒雲に煙っていた。
そして私は目を見張った。黒雲が千切れた瞬間、現れたすきまが紫色に染まり、狂おしいほど光輝く銀河が迫ってきていたからだ。
ふいにぽつぽつと大粒の雨が顔に当たった。
見とれてる暇はない。急ごう。
結晶化した浜辺の石を蹴り、小走りにホテルへ向かった。
ホテルの手前で空が閃き、雷鳴が遅れて地を這うと、猛烈な勢いで雨が降り始めた。
私とアメリはミト君たちに嘘を吐いた。
アメリと口裏を合わせたのだ。
テリトリーに敵のフィギュールがいないのは、私たちが一体残らず倒したからだ。その数は十体などではなく、ゆうに百体を超える。
苦戦などしたことはなかった。
フィギュールを得てから半月、クダからクダへ渡りながら、襲ってくる敵を倒すだけではなく、自ら探し出して狩り尽くしたのだ。
私は狩り中毒になっていた。
こんなに狩りが楽しいなんて、フィギュールを手にしなければ理解できなかっただろう。
§
ホテルのロビーでは、私の多幸感に少し冷水を浴びせる事態が待っていた。ソファーに腰かけ、濡れた髪をハンカチで拭いていると、一人の男が傘を畳みながらロビーに入ってきた。
小柄で、オレンジの髪にベージュのパーカー、ブルーのスキニーデニムという恰好。胸には太い金のネックレスをしている。
一瞬、敵のフィギュール使いかと警戒するが、アメリの反応でそうではないとわかる。
「真砂リサさんですよね?」
男は私に気づくと、軽く会釈しながら声をかけた。
「そうですが、何かご用ですか?」
私は動揺することなく訊き返す。
「フィギュールのことで少し」
その言葉に身体が固まった。だが、表情を変えずにもう一度訊き返す。
「よくわからないのですが、用件は何でしょうか?」
「僕は敵ではありません。怪しいのは承知しています。でも、フィギュールの反応でわかりますよね? 少しだけ向こうで話しませんか?」
男は私の返事を待たずにホテルのバーへ向かって歩き出した。
立ち止まって、一度こちらを振り返り、当然ついてくるだろうと言わんばかりにまた歩き出した
テリトリーに侵入しても反応しない能力なのではないかと疑ったが、アメリに尋ねることはせずに、私の判断でついていくことにした。
バーは無個性な内装で、ランチタイムだったが、客はまばらだった。
奥のボックス席に腰かけ、互いに注文したアイスコーヒーを一口飲むと、男は表情を和らげた。
近くで顔を見ると、二十代前半くらいで、彫りが深く、薄いメイクをしていた。男は人懐っこい笑みを浮かべてこう訊いた。
「心配されてますよね?」
私は警戒を解かず、許容とも拒絶とも取れるため息を吐いた。
「単刀直入に申し上げるとですね、僕も上位世界から委託された人間です。じゃあ、真砂さんのように反製作者から偶然バトンを渡された人間かというと、そうではなく」
「あの」
動揺して腕を動かした拍子にコップを倒してしまった。
幸い服にはつかなかった。テーブルにできたコーヒーの水溜まりをナプキンで吸い取る。男もナプキンで吸い取るのを手伝った。
斜向かいの老夫婦がこちらを見ている。
ナプキンの山をテーブルの端に寄せながら、私は少し感情を露わにした。
「偶然ですか」
「例の認証カードは製作者側で厳重に管理されていたんですが、反製作者側が不正な手段でカードを入手して、この世界に通じるクダに流した。まあ、製作者側から見て不正、という意味ですが。認証カードって、一度クダに流れて認証されないままだと、二十四時間で消滅しちゃうんですね。そこでたまたまゴーストから手渡されたのがあなただったと」
「たまたまですか」
「すいません、お気に障りましたか。でも重要なのはここからで」
私は苛立ち、男の話を遮った。
「それで用件は?」
「申し遅れました。僕は八ッ橋といいます。ゴーストから刻印された力であなたを探し当て、ここへやってきました。真砂さん、あなたにお願いがあります」
八ツ橋は姿勢を正して言った。
「来栖ミト氏のフィギュールを入手するのに、協力してほしいんです」
八ッ橋は私の反応を待っている。
私は、ぼんやり店内を小さく流れるジャズに意識を集中させていた。
「僕にそれを依頼したゴーストって、製作者側でも反製作者側でもなく、民間の研究機関から派遣されたんですよ。まあ、彼らにとって、この世界が終わるかどうかはどうでもいい話でしょう。でも、この世界に流出したフィギュールが存在しているのは千載一遇のチャンスですからね」
「ミト君を売れってこと?」
「そうですね」
「それって私に何のメリットがあるんですか?」
「僕が制約を解除すれば、半永久的にフィギュールを使用できます。一度認証されたフィギュールは永遠に人間の核に残るんですが、使用については諸々の制約がある。例えば、任務が完了すれば、真砂さんのフィギュールは使えなくなります。しかしですね、上位世界の研究機関では、制約を解除することに特化した研究がすでに行われているんですね」
「よくわからないけど、面倒なことは苦手なタイプなので。それにあなたを信じていいものかわからないし」
「いえ、刻印を受けた僕なら解除は簡単にできます。まあやったことはないですけどね。僕も気持ちの整理がつかないままここに来たので」
「というと?」
「僕自身、半信半疑ですよ」
「はあ」
「つまり交換条件ですね。磔の庭には、世界で唯一上位世界に通じる巨大なクダがあります。任務完了直後、クダが閉じてしまう前に来栖ミト氏をそこへ送りこんでほしいんですよ。お願いしたいのはそれだけです」
それからさら一時間ほど八ッ橋と話した。
ゴーストに刻印された能力で、任務完了までの期間はアメリとアンリの位置情報を把握できるらしい。梯子を外された気分だ。
最後に一番疑問に感じたことを尋ねた。
「なぜ私のフィギュールではなく、ミト君のフィギュールなの?」
「それはですね」
八ッ橋は言いにくそうな表情を浮かべた。
「真砂さんのフィギュールは強すぎるんですよ。ゴーストによれば、一人で国家の武力に対抗できるレベルらしいです。ほとんど突然変異というか、研究機関も予想外だったでしょうね。研究のためと言えば聞こえはいいですけど、任意ではなく強制なので。とても手に負えない、と」
会計は八ッ橋が済ませ、先に店を出た。
任務が終わったら東京でお会いしましょう、健闘を祈ります、去り際にそう言い残して。
私がミト君を上位世界に送り込めば、八ッ橋にはゴーストを通じて十億の報酬が支払われるそうだ。
私は店に残り、店員に喫煙可かどうか確認して、煙草に火を点けた。
幼いころから私の身体の中心には大きな穴が空いていた。
塞いでも塞いでもぱっくり口を空ける不安の源泉。
それを完璧に塞いだのがフィギュールだ。
世界が終わってもべつにかまわない。
私という円環に欠落はない。埋めるべきものがない。
あるのはフィギュールと溶け合うときの快楽のみだ。
すでに世界からは大量の人間が消えている。
この世界に守るべきものなど、どれほど残っているのか?
でも母は何て言うだろう。
私がその期待に応えようと必死になっていた母。
母の顔さえ忘れてしまいそうだ。
ねえ、お母さん、私が任務を放り出したらどう思う?
私がカードを誰かに渡すのは事務的な手続きにすぎず、その相手がミト君だったのもたまたま見かけたからにすぎない。正直誰でもよかった。
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